第9話 アブノーマル

 それから数日後の朝、目が覚めれば凛子の記憶が戻っていた。

 その日の朝は、凛子にとって目覚めはいい方だったように思う。パッと見た目、記憶が戻っているなどと誰も気づかない。凛子本人ですら、よく分かっていなかった。だが、彼女が気になっていることが、ついつい言葉に出たのだろう。看護師はそれを聞いてから、最初は、

「おやっ?」

 と思ったという。

「川島さん、どうなったんだろう?」

 と呟いたのだ。

 看護師は、川島という名前をもちろん知らない。だからこそ、凛子が口にしたその名前を訊いて、

「記憶が戻ったの?」

 と訊いてみた。

 すると、彼女は意外なことに。

「記憶? 私、記憶を失っていたの?」

 というではないか?

「あなたは、交通事故に遭って、ここに運ばれてきたの。そして数日意識不明だったんだけど、気が付いてから、記憶が欠落していることが分かったのよ」

 と、実に大まかであるが、今までの経緯を話した。

「交通事故に遭ったんだ?」

「ええ、ひき逃げだったんだけど、あれから、もう十日ほどが経つわ。記憶が戻ったということなんでしょうけど、あなたがこの病院で入院してから今までの記憶というのは、どうなの?」

 と訊かれて、凛子は、

「少しおぼろげなんだけど、記憶がないということはないわ」

 と言っている。

 どうやら、記憶を失う前の記憶を取り戻したとしても、記憶を失ってから新たに作られた記憶が失われるということはなかった。

 やだ、これも専門家ではないので、他の人を知らないが、人によって違っているのかも知れない。ただ、今回のケースでは、記憶喪失の間の記憶が、過去の記憶が戻ったことで、上書きされるということはないようだった。

「さっそく、警察の人に知らせましょう」

 と言って、彼女は服部刑事に電話を入れた。

「よし、さっそく病院に向かってくれ」

 と報告を受けた門倉刑事が、服部刑事と、辰巳刑事を病院に向かわせた。

 ちょうど連絡を受けた時間がみゆきは学校での授業中だったので、このことは知らなかったが、彼女も今日の放課後、お見舞いに来るつもりだったので、必然的に、辰巳刑事や服部刑事と一緒になることは、この時点では、紙のみぞ知るということであった。

 二人の刑事は病院まで、約十五分を車で移動。あまりにも近かったので、車の中での会話はなかった。もっとも、記憶がよみがえったというだけで、まだ何も聞けておらず、新たな情報もないので、話ができるわけもなかった。駐車場に車を止めた二人は、急いで病室に向かった。そこで、担当看護師である彼女に、

「被害者の記憶が戻ったそうですね?」

「ええ、でも、まだおぼろげなようですので、あまり長い間の事情聴取はきついかと思います。先生もせいぜい二十分がいいところではないかとおっしょっていました」

 と言われた二人の刑事は、

「ええ、分かりました。事故の話など聞いても大丈夫でしょうかね?」

「大丈夫だとは思いますが、ゆっくりしてあげてください。何しろ被害に遭ったのは、彼女なんですからね」

「ええ、分かっています。我々も心得ていますよ」

 というと、

「それを聞いて安心しました。よろしくお願いします」

 と彼女は言った。

「私、退室していましょうか?」

 とみゆきが言ったが、

「いや、いいよ、君がいてくれた方が安心だ」

 と、言ってくれたのは辰巳刑事、思わず顔が赤くなってしまうみゆきだった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 というと、まず服部刑事から話を始めた。

「この間は本当に大変でしたね。いろいろお聞きしたいことをなるべくきつくないようにしながら伺いますので、ゆっくりで結構ですから、分かる範囲でお答えいただければ幸いに思います」

 と服部刑事がいうと、

「ええ」

 と凛子は答えた。

「さっそくですが、事故に遭われた時、車が突っ込んできたと思うんですが、その時、咄嗟にでも結構ですが、何か見ましたか? 犯人の顔だった李、車にだったりですが」

 と訊かれて、

「あまりよくは覚えていないんですが、あの時、なぜか危ないという意識はあったんです。もしその意識がなければ、あのまま死んでいたかも知れないと、後で事故の様子を訊いて、正直そう思いました」

