第6話 期待された記憶 後編

連日、俺に罵声を浴びせていた上司が辞めた。

精神的な理由らしい。

自分をコントロールできない、などと部長に説明した様子。


上司だけでなく先輩も数人立て続けに辞めたせいで、

部長たちは相当困っているらしい。

部長は申し訳なさそうな様子で、

俺に上司が担当していた分の仕事を頼んできた。


「すまないが、この資料の作成もお願いできるかな?」

「林君しか頼める人がいないんだよ」


今日は新しく入った社員のうち2人が無断欠席をしていて、

1人は辞めた先輩の穴埋めで外回り中。


俺しか事務室にいないし、

俺がやるしかなかった。


すでに今日中に仕上げなければならない書類が7つあるが、

1つくらい増えても泊まり込みで仕事をすれば、

何とかなると思う。


「わかりました。やっておきます」


「助かるよ」

そう言って、部長はゴルフセットを持って、会長を出かけた。


取引先の上役たちは大のゴルフ好きで、

ゴルフ場でしか取引の話をしてくれないらしい。


会長と部長はゴルフがあまり好きではないらしく、

「先方の要望で仕方なくね……」

と、口癖のように言っていた。


上には上の苦労があるのだと知った。






泊まり込みで仕事を片付けていると、

俺の私用のスマホに着信があった。


辞めた上司からだ。

丁度、今、制作中の資料のことで聞きたいことがあったし、

俺はすぐに電話に出た。


「林、いま家か? 電話できるか?」


「まだ会社ですが、ひとりなので電話できますよ」


「お前、また残業してるのか?」

「いい加減、目を覚ませ。その会社は異常だ」


「異常って、そんな言い方ないですよ。菊池さん」

「ちょっと人手不足なのは辛いけど、

部長も会長もいい人じゃないですか」


「俺は仕事のストレスをすべてお前にぶつけた」

「悪いと思ってるんだ。罪滅ぼしじゃないが、言わせてくれ」

「今すぐその会社を辞めろ。そこは異常だ」


「辞めませんよ、会長に恩もあるし」

「仕事が残ってるので、もう切りますね」


俺は電話を切り、仕事を続けた。


次の日、何故か俺は課長に昇進。

給料が5,000円上がっていた。


そして

「ささやかだけどよかったら、使ってくれ」

と、最新のスマートフォンを会長にプレゼントされた。


「い、いいんですか!?」


「昇進祝いだよ。林君はうちにとって必要な子だからね」

「あ、私と部長の連絡先はすでに入れてあるから、

何かあったらいつでも頼ってくれよ」


「ありがとうございます!」


諦めていた昇進が叶った。

給料が上がった。


やっぱり菊池さんが間違っていたんだ。

会長は昇進祝いに、

スマートフォンをプレゼントしてくれるほどいい人なんだ。


俺は優しい会長のいる会社に拾われて、幸せだ。

この会社が異常なものか。



俺は新しいスマホに菊池さんの連絡先は登録しなかった。

もう二度と連絡を取ることはないだろう。






課長に昇進した俺は、当然、仕事が増えた。


事務処理、よくわからない書類の作成、外回り、電話営業……。


毎日残業が当たり前。

しかし会長や部長も嫌々先方とのゴルフに行っている。

俺だけが大変な思いをしているわけじゃない。


そう思って、仕事を頑張り続けた。

しかしある日、通勤中に体が動かなくなって、

気が付くと病院にいた。


俺には心当たりが全くなかった。


「林さんは普段どんな生活をしていますか?」

医者にそう聞かれ、俺はありのままを話す。


「毎日5時に家を出て、7時から仕事をしています」

「昼休憩は今は忙しいので1分くらいです。

おにぎりを丸呑みして、午後は外回りに行きます」

「その後会社に戻って、会社を出るのは夜の12時前くらいですね」


「毎日その生活を?」


「はい。最初は大変でしたけど、今はだいぶ慣れました」


「そうですか。とりあえず、点滴を打ちましょうか」


点滴を打っている間、久しぶりにベッドで眠った。

俺が住んでいるアパートにベッドはあるが、

いつも疲れて玄関で眠ってしまうから、

やわらかいマットレスの上で眠るのは久しぶりだった。






次の日、いつものように出社すると部長に呼び出された。


「昨日、会社を無断欠席した理由はなんだ?」

いつも温厚な部長が、ドスの聞いた声で俺にそう言った。


俺はこのときはじめて、会社に欠席連絡を入れることを

すっかり忘れていたことを思い出した。


「すみません。通勤中に倒れてしまって病院に運ばれていたんです」


「それで?」


「それでって……、その、病院で点滴を受けて、検査をして、

今日は出社しないで休むようにと医者に言われました」


「その言葉を真に受けたのか?」


「すみません。俺は身体のことに詳しくないので、

医者の指示には従うべきだと思いました」


「林君が無断欠席したことで、

会社にどれだけの損失を与えたのかわかっているのか!?」


「すみません。昨日の分も今日は働きます」


「そんなの当たり前なんだよ」

「責任感のない社員に給料なんて出せないよ」


「それは困ります!」

先日、母が癌で入院したばかりだ。

早期発見で治療すれば完治はするが、当然お金がかかる。

今給料がなくなるとまずい。


先輩たちから部長を怒らせると給料がカットされるって聞いていたのに。


「大変申し訳ございませんでした。

何でもしますので、給料のカットだけはやめてください」

「母の治療費が必要なんです」

「何でもしますから許してください」


地面に頭をつけ、俺は部長に許しを請う。

その様子を見ていた会長は

「まぁ、今回はいいんじゃないか?」

「林君が辞めると、うちが回らなくなるし」

と、助け舟を出してくれた。


「会長がそうおっしゃるなら……」

「次はないからな」


「林君、君はよく頑張っているよ」

「これからも期待しているからね」

無断欠席してしまった俺に、会長は優しい言葉をかけてくれる。

父に雰囲気は似ているが、こういう点は正反対だった。


その日、部長から突然30件の新規顧客を開拓するようノルマを出された。

俺は断られても食い下がり、なんとかノルマを達成した。


家に着いたのは深夜2時。


こんなに遅くなってしまったが、仕方がない。

俺は会長の期待されているのだから、

その期待に応える仕事をしなければならないんだ。

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限界人の改竄記憶 椨莱 麻 @taburaiasa

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