第36話「ケプラーの疑念」
統一暦一二〇五年八月十二日。
リヒトロット皇国中部グリューン河流域、ナブリュック市対岸。ザムエル・テーリヒェン元帥
西の国境フェアラートの守備隊から驚くべき情報が届いた。
「ハァハァ……ぐ、グライフトゥルム王国軍が、と、渡河を開始しました。に、日時は八月、八日の、早朝……その数は一万以上……しゅ、守備隊は妨害攻撃を加えようと、しましたが、南から敵が迫り撤退しました。だ、大至急、救援を……ハァハァ……」
早馬を飛ばしてきた若い伝令は息も絶え絶えで報告する。
「南からということは、リッタートゥルムで渡河した部隊がいたということか?」
「お、恐らくは……隊長の命令で早馬を飛ばしてきたため、私は直接見ておりません」
伝令は私の問いに確信をもって応えることができず、下を向いてしまう。
「そうか……ご苦労だった。ゆっくり休んでくれ」
これで仕事が終わり安堵するかと思ったが、伝令はしっかりと顔を上げる。
「ありがとうございます。ですが、できる限り早く原隊に復帰したいと思います。仲間を助けたいので」
そう言っているが、この伝令も間に合わないことは分かっている。
フェアラート守備隊は三千名。一方、町は一辺が一・五キロメートルの城壁に囲まれており、守備隊だけで守るには広すぎる。
それでも仲間のことを思う若い兵士の気持ちに、私は感動を覚えた。
「分かった。替え馬はこちらのものを使え。我々も早急に手を打つ。そのことを守備隊に伝えてやってくれ」
「ありがとうございます」
伝令は涙を浮かべ大きく頭を下げた。
伝令が出ていった後、師団長らにこの情報を伝えた。
「王国は遂に国境を越えたそうだ。その数は一万以上。他にも別動隊が上流から渡河していたらしい」
第一師団長のウーヴェ・ケプラーが驚きの表情を見せる。
「まさか本当に国境を越えて攻めてくるとは思いませんでしたな。牽制だけだと思っていたんですがね……」
第二師団長のホラント・エルレバッハも頷いている。
「ケプラー殿の言う通り、小官も意外という印象が拭えませんな。現国王は優柔不断な性格だったはず。それがこれほど大胆な策を承認するとは信じられません」
「だが、事実なのだ。そんなことを議論するより、どうすべきかを考えるべきだろう。幸い、クルーガー元帥から出撃準備を命じられていたから、すぐにでも動ける……」
そこで殿下がこの状況を想定していたことに気づいた。
「さすがは殿下だ! この状況を見越しておられたのだな!」
私の言葉に第三師団長のオラフ・リップマンが頷く。
「先日はおかしいと思いましたが、改めて今日も同じ命令が届いております。ゴットフリート殿下は王国軍の動きを見切っていたのですな。さすがとしか言いようがありません」
八月八日に出撃準備の命令が来たため、念のため、再確認の伝令を送り出している。
その返信が本日届き、王国軍の動きに対応するため、いつでも出撃できるようにしておくと改めて伝達された。
リップマンの言葉に私も大きく頷いた。
「殿下がこの状況を見越していたのであれば、我々がするべきことは王国軍の撃退だろう。恐らくすぐにでも殿下から出撃命令が下されるはずだ。各自、いつでも出撃できるように準備を怠らぬように」
「「「はっ!」」」
三人の師団長は同時に頷いた。
■■■
統一暦一二〇五年八月十二日。
リヒトロット皇国中部グリューン河流域、ナブリュック市対岸。ウーヴェ・ケプラー将軍
フェアラートからの情報を聞いたが、違和感を拭えない。
何に違和感を覚えているのか、自分自身よく分からないが、罠に陥っていくような嫌な感じが消えないのだ。
もし、テーリヒェン元帥が意見を聞かず、一方的に決定したのであれば反発しただろう。しかし彼は我々の意見を聞き、更に総大将であるゴットフリート殿下に意向を何度も確認している。
以前の彼ならこのようなことはしなかっただろうが、殿下から諭されたのか、ナブリュック攻略作戦以降は軍団長として認めていいとさえ思うほど変わっている。
そのため、違和感があっても反論できないのだ。
部下たちに出撃準備を命じると、彼らもこのダラダラとした戦いに倦んでいたのか、嬉々として面倒な出陣準備を行っていく。
その姿を見ると、四百キロメートルもの行軍と、三万近い王国軍と戦うのもよいかと思ってしまう。
そう思うものの、やはり違和感の正体が気になる。そのため、我らの中で最も知に秀でた第二師団長エルレバッハ殿と話をしようと思い、彼の幕舎に向かった。
幕舎に入ると、出撃準備で忙しそうに部下たちに命令を出していた。
忙しいところを邪魔することになり気が引けるが、ここまで来たので少しでもよいから話を聞いてもらおうと思った。