 事故の時のことを想い出しているわりには、さほど反射的な怯えがあるわけではない。怯えも感じさせないほどに記憶が失われているということなのか、それを想うと、辰巳刑事もいたたまれない気分になっていた。

「じゃあ、あの事故はまわりから見ていると、偶発的な事故だったと言われているので、きっとまったく知らない人が運転していたと思うんですが、まったく見覚えもないということなですね?」

「そうですね。でも、私、その人を見たような気もしたんです。気のせいかも知れませんが」

「どんな人でした?」

「車に乗っていたのは、運転手は女性でした。いや。女性に見えたんですが、危ないと思った時に見た運転手は男性だったようにも思えるんです。そして、助手席にはこれは完全に男性でした」

 と言われて、

「あれ?」

 と思わず、みゆきが口を出した。

 それを聞いて、服部刑事が思い出したように、

「確かみゆきちゃんの友達がその事故を目撃していたか何かで、助手席は女性だったと言わなかったかい?」

「ええ、私も今まで女性だとばかり思っていたのですが、そういえば、彼女が後から、実はそう思っていたけど、運転していたのが女性だったような気がするというんです。女性の方は帽子を目深にかぶっていて、まるで顔を隠しているようだったというんです」

 とみゆきがいうと、

「ええ、私もその感覚と一緒です。その顔ははっきりと見えなかったんですが、ハンドルを切る時の反射的な行動は明らかに男性でした。確か目だけ見えた気がしたんですが、冷たく光っていたような気がしました」

 と凛子が言った。

「ということは、角度によって、運転席の相手と、助手席に乗っていた人がハッキリしないというわけですね、確かに事故のショックで、車がクルクル回っていたという証言もあるので、そのあたりの記憶が曖昧なのも仕方のないことかも知れませんね」

 と服部刑事が聞くと、

「運転していた二人、何か訳アリの二人だったのかも知れませんね。顔を隠している素振りがあったり、あれだけの事故を起こしておいて、逃げ出すような輩なので、見つかっては困る立場の人だったのかも知れないですね」

 と言ったのは、辰巳刑事だった。

「でも、私、助手席に乗っていた男性、実は知っています。あれは、この間自殺したと言われた川島さんだったと思うんです」

「えっ? あの川島がこの事故に絡んでくるのかい? 君は川島とはどういう関係だったの?」

「私は川島さんと以前お付き合いをしておりました。実にいい人で、私のことをいろいろ庇ってくれたりしたんです。それで好きになってお付き合いをしていたんですが、ある日、相手からいきなり絶縁状を突き付けられたんです。私は何も悪いことをしている覚えはないのに、何か証拠を握ってでもいるかのような言い方をされて、本当に一方的でした。まるであの言い方は、こっちから嫌いになるように仕向けているかのような感じでした。どちらにしても、私としては納得がいきませんでした。何とか彼の気持ちをもう一度繋ぎ止めたとしましたが無駄でした」

「一体何があったというんでしょうね?」

「あれはいつのことだったか、一度私が彼の服を選択しようと思っていると、口紅がついていました。浮気をしているのかと思いましたが。どうもそうではない。その口紅はオンナの人の口紅とは少し違っているような気がしたんです。かなりどぎついもので、確か彼はあまり派手な女性は大嫌いだと言っていたはずなのに、そんなにいきなり趣味が変わるというのもおかしいと思いました」

「男性の中には、、急に何かに目覚めたりすることってありますからね。女性に対しての好みが変わることもあるでしょう。ただ、問題なのは、その時に外見上の好みが変わったのか、それとも、顔の表情だったり、性格だったり、そのあたりが違う女性を好きになったのかによって、ストライクゾーンが広がったのか、それとも、本当に好みが変わってしまったのかが分からないですよね」

 と言っていた。

「彼は完全に好みが変わったかのようでした。下手をすれば、私に時々暴言を吐くようになり、その時のセリフは、以前はそんなことがなかったのにというのが多かったですね」

「ところで、凛子さん、あなたは、記憶を失っているはずなのに、どうしてそんなに彼のことをどんどん口にできるんです?」

「それは、事故の時助手席で彼の顔を見たという意識があったことで、私は、彼のことだけを思い出すことができたような気がするんです。このまま他のことも思い出せればいいんですが、自分としては微妙な気がしているところです」

