第11話「捕虜返還交渉:その三」
統一暦一二〇五年十月十八日。
ゾルダート帝国帝都ヘルシャーホルスト、白狼宮。エルンスト・フォン・ヴィージンガー
ゾルダート帝国の帝都ヘルシャーホルストに入り、捕虜返還の交渉を開始した。
一回目の交渉はこちらが条件を提示しただけで終わっている。
与えられた部屋に戻ると、すぐにミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵閣下が私に聞いてきた。
「帝国側はなぜ交渉を中断したのだ? 確かに金銭の要求だけで第二軍団の撤退を要求していないが、これは帝国にとって歓迎すべきことだろう。ならば、そのまま細かな条件の交渉に入ってもおかしくないと思うのだが」
この質問については、事前に見ていた対応方針書に記載があったので即座に答えるができた。
「有利になる点が気になったのだと思います。何か裏があるのではないか、罠が待っているのではないかと考え、それを確認するために時間が必要だったのでしょう」
「なるほど。自分たちは圧倒的に不利な状況のはずだ。それなのに自分たちにとって都合のよい条件で交渉してきた。何か裏があってもおかしくない。それにあのグレーフェンベルクが主導しているなら、悪辣な罠が潜んでいるのではないかと警戒した。そんなところか」
「おっしゃる通りです」
侯爵閣下の言葉に恭しく頷く。
対応方針書だが、宰相府の外交担当、ヴィリバルト・フォン・ルーテンフランツ子爵が出発の数日前に、私のところに持ってきたものだ。
『君は学術院を首席で卒業した優秀な者だが、外交交渉に関しては経験がなかろう。我々でできる限り考えてみたから、参考にしてくれたまえ』
子爵はマルクトホーフェン侯爵家に与していないが、グレーフェンベルクとも距離を置いている人物であると、王都を任されているアイスナー男爵から聞いていた。
王家に忠実だが、特に目立った能力もなく、人畜無害というのが男爵の評価だ。
その人物が手助けをしてくれることに疑問を持った。
『ありがたいことですが、宰相閣下からの指示ですか?』
子爵は苦笑しながら首を横に振る。
『宰相閣下はこのような配慮をされる方ではないよ』
『ではなぜ?』
『これは異なことを聞いてくるね。私たちも王国貴族の一員だよ。当然国を愛している。ここでマルクトホーフェン侯爵が失敗したら、せっかくの大勝利が無となってしまうのだ。そうならないように手を打っただけだよ』
宰相が無能なことは知っていたが、宰相府にもまともな官僚がいるのだと感心したことを思い出した。
ただ困ったことにその対応方針書は、子爵によって回収されている。
『万が一、帝国の手に渡ると大変なことになるからな。それに君の記憶力ならこの程度は覚えきれるだろう』
そう言われて納得したが、出発までに回収されるため、その後が大変だった。
方針書は二百枚ほどの紙が束ねられたものだが、細かな字でびっしりと書かれており、完全に記憶するのに三日ほど掛かっている。
兵学部で教本を暗記した時の方が楽だったと思ったほどだ。
そんなことを考えていると、侯爵閣下が質問してきた。
「だとすれば、帝国はどう対応してくるのだ?」
これも方針書にあったので笑みを浮かべて答えていく。
「恐らくですが、第二軍団の撤退の話はしてこないでしょう。その上で条件を呑むと言ってくる可能性が高いと考えます」
閣下は一瞬喜んだが、すぐに私を睨むように見る。
「帝国が素直に支払うと言ってくるということか? そのようなことはあり得んと思うが」
「まず、帝国はこの交渉に時間を掛けることができません。民の多くが第三軍団の敗北と、一万七千を超える兵士が捕虜になっていることを知っているからです。第三軍団には帝都出身者も多く、皇帝も無視することはできないでしょう」
「それは分かるが、帝国にそれほどの金はないだろう。引き渡しの条件を変えてくるということか?」
今の条件は王国が身代金を受け取り、請求通りの金額であることを確認した後に、捕虜を引き渡すことになっている。その条件では厳しいので、先に捕虜を引き渡せと言ってくるのではとお考えのようだ。
「条件の緩和を言ってくる可能性はあるかと思います。ですが、帝国の金を使わずに賠償金を支払う方法があるので、そちらを考えているのではないかと思っています」
「それはどのような方法だ?」
「リヒトロット皇国から賠償金を受け取り、それを我が国に回すという方法です」
閣下はそのことを考えていなかったのか、意表を突かれたという感じで目を丸くしておられる。
「なるほど……確かにその手があるな。ならば、私はそれを受け入れればよいのだな」
「それだけでは不十分です。閣下の功績とはなり得ませんので」
私の言葉にハッとして頷かれた。
「うむ。渋る皇帝を説得したのならともかく、早々に手打ちをしてきたのなら、宰相府の役人もいることだし、私の功績として誇るわけにはいかないか……ならば、他にどのような条件を付けさせるのだ?」
「皇帝から国王陛下に対する謝罪の言葉を引き出す必要がございます」
閣下の顔が僅かに歪む。
「謝罪の言葉だと……あの皇帝が素直に謝罪するとは思えん。それにそのようなことは条件に入っていないのだ。今更追加することは難しいのではないか」
