第12話「宮廷書記官長との交渉:前編」
統一暦一二〇六年八月十六日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、エッフェンベルク伯爵邸。ラザファム・フォン・エッフェンベルク
王都に戻ってきたマティアスがイリスと共に屋敷を訪れた。
マティアスはいつも通りの優しい笑みを浮かべて、報告を行っていく。
「ラザファムの結婚の手筈は整いました。モーリス商会からは遅くとも十一月中にはすべての準備が終わるとのことで、十二月中旬であれば、問題ないとのことです」
五大侯爵家の令嬢とエッフェンベルク伯爵家の嫡男との結婚ということで、思っていた以上に大変だと実感している。
結婚の式典はフィーア教の神官の前での誓約の儀式に始まり、昼食、園遊会、そして夜の舞踏会と丸一日掛かる。
その式典には国王陛下を筆頭に、伯爵家以上の上級貴族のほとんどが参加する。また子爵家以下の下級貴族も百人以上参列し、付き人なども入れると三百人以上になるが、完璧な運営が求められるだけでなく、最高レベルの料理や酒、引出物が必要となるのだ。
また、その翌日に騎士団関係者や主要な家臣たちが参列する式を挙げる必要がある。そして、それが終わった後は互いの領地に行き、領民たちへのお披露目を行わなければならない。
やることが多すぎて、こういったことに疎い私では、どこから手を付けていいのかすら分からなかった。
「よくやってくれた。私だけなら未だに準備に手を付けられていなかっただろう」
父カルステンも同じ思いであったようで、マティアスに頭を下げる。
「家族として当然のことをしただけですから、お気になさらずに。それよりも宮廷書記官長に報告と、今後の相談をしにいかなくてはなりません。可能な限り速やかにそれを行い、今日中に陛下のご裁可までいただく必要があります」
「そこまで急ぐ必要があるのか……君も同行してくれるということでよいのかな?」
「はい。ラズの義弟として同行させていただきますよ」
その言葉に安堵する。
私と父だけでは宮廷書記官長であるメンゲヴァイン侯爵を説得できるか、自信がなかったからだ。
その後、父とマティアスと共に王宮に向かった。
マティアスには執事姿の
何を持っているのかと聞いたら、マティアスが教えてくれた。
「メンゲヴァイン侯爵閣下への手土産だよ。モーリス商会のライナルトさんが手に入れた、五百年ほど前の有名な彫刻家の作品だそうだ。リヒトロット皇国の皇室から買い取った由緒あるものらしいね」
現在王都では、リヒトロット皇国から流出した美術品がブームになっている。我が国の方が歴史は古いが、皇国は大国として長く大陸中部に君臨していたため、価値の高い美術品を多く有していた。
しかし皇国はゾルダート帝国との戦いで困窮し始めており、モーリス商会がそれを安く手に入れ、王都の上級貴族に売っている。うちは質実剛健を旨とするから買っていないが、ライナルトからイリスの結婚祝いということで、見事な絵画や磁器の壺などをもらっていた。
「そのような物が必要なのか……」
父は賄賂を渡すということに不満げな表情だ。
私も父と同じ思いで、顔を歪めてしまう。
しかし、マティアスは笑みを崩さない。
「これ一つで王国と伯爵家の未来が買えるのですよ。安いものでしょう」
「王国の未来……マルクトホーフェン侯爵に付け入る隙を与えないということか」
「ええ。メンゲヴァイン閣下が高潔な方でないことは周知の事実なのです。そして、領民に重税を掛けて手に入れた物ならともかく、私のポケットマネーで買える程度の物を贈るだけで、我々の思惑通りに動いてもらえるなら、合理的な判断と割り切るべきですよ」
ポケットマネーというが、恐らく数百万マルク(日本円で数億円)はするはずだ。モーリス商会から支援を受けているとはいえ、決して安いものではない。
「言わんとすることは理解するが、気持ちの良いものではないな」
父も金額のことが気になり、憮然とした表情のままだ。
「これもマルクトホーフェン侯爵との戦いなのです。負けることで多くの者が不幸になるのであれば、悪辣な手であっても使うことをためらうべきではありません。ラズ、君も笑顔を作れとは言わないが、不機嫌そうな表情はするな」
最後の言葉を言う時、彼の表情は真剣なものになっていた。
