第65話「交渉の方針」
統一暦一二〇五年九月七日。
グライフトゥルム王国東部ヴェヒターミュンデ城、城主館。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ
ヴェヒターミュンデの戦いが終わった。
ゾルダート帝国軍第三軍団の第一師団と第三師団は降伏し、午前中に武装解除を終えた。
帝国軍の戦死者は約四千人、負傷者は約九千人と、軍組織としては壊滅状態といっていい。
一方の王国軍はフェアラートからの撤退戦を含めても、戦死者は約三百人とほぼ同数の敵と戦った割には圧倒的に軽微だ。
負傷者は意外に多かったが、王国騎士団は優秀な治癒魔導師を多数用意しているので、そのほとんどが今日中に復帰できるだろう。
王国軍側の治療が終わり次第、帝国軍側の負傷者の治療となるが、数が多く、いつ終わるか分からない状況だ。
捕虜の数は約一万四千五百。フェアラートの守備隊を加えると一万七千人を超える。それだけの数の捕虜をどうするかが大きな課題だ。
総司令官であるクリストフ・フォン・グレーフェンベルク伯爵、参謀長であるエルヴィン・フォン・メルテザッカー男爵らと協議を行っている。
「これだけの数の捕虜を得たことなどない。どうしたらよいのか想像もできん。マティアス君、まずは君の考えを聞かせてくれ」
伯爵がお手上げという感じで聞いてきた。
「今は敗戦のショックで大人しいですが、目の前に帝国領がありますから、ここに長期間置いておくことは危険です。王都への報告と内地への移送の許可を得たらすぐに移動させるべきでしょう」
「先ほどの話ではラウシェンバッハ子爵領に送るということだったが、具体的にはどうやって移送するのだ?」
「二個騎士団で監視しながらヴィントムントまで移送し、そこからはエンテ河を使ってラウシェンバッハ子爵領に送ります。その間に獣人族の入植地に近い場所に収容所を作り、獣人族に監視を依頼します」
獣人族は三万人ほどおり、そのうち半数が戦士として戦える。そのうち三千人ほどは黒獣猟兵団と同程度の能力を持つ精鋭であり、暴動を起こしても鎮圧は容易だ。
また、視覚や嗅覚などに優れているので、彼らの目を盗んで脱走することは難しい。更に私に対する忠誠心が強いため、裏切る恐れはなく、脱走を手引きすることはあり得ない。
「当初の予想より捕虜が多い。これだけの数の兵士を移動させるだけでも危険を伴う。第三軍団と交渉して解放すればよいのではないか? 帝国の軍団長には独自に交渉する権限があったと思うが」
外征軍である各軍団の軍団長は他国政府との予備交渉を行う権限を持っている。これは帝都までの距離を考慮し、タイムラグによる交渉の長期化を防ぐためだ。そのため、軍団長が捕虜の処遇や税の減免などの交渉を可能としている。
「交渉は帝国政府と行います。第三軍団と交渉しても我々にメリットはありませんから」
「確かにヴェストエッケの時のように軍馬を要求しても意味はないな。そうなると賠償金も手に入らんし、メリットがないというのは分かるが……だが、帝国政府と交渉するとなると時間が掛かるな。何とかならんものか」
レヒト法国軍との戦いでは、二千人の捕虜を得たが、その際は軍馬四千頭と交換し、解放している。しかし、四千頭でも持て余した。そのことを思い出したのだろう。
それでも渋っているのは、大量の捕虜を王国内に引き入れることの危険性を気にしているためだろう。
「今回の作戦の目的を思い出してください。我々はリヒトロット皇国を守るために、わざわざ帝国軍をここに引き付けました。元々の作戦では第三軍団をここに引き付けておき、その間にゴットフリート皇子を貶める情報操作を行って撤退させる予定でした。もしここで捕虜を解放したら、彼らは皇都攻略作戦に戻るので意味がなくなります」
「確かにそうだな。ならば、皇国からすべての帝国軍を撤退させることを捕虜返還の条件とするということだな」
伯爵の言葉に首を横に振る。
「それでは帝国の力を削ぐことができません」
「それはそうだが、捕虜を返さなければ、皇都攻略作戦はそのまま続けるのではないか?」
「今回は運よく第三軍団の三分の二を無力化することができました。いかに戦争の天才であるゴットフリート皇子であっても、戦力が減った状態では今の膠着状態を変えることは容易ではないでしょう」
「うむ」
「それに今回の勝利が伝われば皇国軍の士気は上がりますし、逆に帝国軍の士気は下がるでしょう。これで皇都攻略はより困難となります。ですので、時間を稼ぎつつ、この情報を帝国内に拡散させ、皇帝が皇都攻略作戦を中止するように誘導します。そのためには皇帝に敗戦を認めさせなければなりません」
「敗戦を認めさせる……具体的には?」
「賠償金として捕虜の身代金を要求するのです。我々は一万七千人以上の捕虜を得ました。仮に一人当たり五万マルクとすれば、八億五千万マルクにもなります。これを帝国マルクではなく、
