第5話 期待された記憶 前編

幼い頃に離婚し、母子家庭で育った俺は

母に余計な心配をかけないように、勉強や運動を頑張った。


その結果、運動も勉強もできるようになった。

正直、割とモテたし、高校時代は後輩がファンクラブを作っていたらしい。

嬉しく思っても、俺はけしてそれを態度に出さなかった。

謙遜し、周りに不快な思いを抱かせないようにした。


昔、一緒に住んでいた父は、すぐに手が出るタイプだったんだ。

何か意見すると、俺や母は何度も殴られた。

あんな痛い思いはもうしたくない。


誰かに憧れられるような模範人間でいれば、

殴られることはない。


そう学んだ俺は、スクールカーストで高い地位を得て、

平和な学生生活を送っていた。


しかし今はどうだ?


「林はこんなこともできないのか!!」

「そんな様子じゃ、社会でやっていけないぞ」

「お前が解雇されないのはな、会長の温情があるからだ」

「会長に少しは恩返しをしようと気概はないのか!?」


今日も俺は上司に怒られている。


いつから俺は憧憬の対象でなくなってしまったのだろう。






大学を卒業して、俺は第一志望の会社へ就職した。

某大手広告代理店の営業職だ。

本社勤務ではないが、

俺は実家の隣県にある支店に内定が決まった。

本社勤務を希望していたが、不満はなかった。


ひとり暮らしの母が気がかりだったし、

隣県であれば実家にも顔を出しやすいと思ったんだ。


しかし予想以上に忙しく、

もう3年も実家に帰っていない。


椅子に座って、ゆっくりと母が作った飯が食いたい。

その気持ちが強くなってきた。


しかし土日も会社用の携帯に電話はかかってくるから、実家に帰る暇はない。

家で仕上げなければいけない書類もある。


有休を取ろうにも、先輩たちが有休を取らない手前、

入社3年目の俺が有休を取るわけにはいかなかった。


入社して3年だが、入ってきた同僚や後輩が皆辞めたため、

俺は新人のままだった。


「1番若い新人なんだから、これ頼むわ」

と、日々、先輩の書類作りを手伝った。


「そんなこともできないんじゃ、他の会社で働けない」

そう言われる程度には、俺は仕事ができないんだと思う。

先輩たちが皆そう言うんだ。

間違いない事実なんだと思う。


学生時代、ちょっと運動や勉強ができたからって

仕事もできると思っていた自分が恥ずかしい。


けど会長だけは俺に期待してくれていた。


「林くんは、うちの大事な社員だからね。

期待しているよ」


優しい会長の期待に応えるために、

俺は、毎日終電間際まで仕事を頑張った。


入社して体重は8キロ落ちた。

実質5分の昼休憩中しか、食事をしないときがあるからだ。

しかし

「痩せてイケメンになったんじゃないか?」

と部長は言ってくれているし、健康上問題はないのだと思う。


毎日、おにぎりをほぼ丸呑みするのは辛いが、

仕事のできない俺を気にかけてくれる会長のために頑張った。


長時間労働に耐え続け、

低賃金で昇給しない現状も我慢してきた。


しかし俺の3つ上の先輩が辞め、

そのしわ寄せが全部俺に来た。


さすがに限界だった。


毎日のように終電を逃しながら、

片道30分かけて徒歩で帰宅。


家でできる範囲の仕事をして、就寝。

3時間後には出社の支度……。


出勤したら

「この資料、今日中に手打ちで頼むわ」

と、上司が山のような資料を俺のデスクに置く毎日。


さすがに限界だった。


「すみません。

すでに部長から先方宛ての資料の作成を今日中に頼まれていて……」

「これ以上はちょっと……」

はじめて上司に意見した。


その後のことは、よく覚えていない。

部長が止めに入ってくれるまで、

俺はひどい罵声を浴びせられていたように思う。


「すまないね。私の指導不足だ」

会長は、俺を心配してくれた。


「いえ。殴られたわけじゃないですし、気にしないでください」

上司はひどい文言を言っていたように思うが、

父のように手をあげてきたわけではない。

俺はあまり気にしていなかった。


「そうかい? そう言ってくれると助かるよ」

「林君は、いい子だね。期待しているよ」


会長は笑ってそう言ってくれた。


どれだけ仕事が遅くても、

上司に罵声を浴びせられても、

会長は俺に期待してくれている。


先輩や上司に

「林は、仕事ができないノロマなクズだ」

と何度も言われた。


けれど会長だけは、俺の可能性を信じてくれていた。


「林君は優しいいい子だね。我が社はそういう人材を求めているんだ」

「辞めないでくれよ。林君には期待しているんだから」


思い返してみれば、会長は毎日、俺にそう声をかけてくれている。


こんな俺に会長は期待してくれている。


俺は会長の期待に応えたい。


その一心で、俺はよくわからない書類の作成をし続けた。

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