「忙しいところ申し訳ない。エルレバッハ卿の意見を聞きたいと思って来させてもらった」
「構わぬよ。準備と言っても、最終確認程度しかないのだから」
エルレバッハ殿は武人には見えない怜悧な印象を与える人物だが、同僚と言うことで快く迎え入れてくれた。
「それでどのような意見を聞きたいのかな?」
「今回のフェアラートのことだが、いささか腑に落ちない。いかにグレーフェンベルクが天才であっても、我々が事を起こす前からすべてを悟り、準備することは不可能だ。このタイミングでフェアラートを攻撃しているということは、王都シュヴェーレンブルクを一ヶ月以上前に出発していることになる」
「うむ。だが、それは年度計画に従った行動だという情報があるが」
「確かに年度計画に従った訓練がきっかけかもしれんが、仮にヴェヒターミュンデに軍があったとしても、我々が皇都を攻略していることを知っておらねば、軍は動かせないはずだ。そして我らがナブリュックを攻撃したのは七月二十三日。逃げ出した商人が情報を持っていったとしても、王都に情報が届くのは今頃のはずだ。しかし、王国軍が渡河を行ったのは八月八日。辻褄が合わぬと思われぬか」
話をしながら整理したことで、違和感が少しずつはっきりしてきた。
「そのことは小官も気になっている。あまりにタイミングが良すぎるからな」
エルレバッハ殿も同じことを考えていたようだ。
「それで貴殿の考えは?」
「分からぬ。ただ、一つだけ可能性があると思っていることはある」
思いもかけない言葉に思わず前のめりになる。
「そ、それは?」
「魔導師が絡んでいるのではないかということだ。グライフトゥルム王国は魔導師の塔、
その可能性は考慮していなかった。しかし、その理由ははっきりしている。
「確かにあり得る……しかし、魔導師の塔が治癒と助言以外で国政に関わることは禁忌とされていたはず。その禁忌を冒せば、四聖獣様から罰を受けるという話ではなかっただろうか」
「その通りだ。だから、私も可能性はあるとは思うが、それが実際に行われているとは思えないのだ」
エルレバッハ殿も同じ意見のようだ。
「なるほど……この件はこれでよいが、もう一つ気になっていることがある……」
言葉にしづらいことだが、どうしても聞きたいと思った。
「それは何かな?」
「ゴットフリート殿下のことだ。殿下が第三軍団を単独で王国軍に当たらせるという判断をされたことが意外だった。言っては悪いが、テーリヒェン元帥に任せるくらいなら、一個師団を送り込んだ方が、よほど成功率が高いと思うのだ。それに殿下の目的は皇都攻略とそのために皇国水軍を殲滅することだ。王国軍など放っておいても問題ないと思うのだが、なぜか王国軍を気にされている。その点はどうお考えか」
俺の言葉にエルレバッハ殿の表情が曇る。
「その点も気になっているところだ。今までの殿下のなさりようとは明らかに違う。焦りを覚えるような状況でもないし、皇国軍が思ったように動かなくとも、補給を断つことで皇国が焦り、勝手に動いてくれるはず。それを待てばよいだけなのだが……しかし、殿下からの命令であることは確かだ。伝令に不審な点はないし、命令書にも問題はない。本来なら直接お会いして確認すべきなのだが……」
この点も俺と同じ疑問をエルレバッハ殿も感じていたようだ。
彼の言う通り、伝令については偽者に入れ替わっていないか厳重に確認している。実際に知っている者に顔を確認させ、本人であることを確認しているし、命令書も殿下のサインが偽でないことを確認している。
疑うべきはすべて疑い、問題ないことを確認した。更に確認するなら、殿下に直接お会いするしかない。
しかし、その時間はない。師団長が離れるわけにはいかないからだ。
そんなことを考えていると、エルレバッハ殿が驚くべきことを言ってきた。
「万が一、王国の謀略であってもよいと考えている」
「どういうことだろうか?」
「王国の天才、グレーフェンベルクと戦えるのだ。命令違反であったとしても、勝てばよい。ゴットフリート殿下も水軍を殲滅できねば動きようがないし、ナブリュックは第二軍団の二個師団で充分守れるから皇都に対する兵糧攻めに支障はない。勝ちさえすれば、帝国にとって何ら不利益なことは全くないのだ」
その言葉に俺も腑に落ちた。
「なるほど。現状維持なら第三軍団が動いても問題ないということか……確かにその通りだ。さすがはエルレバッハ卿だ。これですっきりした」
俺はエルレバッハ殿の下を去ると、麾下の師団の指揮に専念した。
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