第10話 雨の中には適した距離感

 僕は電車に乗らずに見送りました。

 高温のタンパク質が密集した中に分け入っていくのが嫌だったし、和泉の死を淡々と語る富永から離れたかったのです。


 河崎と違い、彼はとても落ち着いていました。


 改札を抜け、目的もなく学校への道を引き返します。

 雨は止んでいました。

 何人もの生徒とすれ違い、逆行する僕にこんな時間帯になぜ?と不思議そうな顔がいくつも続きます。


 僕が和泉と似ている?そんなこと考えたことありませんでした。

 でも和泉は自殺した、僕にできなかった事をやってのけました。


 名前を呼ばれた気がしましたが、歩き続けます。


 調べるほどに答えから遠ざかっていくのではないかという気がします。

 一般性からは外れていくような、逸脱していく浮遊感。


 でも重要なのは中富が納得できるかです。真実なんてどうでもいい。


 それなのに僕は気になっている。

 逸脱の象徴であるサイコロ。あれにどんな意味があるのか知りたいのです。

 そう、いつの間にか僕は、和泉の死に惹かれていました。


 似ているのなら、僕はもっと近づけるのでしょうか。まだわかりません。歩く僕の先には、ひどく薄い自分の影しかない。


「森塚!」

「え?」


 右手に何かが触れました。べっとり張り付く生温かい異物感。

 咄嗟に振り払う。

 視界の端に人影。

 振り返ると中富でした。


 左手を胸の前で抱えるようにして立っています。

 僕は自分のしたことに気付くが、もう遅いのです。


 雨がまた降り始めました。


「あーごめんね、急に」

 濡れそぼっていく彼女が笑って言いました。

「でもそんなに嫌がられたら、ちょっと傷つくじゃん……」


 声は明るいのに、俯いていて顔が見えない。

 彼女の繊細そうな髪が濡れて頬や白い首に張り付いく。

 震えているようです。


 普段からこうならないよう、気をつけていたのに油断しました。

 でも彼女にとっては大したことじゃないはずです。

 僕たちは恋人というわけでない、友人ですらない。僕に拒絶されたぐらいで……


 ぐしゃりと何かを踏み潰したような気がして、息が苦しい。自分が汚れているような感じがしました。


 このまま永遠に雨の中、二人で取り残されるんじゃないかと思えました。


「じゃあね」

 立ち去ろうとする彼女に、慌てて傘をさします。


「僕は触れられるのが苦手なんだ」


 彼女がようやく顔を上げます。

 僕の欠損を、人に対して言葉にするのは初めてでした。家族にも話したことはありません。


「人の体温が苦手で。だから触られる事に抵抗があるし、人が触ったばかりの物に触れるのも避けたい。少し異常かもしれないけど、排泄物に手を入れるぐらい気持ち悪いんだ」


 どうしてなのか自分でもわからない。普通の人からしたら意味不明で、こんな僕こそ気持ち悪いでしょう。


 じっと聞いていた彼女が突然、走りだしました。

 僕は自分の内面を打ち明けたことに不安と恐怖を感じていました。

 こんなものを感じるならずっとひとりでよかった。

 たぶん拒絶されることは、孤独より怖いのです。


 近くのバス停の屋根の下に入った中富が、僕を呼びました。

 そこに行くと薄汚れた水色のベンチだけがありました。

 中富が雨を見ながら口を開きます。


「そうか、君を脅すのにカッターなんて要らなかったんだ。抱きついてやればよかったのか」

「まぁそうかもね」

「ふーん、いいこと知っちゃったな」とほくそ笑みます。

「あのね、僕には結構な悩みで……」


 傷付けてしまったかと不安でしたが、元気そうでなにより。


「それで森塚はひとりでいるんだ。いつもニコニコしてるけど、それって防御だよね。踏み込ませない一線を引いてる。そういう所、和泉くんに似てる」

「え?」


 すとん、と彼女はベンチの一番端に腰を下ろし、空いたスペースを指さした。


「森塚の思う距離感でいいから。ここなら傘の下なんかより、ずっと自由だよ」

 

 その笑顔は初めて見るもので、僕は息がつまった。




 富永との会話を彼女に伝えます。一人分のスペースを空けて座る彼女は静かに聞いてくれました。


「また神が出てきたのか……そういえば久留間亜衣里が女神って呼ばれてるよね。怪しいなぁ。あの女、和泉くんと何かあったのかも」

「それは関係ないと思うけど」


 中富が言うように、久留間には普通じゃないものがあるのは確かです。

 しかし僕にとっては一番関わりたくない相手なのです。


「ずいぶん庇うじゃない。あの女が好きなの?」

「そういうことじゃない。そんな単純な話とは思えないから。それで、さっき君も言っていたけど、富永も僕と和泉が似ているって。似ているかな?」

「そう……」


 彼女は僕の疑問には答えず、話しを変えました。


「森塚は自殺しようとしている人を、どうやって引き止める?」

「そもそも止めないかな」

「あぁ、そういう人間か君は。じゃあ、どうしても止めたい相手だったとして。どうする?」

「状況によるんじゃないか?」

「ビルの上から今にも飛び降りそうなの」

「地上の人からすればあなたは凶器だ、て言うかな」

「弱いよ。そこまでいってると、他人を気遣えないんじゃない?」

「あぁそうかもね」


「二つしかないと思う。一つは未来の希望を想像してもらうことで」

「将来に絶望していたらどうするんだ」

「もう一つは家族とか友達とか、遺される人のことを伝えるんだよ。そういう人と自分を置き換えてみたらいいんだ。そうすれば」

「どうかな。それじゃあ、悲しむような人がいない、天涯孤独ならいいの?」


「……否定ばっかりして楽しい?」

「いや、建設的な議論を」

「嫌な人。私のは理屈として弱いって?」

「極端な事を言えば、その前に殺して仕舞えば問題はなくなるんだ」

「誰を?」

「家族や友達」

「アホなの?あぁわかった。森塚はドーナツの穴みたいにアホなんだ」

「いや意味がわからないよ」

「救い難いアホだから一度死んだ方がいいよ」

「望むところだ。是非お願いしたい」


 ずいぶん長い事そうして話をしました。

 別れる時、少し名残惜しい気がして、不思議な気分です。


 たぶん僕は、彼女が受け入れてくれた笑顔が嬉しかったんです。

 だからもう一度見たいだなんて、僕の一部が望んでいるんでしょう。

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