「八億五千万マルク……」
ちなみにゾルダート帝国とレヒト法国、オストインゼル公国は独自の通貨を発行しているが、いずれも信用力がなく、国内でしか使われていない。
一ツンフトマルクは日本円で百円ほどであるため、八億五千万ツンフトマルクは約八百五十億円に相当する。
八億五千万ツンフトマルクの規模感だが、ゾルダート帝国の国家予算の七パーセント、軍事費の五十パーセント弱に当たる。それだけの金を賠償金として要求することになるのだ。
「帝国政府はこの要求を拒否するはずです。そもそも帝国の国庫にそれだけの
私の説明にグレーフェンベルク伯爵たちはポカンと口を開けている。
「つまり、王国としては帝国に対して賠償金を要求し、そのことを帝国内に広め、皇帝を追い込んでいくということだな」
「その通りです。これは帝国に対して有効なだけではありません。王国内でも役に立ちます」
「王国内で? 軍制改革を更に進められるということか?」
伯爵は首を傾げている。
「それもありますが、閣下は連戦連勝の帝国軍を完膚なきまでに叩きのめしたのです。その名声を利用し、マルクトホーフェン侯爵派を切り崩し、王国内の不安定要素を排除しましょう」
「また私の虚名を使うのか……」
伯爵はそう言って苦笑している。
そこでイリスが疑問を口にした。
「帝国政府と交渉すると言っても、誰が交渉に行くのかしら? 言っては悪いけど、我が国に帝国の優秀な役人と交渉できるような文官はいないのではなくて?」
彼女の言う通り、この国の文官は伯爵以上の上級貴族が国政を動かしている。しかし、宰相であるクラース侯爵を含め三流の政治家ばかりで、皇帝コルネリウス二世やシュテヒェルト内務尚書などの優秀な政治家と渡り合える人物はいない。
「マルクトホーフェン侯爵閣下にお願いしてはどうかと宰相閣下に提案しましょう。侯爵は若いながらも優秀な政治家ですし、交渉も上手いですから、宰相閣下も活躍の場を与えられると賛成してくださるでしょうから」
私の言葉に全員が目を丸くしている。
「侯爵だと!? そもそも自分の利益になることしかしない男だ。そんな奴に任せては賠償金を得るどころか、帝国軍の撤退すら怪しくなるのではないか?」
伯爵が驚きの声を上げる。
「帝国軍の撤退は情報操作で誘導するつもりですから、問題はありません。賠償金の話は王都で大々的に広めるつもりですから、帝国に有利な条件になったら侯爵閣下の評判を落とせます。そのくらいのことは侯爵閣下も理解しているでしょうから、自らの功績とするために必死に交渉するはずです」
「だけど、交渉を成功させたら、マルクトホーフェン侯爵の力が増すことにならないかしら? 藪蛇にならないか不安だわ」
イリスの言葉に私は首を横に振る。
「相手は皇帝と内務尚書なんだ。それにマクシミリアン皇子も加わるだろうから、侯爵では太刀打ちできないよ」
「そうかもしれないけど……」
「今回の敗戦の最大の要因は、皇帝がテーリヒェン元帥を第三軍団長にしたことだ。枢密院の元老たちもそのことは理解しているだろうから、皇帝の力を削ぐために必死に追及する。皇帝も権力基盤を維持するために、あらゆる手段を使って敗戦の衝撃を和らげようするだろう。第一、あの皇帝を相手に有利な条件で交渉をまとめられるなら、マルクトホーフェン侯爵は既に王国の権力を完全に掌握しているはずだよ」
ミヒャエル・フォン・マルクトホーフェン侯爵は二十五歳と若く、父親であるルドルフが未だに権力を握っている。もっともこれまでの対応から、なかなか侮れない人物と分かっており、早めに潰したいと思っていた。
もっとも今回は完全に失敗させるつもりはなく、モーリス商会にサポートさせるつもりでいる。
「意地が悪いわね」
イリスはそう言って笑うが、すぐに真剣な表情に変える。
「でも侯爵が皇帝に取り込まれる可能性を考えた方がいいわ。侯爵も難しい交渉だと分かっているでしょうから、国を売ることも考えられるわ。侯爵と皇帝が密かに手を結べば危険よ」
その可能性があると思い、大きく頷く。
「その点は考えていなかったね。ただ、皇帝と侯爵の双方が国内に対してアピールできる条件はない。どちらかが譲歩するか、両方が譲歩するしかあり得ないんだ。不利な条件でも有利だと言い張るかもしれないけど、そこは論破すればいいし真実をリークしてもいいから、大きな問題にはならないと思う」
「いずれにしても急ぎ王都に戻らねばならんな。マティアス君も一緒に来てもらうぞ」
「そのつもりです。まあ、今日の夜くらいは羽を伸ばさせていただきたいですが」
「それで構わんよ。私も兵たちと一緒に勝利を祝いたいからな」
そう言って伯爵は笑った。
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