第4話「腹心」
統一暦一二〇五年九月十五日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンベルク、マルクトホーフェン侯爵邸。ミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵
御前会議から屋敷に戻ってきたが、時間が経つにつれ、グレーフェンベルクに嵌められたという思いが強くなる。
(全権特使と言えば聞こえはいいが、敵地に乗り込んで、あの切れ者と名高い皇帝と厳しい交渉をせねばならない。賠償金を値切られれば、すべて私の失態となる。交渉の打ち切りも同じだ。グレーフェンベルクは帝国側から交渉を決裂させるはずがないと言ったが、帝国の民が納得するように誘導すれば、交渉を打ち切ることは充分にあり得る。我が国が騙し討ちし、更に暴利を貪ろうとしていると言えば、愚昧な平民たちは皇帝の言葉を信じてしまうだろう……)
危機的な状況にあると思ったが、既に決定事項であり、今更覆すことはできない。
特にグレーフェンベルクの発案で、数日以内に王都を出発することが決まっており、仮病を使うことも、領地で問題が起きたという言い訳もできない。
もっとも仮病については、
帝都に向かうことが確定となったが、大きな問題があった。
それは随行員をどうするかということだ。
もちろん宰相府から外交担当の文官は同行するが、私には信頼できる腹心というべき存在がいない。王国ではなく、私個人や侯爵家の利益を追求するために、適切な助言を行ってくれる優秀な者がいないのだ。
候補がいないわけではない。
一人は父の代から王都での代理人を務めているコルネール・フォン・アイスナー男爵だ。
アイスナーは貴族間の調整から、ならず者を使うような汚れ仕事まで卒なくこなす優秀な男だ。しかし、父の腹心であったために使いづらく、今は距離を置いている。また、王国内の情報には詳しいが、これまで関係がなかった帝国の情報に精通しているとは思えない。
それにアイスナーは父の力を効果的に使って、王国貴族たちを操ってきた。その手は帝国相手には使えないから、役に立つかは未知数だ。
もう一人はエルンスト・フォン・ヴィージンガーだ。
まだ二十歳と若いが、高等学院兵学部を首席で卒業している秀才で、私が最も期待している者でもある。
しかし、アイスナーほどの狡猾さはまだ身に付いておらず、腹心というには心許ない。また、知識が軍事に偏っているため、外交交渉で役に立つか微妙だ。
(いっそのことラウシェンバッハを連れていくか。グレーフェンベルク自身が提案したことだ。反対はできまい……)
“千里眼のマティアス”と呼ばれているマティアス・フォン・ラウシェンバッハを随行員に入れるというアイデアを思い付いた。
しかし、すぐに危険だと思い直す。
(グレーフェンベルクの秘蔵っ子と言われているのだ。我が侯爵家を潰すためにあえて国益を無視してくる可能性は否定できん。ラウシェンバッハの
結局、ヴィージンガーを随行させることにした。それしか選択肢がなかったためだ。
(人材を確保しなくてはならんな。騎士団にねじ込んだ奴らも口ばかりで無能な奴ばかりだった……)
そこで父の顔が思い浮かんだ。
(父上のやり方が拙かったせいだ。自分とアイスナー以外は政治に関与させず、他の派閥からの引き抜きを、闇雲に行ってきた結果がこれだ。確かに数は力だが、もう少しまともな人材を確保しておいてほしかった。これからは我が侯爵家も家柄ではなく、実力で評価せねばならんな……)
以前なら父のやり方をまねるだけでも上手くいっただろう。父の時代には危険な政敵がおらず、無能な上級貴族だけを相手にしていればよかったからだ。
しかし、今はグレーフェンベルクという優秀すぎる政敵がいる。
また、ラウシェンバッハも若いながらも皇帝が警戒するほどの人物らしく、このままでは我が侯爵家が追い込まれてしまうのではないかと危惧を抱いている。
(これは父上に言っても仕方がないことだな。優秀な敵と戦ったことがないのだから……)
そんなことを考えながら、ヴィージンガーを呼び出した。