 と言った後で、

 そこまで話を聞いていると、みゆきが急におかしなことを言い出した。

「凛子さん、本当に見たのは助手席の男性が、彼に見えたんですか?」

 と言われて、

「ええ、そうだと思いましたけど、言われてみれば、あの暗く冷たい目が彼だったような気がします」

 と聞くと、みゆきは、

「ひょっとして、その川島さんは、同棲使者だったんじゃないですか? 同性愛者というのにもいろいろあって、男性も女性も受け付けるという人もいますが、元は男性などの場合は、自分が男性を好きだと思うと、女性を生理的に受け付けないという話をネットで見た気がします」

 とみゆきが言ったが、実はこれ、昨日看護師から、

「私は同棲愛者なの」

 という告白を受けて、彼女のために少しでも同棲使者のことを調べようとして、昨日家でだいぶネットを見て勉強した。

 それが、まさか翌日いきなり役に立つなど思ってもみなかったので、

――世の中、何が繋がってくるか分かったものでもないわ――

 と感じた。

「もし、彼がそういうタイプの同性愛者だったとして、どう解釈すればいいんだい?」

 と辰巳刑事がみゆきに問いかけた。

「同性愛者は、極端に偏見を嫌うと思います。中にはみずからカミングアウトする人もいますが、それは稀なことです。芸能人だったり、有名人は、うまくマスコミを利用してカミングアウトを演出できますが、逆に一歩間違えるとすべてを失いかねない。難しい立場なんだと思いますけど、逆に一般人は、それだけですべてを失うことはないかも知れないけれど、ごく小さな些細な幸せを育んでいるとすれば、それはすべてが水の泡。まず立ち直れないほどのショックを受けると言ってもいいでしょう。川島さんがどうだったかと思うんですよ。川島さんが一生懸命に顔を隠そうとしていたのには、何か訳があるのかも知れないですね。ひょっとすると、助手席に乗っていた『彼』は、芸能人か何かなのかも知れないですね。たぶん、二人とも蚊を隠していると却って怪しまれる。女性が運転している車に芸能人が乗っているというだけでは、それほど問題にはなりませんが、二人とも顔を隠していると、下手をすると警察から職質を受けるかも知れない。それを思うと怖かったんでしょうね」

 と、みゆきは、自分の推理に酔っているかのようだった。

 みゆきの着眼点と想像力によるものなのだが。一歩間違えると、暴走しかねない。そんな時に抑えてくれるのがなつみだったが、これもちょうどいいタイミングというべきか、この日のみゆきの行動を知らなかったなつみが、フラリと見舞いに訪れたのだ。

「あら? 皆さんお揃いで」

 と、まるで人を食ったような言い方を、なつみはしたのだった。

 なつみがこの病院を訪れるのはもちろん、今回が初めてdえはない、感度かみゆきの来ない時にはここにきて、相手をしていた。

 二人で来ることもあったが、なかなかタイミングが合わない時もある、同じ日の別の時間にそれぞれ来ることもあったりして、凛子もなつみもしっかり馴染みになっていた。

 そんななつみを好きな看護師がいるというのを知っているのは自分だけだと思っているみゆきだったので、p、思わずなつみを見ると、微笑ましく感じたのだった。

 みゆきは、別に姉がカミングアウトをしても、別に構わrないと思った。逆にそれくらいの姉であれば、もっと頼もしく感じられるのではないかと感じたのは、同性愛に対して偏見がないといえばウソになるからだった・姉がもしそうであれば、応援するかどうかは分からないが、少なくとも反対はしないと思っている。なぜなら、相手を理解するのはそこから始まるからだと思っている。

「何か、同性愛者とかいうワードが女性の声で聞こえてきたんだけど、まさか、それってみゆきちゃんだったのかな?」

 と、なつみは言った。

 それまで、会話に集中していたからなのか、あまり意識がなかったが、改まって、しかも姉のなつみから言われると、急に恥ずかしさがこみあげてきた。

 完全に顔を下にして、うずくまったような気分になったみゆきだったが、なつみはお構いなしだった。

 もちろん、妹の気持ちを分かっていてやっていることだったが。ただ、それは妹の暴走を止めようという意識ではなく、むしろ、もっと表に出させようという意思があったようだ。

