第62話「ヴェヒターミュンデの戦い:その四」

 統一暦一二〇五年九月七日。

 ゾルダート帝国国境シュヴァーン河河畔。第二師団長ホラント・エルレバッハ将軍


 テーリヒェン元帥と別れた後、休息を摂るため天幕に入った。装備は外さず、仮設の寝台に身体を預けると、思った以上に疲れていたようで、すぐに眠りに落ちた。

 しかし、そのひと時の休息はすぐに終わりを告げた。


「お休み中申し訳ございません! 敵の水軍が接近してきました! 正確な数は不明ですが、大型のガレー船が五隻以上、小型のボートが三十隻以上いることは間違いなく、浮橋の守備部隊の指揮官からどうすればよいか指示願うとのことです!」


 副官の焦りを含んだ声で、夢の世界から一気に現実に引き戻された。


「矢を射かけて浮橋に接近させるな! 敵は焼き討ち船をぶつけてくるはずだ! 橋の上で水を掛ける準備をしておくのだ!」


 副官にとりあえずの命令を伝え、走らせる。

 私も剣を持ち、川岸に向かった。


 既に休息を摂っていた兵たちも叩き起こされており、陣内は慌ただしい雰囲気に包まれている。しかし、この程度で混乱することはなく、訓練通りの秩序を保っていた。


 浮橋のたもとに到着すると、シュヴァーン河の川面に数十の灯りが浮かんでいるのが見えた。


「何が起きた!」


 後ろからテーリヒェン元帥の声が聞こえた。


「敵の水軍による奇襲のようです。対応を命じましたが、想像以上に数が多く、焼き討ち船を突入させられたら、浮橋を失う可能性は否定できません」


 焦っている元帥がパニックにならないよう、可能な限り冷静に聞こえる声で説明する。


「浮橋を失うだと……対岸にいる兵たちをどうすればよいのだ……」


 私の努力は意味がなかったようで、元帥はパニックに陥っていた。

 ここでこちらから指示を出しても現場の混乱を招くだけだ。


「既に対岸にも伝令は出していますし、ケプラー殿とリップマン殿にも敵の水軍は見えているでしょう。こちらから指示を出せば混乱を招く恐れがあります。それならば、彼らの判断に委ねるべきでしょう」


 ケプラー殿もリップマン殿も歴戦の指揮官であり、パニックになった元帥が出す不用意な命令より、彼ら自身が考えて動いた方が遥かにいい。


「そ、そうだな……浮橋を失えば、二万の兵が孤立する……エルレバッハ卿、何か打つ手はないか?」


「敵を近づけないように矢で牽制しつつ、焼き討ち船が浮橋に接触したら水を掛けて消火するしかないでしょう。木でできている浮橋とはいえ、水に浸かって湿っております。そう簡単に火が回るとは思えません」


「なるほど」


 元帥もようやく落ち着きを取り戻してきたようだ。


「あるとすれば、敵がロープを切断しに掛かることです。ガレー船で強引に押し込めば、ロープは耐え切れないでしょう」


「確かに……」


 元帥が何か言いかけたが、それを強引に遮り対処方法を提示する。


「ですが、浮橋さえ回収しておければ、水軍が去った後に再度架け直すことは難しくありません。回収を優先するように命じるべきでしょう」


「確かにその通りだ。すぐに命令を出してくれたまえ」


 私の言葉に元帥も納得してくれたようだ。


 対処方法を説明し、元帥は問題ないと考えたようだが、私には懸念があった。

 そもそもシュヴァーン河の王国水軍は、二百キロメートルほど上流のリッタートゥルム城に配置されている。


 我々がフェアラートに攻撃を掛け、渡河を行ったのは昨日で、まだ二十時間も経っていない。このタイミングで奇襲を掛けてきたということは、予め水軍を待機させていたということだ。


 つまり、敵将グレーフェンベルクは、我が軍がこのタイミングで渡河するように誘導したと考えるべきだろう。


 それほどの知恵者が浮橋を完全に使えなくしないはずがない。

 恐らく私には見えていない策があるのだろう。つまり、対岸にいる二万の同胞は危機的な状況にあるということだ。


 そんなことを考えていたが、元帥には伝えていない。

 伝えたところで再びパニックに陥り、無謀な命令を出すだけだろう。それならば、我が師団に被害が及ばないようにする方が建設的だ。


 一個師団一万の兵があれば、王国軍も我が国に攻め込むことをためらう。そうであれば、交渉の余地は出てくるだろうし、皇国への援軍を防ぐこともできる。


 水上での戦いは激しいようだが、灯りの魔導具の光が川面に映り、幻想的ともいえる光景を作り出している。


「敵が船に火を放ちました!」


 副官が見えていることをわざわざ報告した。彼としても報告というより、思わず声に出してしまったというところだろう。


 敵の焼き討ち船は見える範囲でも三十隻以上。対する我が軍の小型船は十隻あったが、既に半数以上が沈められている。


 焼き討ち船は油でも撒いてあるのか、数メートルの高さまで炎を上げて浮橋にぶつかっていく。我が軍の兵士が竿で抑えようとしているが、そこにガレー船から矢が放たれ、その兵士たちが次々と打ち倒されていった。


