第66話「伝達」
統一暦一二〇五年九月七日。
グライフトゥルム王国東部ヴェヒターミュンデ城、城主館前。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ
捕虜に対する方針は決まったが、まだやることがあった。
それは対岸に残っている第三軍団長であるザムエル・テーリヒェン元帥と第二師団への対応だ。
テーリヒェン元帥も第一師団と第三師団が降伏したことは気づいているだろうが、捕虜がどうなるのか気になっているだろう。
浮橋もないし、渡河用のボートもないので、強引な手段に訴えることはできないが、身代金を請求する話を彼のところからも帝都に報告するように仕向けたいと考えている。
そのために一度交渉の場を設ける必要があった。
「テーリヒェンとの交渉は私が行えばいいのか?」
クリストフ・フォン・グレーフェンベルク伯爵が聞いてきた。
「ホイジンガー伯爵閣下にお願いするつもりです。騎士団内での地位的にも爵位的にも閣下の代理が充分に務まりますので」
「マンフレートに不満があるわけではないが、総司令官である私が交渉の場に出た方がよいのではないか? 敵将を呼びつけることになるのだから、危険は少ないと思うのだが」
今回はこちらが勝利したのだから、敵将を呼びつけることになる。そのため、ナンバーツーに当たるマンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵ではなく、総司令官であるグレーフェンベルク伯爵が交渉の場に出た方が自然だ。
しかし、私としては総大将であるグレーフェンベルク伯爵はできれば出したくないと考えていた。
「閣下には帝国軍に対しては可能な限り露出を抑えていただき、謎の名将のままいていただきたいのです」
「敵にできるだけ情報を与えないというためか」
「それもありますが、閣下が姿を見せなければ、敵は何か企んでいるのではないかと疑心暗鬼に陥ります。そうなれば、第二師団をここに拘束することができますし、情報が届けば、ゴットフリート皇子も警戒するでしょう。それに閣下にはすぐにでも王都に向かっていただき、国王陛下を説得していただかなくてはなりませんから、ここで時間を費やすことは避けたいと思っています」
伯爵の顔に苦笑が浮かぶ。
「だんだん私の虚像が大きくなる気がするが……分かった。王都に行かねばならんし、交渉はマンフレートに任せよう」
対岸に軍使を派遣し、第一師団と第三師団が降伏したこと、捕虜として拘束していること、捕虜返還の条件を伝えるため、交渉の場に責任者を派遣することを伝えさせた。
帝国側からはすぐにでも交渉したい旨が伝えられ、水軍のガレー船の上で行われることが決まった。
帝国がガレー船の上という条件に難色を示すかと思ったが、即座に認めたと聞いている。
帝国軍の代表は第二師団長のホラント・エルレバッハ将軍だった。
軍団長であるテーリヒェン元帥が来るかと思ったが、予想を覆されている。こちらとしては即決できる軍団長ではないので、引き延ばしができるからいいのだが、違和感があった。
私もホイジンガー伯爵の随行員の文官に扮して、ガレー船に乗り込むことにしていた。
■■■
統一暦一二〇五年九月七日。
ゾルダート帝国国境シュヴァーン河、ガレー船上。第二師団長ホラント・エルレバッハ将軍
第一師団と第三師団が降伏した。
王国軍の軍使からはケプラー殿が戦死し、一万四千五百名ほどの兵士が捕虜となったと伝えられる。
捕虜返還のための条件が提示されるということで、私が第三軍団を代表して交渉の場につくことになった。
当初はザムエル・テーリヒェン元帥が自ら出向くと主張したが、軍団長まで捕らえられるわけにはいかないと説得した。
もっともこれは口実だ。王国軍が元帥を捕虜にする可能性は皆無だが、彼が交渉の場に出ても役に立たない。角が立たない言い方で、私が代わったのだ。
万が一私が捕らえられても第二師団は撤退するだけだから問題はないし、王国軍が暴挙に出てくれた方が我が軍の兵士たちの士気が上がるので、やってもらいたいくらいだが、グレーフェンベルクはそこまで愚かではないので身の危険はほとんど感じていない。
ガレー船は長さ二十メートルほど、幅四メートルほどと大きなものではないので、私を含め帝国側は五名しかいない。
王国軍が用意したボートに乗り込み、ガレー船に向かう。
三百メートルほどしか離れていないのですぐに到着するが、そこには四十歳くらいの中肉中背の将が五名ほどの部下を従えて待っていた。
「帝国軍第三軍団第二師団長ホラント・エルレバッハだ。貴殿がグレーフェンベルク伯爵ですかな?」
私の問いにその将は首を横に振る。
「小官は王国騎士団第三騎士団長マンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵だ。グレーフェンベルク伯爵から全権を任されている者だ」
王国の名将グレーフェンベルク伯爵に会えることを楽しみにしてきたが、さすがに警戒しているようだ。私が刺し違えれば、王国の命運は尽きるからだが、それだけが理由なのか疑念を抱いている。
王国側がこの場を指定してきたが、船の上ではなく、対岸の王国領内を指定してくることもできた。我が軍は敗れ、多くの同胞の命運を握られており、拒否することができない立場だ。その程度の要求は飲まざるを得ない。