■■■
統一暦一二〇五年九月十五日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンベルク、騎士団本部。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ
御前会議が終わった後、グレーフェンベルク伯爵から呼び出された。
「上手くいったぞ! 君にもマルクトホーフェン侯爵の顔を見せてやりたかった。最初は澄ました顔をしていたが、全権特使に推薦したところで顔が引きつっていたぞ。今頃頭を抱えているのではないか。ハハハハハ!」
伯爵は上機嫌で笑っている。
「では、当初の予定通りになったということでよろしいですか?」
「その通りだ。マルクトホーフェンは二十日まで王都を出発することになる。だが、誰を連れていくかで頭を悩ましているはずだ。侯爵家は外交に関わってきたことがない。切れ者のアイスナーとて外交までは手を出せぬだろう」
マルクトホーフェン侯爵家は何人もの宰相を輩出した名家であり、代々の当主は外交交渉も行っていたはずだ。しかし、我が国の外交は同盟国との関係を確認するだけの場であり、大きな政策変更はなく、外交力が必要になることはなかった。
そのため、上級貴族たちの能力だけでなく、宰相府に外務官僚といえる文官は少ない。また、その少数の文官たちも儀式や慣習などの知識はあるが、本来の意味での外交交渉を行ったことがなかった。
「マルクトホーフェン侯爵閣下が困るだけならいいですが、我が国にあまりに不利になる条件では困ります。その点については閣下もご理解いただいていると思っていたのですが」
あまりに機嫌が良さそうなので嫌味を言っておく。実際、侯爵が取り返しのつかないような失敗をしたら、皇国救済という本来の目的が達成できなくなる可能性は否定できないのだ。
「分かっているよ。君が作ったあの交渉の方針書だが、明後日に侯爵の下に届くようにしてくれ。あまり早くても勘繰られるし、遅くては碌に準備もできんだろうからな」
マルクトホーフェン侯爵が無能だとは思わないが、これまで外交に携わったことがなく、皇帝やシュテヒェルト内務尚書にいいようにやられることを懸念していた。
これはこの方針を話し合った後、イリスが指摘したことだ。
『侯爵は王都とマルクトホーフェン侯爵領というごく狭い世界しか知らないわ。そんな人が世界を手に入れようとしている皇帝と渡り合えるかしら? 侯爵が失敗して国内の不安が取り除かれたとしても、帝国を強大にしてしまっては本末転倒ではなくて?』
その言葉を聞き、もっともだと思った。
そのため、ギリギリ妥協できるラインを決め、それを割り込むことがないよう、外務官僚の一人に方針書を授けている。
「分かりました。今回随行員に選ばれるであろうヴィージンガー殿の手に渡るよう密かに手配します。彼が腹心として重きをなしてくれた方が侯爵ご本人よりやりやすそうですから」
侯爵の腹心であるエルンスト・フォン・ヴィージンガーに手を回し、王国が一方的に不利になる条件で手を打たないように誘導させる。
ヴィージンガーは兵学部を首席で卒業した秀才で、抜群の記憶力を持っている。その彼に私が想定しうる限りの対応方針を覚えさせ、侯爵をサポートさせるのだ。
マルクトホーフェン侯爵に塩を送る形だが、これでヴィージンガーが重用されれば、侯爵派の弱点となり得るので、それほど痛手ではない。彼の記憶力はすべての教本を暗記できるほどだが、残念なことに応用力がなく、単に記憶装置として優秀なだけだからだ。
「それにモーリス商会にも手を回していますから、上手くいけばこちらの思惑通りに動く可能性もあります。まあ、こっちは時間が掛かりますから、過度な期待はしていないのですが」
「そうだな。いずれにしても目的は皇国を救うことだ。それさえ上手くいけば、他のことはとりあえず目を瞑っても構わんと思っているよ」
「おっしゃる通りです」
私はそう言って、伯爵の言葉に頷いた。
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