「不味いのではないか」


 元帥が聞いてきたが、独り言だと判断して川面に視線を向けている。

 数隻の焼き討ち船が浮橋に完全に食い込んだ。兵士たちが必死に水を掛けて火を消そうとしているが、炎が衰えることはなかった。


「浮橋に火が……」


 接触した焼き討ち船から浮橋に炎が移った。

 すぐに浮橋からも炎が立ち上っていく。


「火の回りが異常に早い。何か仕込まれていたのか?」


 浮橋は木の板を組み合わせただけの小型の船で、揺れた際に船の中に水が入らないよう、上面に帆布が掛けられていた。帆布には防水のために油が塗り込まれているが、布に過ぎないため、あれほどの炎を上げることは不自然だ。


 恐らくだが、帆布の下に燃えやすい物が仕込んであったのだろう。我々は敵が置いていった浮橋を何の疑いもなく使ったが、巧妙な罠だったようだ。


「どうなっておるのだ! 浮橋が燃えているぞ! 何とかするのだ!」


 元帥が喚いているが、私はそれを無視して伝令に命令を伝えた。


「浮橋にいる者は直ちに東岸に撤退! 急いで伝えるのだ!」


 既に上流側の浮橋は数箇所で炎が上がっており、撤退できるかは微妙だ。下流側はまだ火が回った様子はないが、上流側のロープが焼き切れれば、燃え移るのは時間の問題だろう。


「撤退してどうする! 友軍を見捨てるつもりか!」


「浮橋が二本とも破壊されることは確実ですし、第一師団、第三師団が撤退できないことも同様です。この状況では我が第二師団の損害を抑え、王国軍に睨みを利かせる方がよいと判断しました」


 元帥は私を睨みつけているが、私の言っていることが正しいと考え、反論してこない。


「グレーフェンベルク伯爵はここまで見通していたのです。この先は我が国に少しでも有利になるように動くべきと考えます」


「具体的にはどうしろというのだ」


「まず王国軍と休戦しましょう。その上で第一師団と第三師団に王国軍に降伏するよう命じるのです」


「降伏だと……ここ数十年、帝国軍が降伏したことはなかった! そのような不名誉なことを命じろと貴様は言うのか!」


 元帥は感情的に叫ぶが、私はそれに応じず、冷静さを保つ。


「この状況でできることがあるなら、ご命令いただきたい。今は我が軍の精鋭を一人でも多く帰国させることが重要ではありますまいか。このままでは、我が国は常備軍の二割を失うことになるのです」


「あの者たちならヴェヒターミュンデ城を攻略し、生き延びてくれるはずだ! 二万の精兵が決死の覚悟で攻撃を加えて落ちぬ城などない!」


 元帥が希望的観測というより、願望を喚き散らしている。


「グレーフェンベルク伯爵はそこまで甘くはありますまい。決死の覚悟で攻撃してくることも想定しているはず。そもそも王国が大量の捕虜を欲しているとは思えません。彼らにしてみれば、我が国の戦力を消耗させることこそが自国の安全に直結するのです。ですから、守りに徹し、食糧が尽きるのを待てばよいと考えるでしょう」


 どのような手段を使ってくるかは分からないが、対岸は王国領なのだ。予め何らかの策を仕込んでおいてもおかしくはないし、橋頭堡には一日分程度の食糧しかないから、兵糧攻めは非常に有効な手段だ。


「だからといって……」


 元帥は頭を抱えて悩み始めた。

 私は対岸を見ながら、敵将のことを考えていた。


(恐ろしい敵だな、グレーフェンベルク伯爵は……これでリヒトロット皇国攻略作戦は失敗に終わる。戦略目的を達した上で、今後を見据えた大胆な策を実行した。数百キロメートルという距離があるから、一つ間違えば王国にとって危機的な状況になる可能性もあったにもかかわらずだ。私も知将と呼ばれることがあるが、彼と比べたらおこがましいどころではないな。しかし、彼が我が国の最大の障害になることは間違いない……)


 そんなことを考えながら、二本目の浮橋が炎上しながら切れていく様子を見つめていた。

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