この点は私も同意だが、最初から条件に入れておけば、結局閣下の功績にはならない。あえて追加で謝罪の言葉を言わせることに意味があるのだ。
対応方針書には皇帝からの謝罪を引き出すよう努力すべきで、そのためにどう言えばいいかまで具体的に書かれていた。
「だからよいのです。侯爵閣下のお力であの皇帝が謝罪した。その事実が閣下の名を高めることに繋がるのです」
「分からんでもないが……できるとは思えん……」
閣下は実現の困難さが頭を離れないようだ。
「先ほども申しましたが、帝国には時間がありません。ですが、我々は急ぐ必要など全くないのです。それに妥協できる条件も私の方から提示します。閣下は皇帝に対して堂々と交渉を行っていただければ十分でございます」
「うむ。卿がそう言うのなら、そうしてみよう」
私を信じてくださるようだ。
結局その日のうちに交渉は再開されず、呼び出しがあったのは二日後の二十日だった。
■■■
統一暦一二〇五年十月十九日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、王宮内。ヴィリバルト・フォン・ルーテンフランツ子爵
宰相府の執務室で仕事をしていたが、ふとカレンダーが目に入った。
(マルクトホーフェン侯爵たちが出発してから一ヶ月か。そろそろ交渉が始まった頃だな……)
私は外交担当であり、交渉の結果が気になるが、それよりも侯爵の若い腹心が思惑通りに動いてくれているのかが気になっていた。
(この方針書通りに動いてくれれば、極端に不利になることはないと思うのだが……)
そう考えながら、ヴィージンガーに見せた方針書を手に取る。
これはリヒャルト・フォン・ラウシェンバッハ子爵が渡してきたものだ。
『これは息子が作ったものだが、今回の帝国との交渉に役立ててほしいとのことだ。頼めるか、ヴィリバルト』
リヒャルトとは学院の初等部時代からの同級生であり、高等部では同じ政学部に学んだ仲だ。同じ子爵家ということもあり、ファーストネームで呼び合う間柄で、宰相府に一緒に入ったことから、家族付き合いもしている。
『マティアス君が作ったものか……それは興味深いな』
そう言いながら、その分厚い冊子をその場でパラパラとめくる。
目次を見ると、帝国の情勢から始まり、皇帝の性格や側近たちの立ち位置、帝国軍と国民との関係などが書かれており、更には交渉の場で使える想定問答集が付いていた。
『相変わらず君の息子は凄いものだな。だが、いいのか? これをマルクトホーフェン侯爵に見せれば、侯爵の手柄になるが』
『構わない。帝国との交渉に失敗されるより、侯爵が手柄を上げた方が余程マシだからな。但し、侯爵本人に見せるのではなく、側近のヴィージンガーにだけ見せるようにしてくれないか』
『それはなぜなんだ?』
私の問いにリヒャルトは肩を竦める。
『私にも分からん。息子が理由を教えてくれんのだ』
『そうか……中身を確認させてもらって問題がなければ、ヴィージンガーに渡すことにする。まあ、彼が作ったものに間違いがあるとは思わんが』
『その点は同意するよ。ただ、ヴィージンガーに見せた後、確実に回収してほしい。それが帝国の手に渡ると面倒だからだそうだ』
『了解した』
その時は軽い気持ちで受け取ったが、中を読み始めると驚きの連続だった。
緻密なまでの分析と、誰でも理解できる状況別の具体的な方策、更には代表である侯爵に対するケアまで事細かく記載されていたのだ。
(これほどのものをよく作ったものだ……)
読み終わった後に大きな嘆息が出た。
天才だと聞いていたが、私の想像を遥かに超えていたためだ。
その後、リヒャルトからの依頼通り、ヴィージンガーに手渡した。
これだけの内容を覚えきれるのかと不安に思ったが、メモを取ることすら禁じている。
『出発までの三日間で覚えてくれ。悪いがメモも禁止だ。万が一、帝国の手に渡ると大変なことになるからな。それに君の記憶力ならこの程度は覚えきれるだろう』
ヴィージンガーは神経質そうな表情の若者だが、私の問いに笑顔で大きく頷いた。
『もちろんですよ。この程度なら問題ありません』
三日後に回収したが、その時は自信満々の表情を浮かべていた。
『それにしてもこれは凄いですね。覚えるのは大変でしたが、その価値は充分にありました』
『我々も王国のために頑張ったのだよ』
そう言いながら苦笑しそうになるのを堪えていた。
『このことは侯爵閣下にお伝えします。帰国の暁にはお褒めのお言葉をいただけるでしょう』
この流れは不味いと思い、止める。
『このことは貴公の胸の中に収めておいてほしい』
『どういうことですか?』
不思議そうな顔をした。彼にしたらなぜ褒美がもらえる機会を逃すのかという思いがあったのだろう。
『ここで私の手柄になれば、その場では褒めてもらえるだろうが、手柄を横取りされたと侯爵に恨まれる。私としては王国内の権力争いに関わりたくないのだ。だから、貴公の手柄にしてくれた方がよいのだよ』
その説明で何とか納得してくれたが、このことはリヒャルトからの頼みでもあったし、私自身も言葉通りに権力争いに巻き込まれることを恐れている。
(上手くいってくれればいいのだが、あの若者はどうにも信じきれんな……)
そんなことを考えながら、帝都がある東に視線を向けた。
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