陸上なら兵士を多く配置し、互いの席の距離を離せば、暗殺の成功率は著しく下がるから、グレーフェンベルクが出てきても問題なかったはずだ。
そのため、姿を見せないことに違和感を覚えていたのだ。
そのことは表情に出さず、用意された椅子に座る。
小型の船ということで不快な揺れを感じるが、川面を流れる風が思った以上に心地よい。しかし、すぐに意識をホイジンガーに戻した。
「では、我が軍の兵士の返還の条件だが、どのようなものなのだろうか」
単刀直入に切り込む。ホイジンガーが部下に目配せすると、一枚の紙を手渡された。
「そこに書いてある条件となる。もっとも国王陛下のご承認をいただいたものではないから、今後変更になる可能性はゼロではないが、それより条件が緩和されることはないだろう」
ホイジンガーの声を聞きながら、書面を見ていく。
「捕虜の総数は一万七千四百二十名。兵士一名につき、ご、五万
軍団には交渉を行う権限があるが、これほど巨額の賠償金を支払う約束などできない。
「もちろん、軍団長に権限がないことは理解している。急ぎ帝都に報告し、対応することを推奨する」
ホイジンガーは表情を一切動かさずに言い切った。
「ここから帝都まで千三百キロメートルもあるのだ! 早馬を飛ばしても往復で一ヶ月半は掛かる。その間、我が軍の兵士たちはどうなるのだ」
「貴国兵士については適切に対応する。但し、我が国に対して敵対的な行動を採る場合は、処刑を含めた厳しい処分を下す」
「他の条件では交渉できぬのか。それだけの金を用意することは容易ではないことは貴殿にも理解できよう。皇国からの撤退、フェアラートの割譲、他の条件があるなら提示してもらいたい」
私の言葉にホイジンガーは右の眉を少し上げ、僅かに口角を上げた。
「陛下のご裁可をいただき次第、しかるべき地位の者を派遣されることになるから、その者と交渉することになるだろう。そもそも皇国からの撤退を約束したところで再び軍を興せばよいと考えているのではないか? フェアラートも同様だ。あの守りにくい町を一時的に渡したとしてもいつでも取り返せると思っているのであろう」
ホイジンガーもグレーフェンベルクと同様に優秀な男のようで、こちらの思惑を正確に洞察している。
「ならば仕方がない。我々に兵を取り返す術はないのだ。貴国の恩情に縋るしかないだろう」
「それが賢明であろうな。歴史ある王国として不名誉なことは行わぬ。それを信じてもらうしかないな」
彼やグレーフェンベルクほどの男が、捕虜を無為に殺すことはないと感じた。
しかし、別の懸念が生まれている。捕虜を殺すより、もっと我が国に痛手を与える方法を考えているのではないかということだ。
その後、遺体の返還や捕虜の名簿の確認などの事務的な話を行った。
遺体は既に装備を外され、川岸に並べられている。ケプラー殿の遺体は軍旗に包まれていた。
「お心遣いかたじけない。遺体は可能な限り早急に引き取らせていただく」
「こちらも水軍に輸送を命じよう。この時期では遺体が傷むのが早いからな」
王国軍としても遺体の処理に頭を悩ませていたようだ。
「話は変わるが、第三師団長のリップマン卿と会うことはできないか? 捕虜の責任者となるのだから、帝都に至急連絡し、一刻も早く解放すると伝えたいのだが」
「会うことは可能だが、リップマン将軍は兵たちとは別行動となる。これは他の士官も同様だ。貴軍の優秀な指揮官を兵と一緒にしておくような危険なことはできぬからな」
捕虜を取ってからまだ数時間しか経っていないが、既にそこまで検討していることに驚きを隠せない。
それでもリップマン殿とは一度話しておく必要があり、ホイジンガーとの会談の後に対岸に向かった。
リップマン殿は疲れた表情を浮かべていたが、私の姿を見て笑みを浮かべた。
「我々の解放の目途が立ったということですかな」
「いや、王国の要求は軍団で対応できるようなものではありませんでした。ご不便をおかけしますが、しばらくは虜囚の身となります。ですが、必ず兵たちを含め、全員が帰国できるようにしますので、希望はお捨てにならぬように」
リップマン殿は肩を落としたが、それでも大きく頷いた。
「よろしく頼みます」
本当は王国軍について聞きたかったが、監視の騎士が後ろに控えているため、これ以上話すことはできなかった。
軍団に戻ると、テーリヒェン元帥が待っていた。
先に戻らせた部下から王国が提示した条件を知り、激怒していることが分かる。
「あのような条件を突き付けられて黙って引き下がってきたのか!」
「では、どうすればよかったのですかな。我々に捕虜を救う術はないのですぞ。王国軍の機嫌を損ねれば、その付けを払うのは捕虜たちなのです。小官としてはすぐにゴットフリート殿下及び皇帝陛下にこの情報を届けるべきだと愚考いたします」
元帥もやれることはそれしかないと気づいており、わなわなと拳を震わせている。
「これは小官からのお願いですが、早まって自裁などなされぬようにお願いします。自裁されるのならば、せめて捕らえられた者が帰国してからにしていただきたい。それが元帥の地位にある方の責任だと思いますから」
私はそれだけ言うと、彼の答えを聞くことなく、部下たちの下に向かった。
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