「みゆきちゃんのお話、ちょっとそこで聞かせてもらったけど、面白い発想だと思うわ。確かに川島さんが自殺を試みたのは、凛子さんをひき逃げした気持ちからの自責の念もあったと思うんだけど、それよりも、彼のことを想ってのことだったんじゃないかしら? 相手はきっと表に出ることのできない立場の人、例えばスキャンダルが表に出ると、それで終わりの芸能人とかね。交通事故だけであれば、まだ過失なので何とかなるでしょうけど、同性愛が絡んでいるとなると致命的。だから、彼を守るためと、凛子さんへの自責の念から、自殺を考えた。ひょっとすると、元々自殺をずっと考えていたのかも知れない。彼との間の自分のジレンマでね。でも、確か、川島さんというと、奥さんいたんじゃなかったんじゃないのかな?」

 となつみがいうと、

「確かに奥さんはいます。でも、こういう同性愛も一種の不倫になるのかしらね?」

 と、凛子さんが言った。

「いえ、同性愛者の場合は法律的な不倫にはなりません、だから訴訟や慰謝料問題は起きないのが普通ですが、逆に法律で決着できない分、厄介だとも言えるんです。精神的に落としどころを失って、自分の殻の閉じこもり、精神的に病んでしまったり、復讐の対象になってしまったりと、そこから先が別の犯罪や副作用のようなものを生んでしまうから、悲劇なんじゃないでしょうか?」

 と、服部刑事が言った。

「今回の川島さんの自殺についても、凛子さんが遭われた事故にしても、偶然の積み重ねなんでしょうけど、まさか、そこに同性愛のようなものが絡んでいるとは思ってもいなかったので、そこが一つの問題ですね。しかも相手が今の想像のように芸能人だったりすると、社会問題として大きな影を落とすことになるでしょうね」

 と辰巳刑事が言った。

「じゃあ、今回のこの一連の事件で、実際に得をしたという人は誰もいないんですよね。皆が皆、傷ついた。自殺する人、事故に遭って記憶を失った人、芸能人かも知れない助手席の男も、きっといつ露見するかと思い、ビクビクしているかも知れない。ひょっとすると、その苦しみを救ってくれていたのが川島だとすると、彼は彼のために命を落としたのだけれど、それが本当に最善の方法だったのかと言われることになるでしょうね。そう思うと、皆相手のことを思いやっているとしても、すべてに悪い方にしか言っていないような気がして、だから一人として得をした人がいないんでしょうね」

 今度の事件は、今ここで話し合っていた内容が、ほぼほぼ間違いのない内容だったようだ。川島も、死んでしまったことで、残された奥さんには、かなりの額が行ったようだ。何年も掛けていた生命保険、彼の給料ギリギリだったのだろう。保険会社の人が質疑にきたくらいだ。これも彼の奥さんに対してのせめてもの、償いのつもりだったのだろう。ひょっとすると、同性愛がバレた場合、自殺をすることを選択肢として持っていたのかも知れない。

 みゆきは、自分の発想と、目の付け所をまたしても、警察に示したようなもので、そこへよくもタイミングよく洗われたなつみが、冷静に推理していく。

「今回のあの姉妹にはやられましたな」

 と捜査本部では解決の打ち上げの席で、辰巳刑事と服部刑事がそういって談笑していた。

 しかし、有原家では、みゆきが一つの疑念を持っていて、それを姉にぶつけた。

「よくあの日、あのタイミングで凛子さんの病室に現れたわね」

 というと、

「実は私、看護師に好きな人がいるのよ」

 というではないか?

 まさかと思って訊いてみると、そのまさかだった。

「お姉ちゃん、それはないわよ」

 と言って、みゆきは腹を抱えて笑っていたが、それを見てなつみも急におかしくなってきた。

 この事件で、得をした人が一人もおらず、皆それぞれ苦しんだとおう悲しい事件であったが、その副産物はまさか自分の身近にいるなど思ってもいなかったみゆきが、腹を抱えて笑いたかった理由も分からなくもない。

「おねえちゃん、最後にいいとこどりだわ」

 と言うと、なつみも、一緒に大声で笑うのだった……。


               (  完  )



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自殺と事故の明暗 森本 晃次 @kakku

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