「分かっている。この程度の腹芸ができないなら、レベンスブルク侯爵家と縁戚関係を結ぶなと言いたいのだろ。私だって部下の前では演技をしているんだ。期待してくれていい」
私がそういうと、父も頷いた。
「そうだな。戦いだと割り切れば、できぬことはない。相変わらず、君の助言は的確だな」
そう言って表情を緩めていた。
メンゲヴァイン侯爵への面会はすぐに行われた。
マティアスが予め美術品を持っていくと連絡していたためだ。
執務室に入ると、マティアス以外に私と父がいることに、侯爵は驚いていた。
「エッフェンベルク伯爵が来るとは聞いていなかったが?」
マティアスは平然とした表情で「まずはお人払いを」とだけ告げる。
侯爵もマティアスが密談を要求していると気づき、配下の者たちを下げた。
「ありがとうございます。本日は閣下のお役に立つ、よい話を持って参りました。その前にこれをどうぞ」
そう言いながらユーダから預かった箱を渡す。
「リヒトロット皇家の秘蔵の品だそうです。素晴らしい物であるため、伯爵は自分よりも閣下に相応しいとお考えになられたようです。そうですね、義父上?」
「そ、その通りだ。リヒトロット皇国に伝わる由緒ある彫刻だと、モーリス商会の者が言っておりましたな。それで我がエッフェンベルク伯爵家より、名門メンゲヴァイン侯爵家に相応しいと考えたのですよ」
父は突然話を振られたが、何とかマティアスの思惑通りに答えることができた。
侯爵は普段付き合いがない我が家からの贈答品ということで、訝しげな表情で私たちを見ている。
「我々はマルクトホーフェン侯爵の暴走を食い止める同志なのですよ。それに伯爵もおっしゃっておられましたが、我々はメンゲヴァイン閣下を尊敬されているのです。その証がその皇家の秘宝なのですから」
その言葉で侯爵の表情が緩む。
「その通りだな」
しかし、すぐに表情を戻す。
「それで人払いまでさせて、どのような用件なのだ? 武の名門とはいえ、エッフェンベルク家が私の役に立つとは思えぬのだが」
メンゲヴァイン侯爵は配慮に欠ける人物だと知っているが、さすがにその言い方にカチンとくる。しかし、それを表情に出さないように表情筋を制御する。横をちらりと見ると、父も同じように無表情を貫いており、我慢しているのが分かった。
「現在、五大侯爵家のうち、王家に忠実な方は閣下以外にいらっしゃいません。マルクトホーフェン侯爵はもちろん、クラース侯爵も陛下を蔑ろにしていると断言できます。また、ケッセルシュラガー侯爵は自らの領地にしか興味はなく、レベンスブルク侯爵は王家に対する忠誠心はお持ちですが、力を失った状態です」
「そのようなことは分かっておる。何が言いたいのか、はっきりと言わぬか」
侯爵の恫喝にもマティアスは全く動じず、笑みを浮かべたまま話を続ける。
「閣下は来年には宰相に就任されると噂されており、恐らくその通りになるでしょう。そして、マルクトホーフェン侯爵が宮廷書記官長に就任します。重要なことは、マルクトホーフェン侯爵家にはグレゴリウス殿下がいらっしゃるということです。このまま宮廷に閣下の味方がいない状況では、不利になることは否めません。そこで、レベンスブルク侯爵閣下に復権していただく策を考えてまいりました」
「レベンスブルク侯爵を復権? 以前ならともかく、今のレベンスブルク侯爵家は伯爵家よりも力を持っておらん。寄子であった子爵家や男爵家も離れておるのだ。今更宮廷に席を与えても私の役に立つとは思えん」
侯爵はこの程度のことも分からぬのかと、小馬鹿にしたような表情を浮かべている。
「今現在は閣下のご認識通りでしょう。ですが、エッフェンベルク伯爵家と我がラウシェンバッハ子爵家がレベンスブルク侯爵家と縁戚になり、支援したらどうでしょうか? 武の名門としてノルトハウゼン家と双璧を成すエッフェンベルク伯爵家。そして、我がラウシェンバッハ子爵家は経済的に急速に発展し、商都ヴィントムントを含む王国東部に影響力を持ちつつあります」
マティアスの言っていることは正しい。しかし、侯爵は今一つ納得した表情を見せない。
「そなたの言わんとすることは分からんでもないが、今更レベンスブルク侯爵を担ぎ出す必要があるのか? 我がメンゲヴァイン家を支援すればよかろう」
その言葉にマティアスはニコリと微笑む。
付き合いの長い私には、彼が獲物を狙う猛獣のように見えた。
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