第3話 カッターナイフ
読みかけの文庫本を取りにきた放課後の教室はもぬけの殻でした。
なんとなくベランダに出て夕陽を眺め、そこで僕は何度目かわからない呟きをこぼしました。
「死にたいなぁ」
ベランダの錆びた手すりすらもオレンジに染まる中、下を覗いてみます。頭が下なら死ねるでしょう。ここを乗り越えられたら。
地面に当たり砕け、
圧倒的な痛みが、
身体の隅々まで貫いて。
でもそれもきっと、わずか一瞬。
晴れの日と雨の日、どちらが自殺者が多いのだろう。
痛みの先にはいったい何が。
ここから解放されるだろうか。
手すりをつかむ手が汗ばみ、鼓動が早くなっていきます。
隣の教室から笑い声が聞こえました。
本当は死ぬ気なんてありません。痛いのも苦しいのも嫌だし。
でも朝目が覚めるたびに呟いてしまいます。ずいぶん軽い呟きになったものです。
嘘ではなく、正確にいうなら生きていたくない、でしょうか。死ぬことが怖いわけじゃない。死ぬために首を吊る飛び降りる、でもその途中にある苦痛も生きているからこそです。生きていたくないから死にたいのに、それを邪魔するのも『生』そのもので。
自分のルールに縛られて挫折する愚かな完璧主義者のようです。
突然、「森塚(モリツカ)」と肩を叩かれて、僕は身体が跳ね上がるのを止められません。
振り返るとそこに中富(ナカトミ)マヒロが立っていました。
他人に触れられるのが苦手な僕は、気を抜くと過剰に反応してしまうのです。
しかし彼女に気にした様子はありません。おそらく内気な男子が女子に話しかけられて慌てた、とでも思ってくれたのでしょう。
中富と僕は同じ新聞部に所属していますが、彼女はあまり熱心な部員ではないので時々しか部室で顔を合わしません。二年になってからクラスメイトにもなりましたが、それでも関わりは薄いです。
「ごめん、どうしたの?」
距離が近くて長いまつ毛と大きな双眸がよく見えました。彼女の特徴はこの大きな目でしょう。小さな顔において存在感があります。それが今、僕に強い眼差しを向けます。
「死にたいって言った?」
「いや……」
息が詰まります。聞かれていたようです。誰もいないと思って油断しました。僕は恥ずかしくなって言葉が出てきません。
ふーん、と彼女は顎に手を添えました。
「なんか意外。森塚っていつもニコニコしてるし。そんなこと考えてるんだ」
そう言って彼女は考え込むように沈黙しました。止めるでも質問するでもなし。声を掛けておいてどういうつもりなのでしょう。この静けさに耐えられません。
「じゃあもう行くよ」
「え、逝くの?あの世に?」
「違うよ……さっきのは忘れて」
彼女のわきを通り教室の扉に向かいます。途中「ちょうどいいか」と不可解な呟きが聞こえました。
「待って森塚、森塚ナオトくん。どうせ死ぬ気なら、私に協力してよ」
思わず僕は立ち止まって振り返りました。
風が吹きました。細く繊細そうな黒髪が流れた彼女は、怪しく笑っています。
「どういうこと?」
「死のうとしてるんだから、君は全部どうでもよくて投げ出すつもりなんだ。つまり何にも持ってないのと一緒。何も持ってないなら、逆に何でもできるでしょ?だから死ぬ前にさ、ちょっと手伝ってよ」
「すごい決めつけてくるね」
「すぐ死ななくてもいいんでしょ?だからお願い。その後ならご自由に、好きなだけ死んだらいいからさ」
どうぞどうぞ、とばかりに手を伸ばしてきます。
彼女の中で僕の自殺は確定事項みたいです。今さら撤回しにくい雰囲気になってきました。え、ホントにどうしよう。
それにしても少しも自殺を引き止める気はないらしいです。まぁ別にいいのですが。僕も多分止めないですし。
「ちなみに、何を手伝わせたいの?」
「この学校には今、大いなる謎があるよね。その謎解きだよ」
「謎解き……?」
「和泉くんがなぜ自殺したのか。それを解き明かそう」
それは最近自殺した僕らのクラスメイトです。
「……どうしてそんなこと、知りたいの?」
「謎を謎のままにして置けないでしょ」
意味がわかりません。
ただ謎解きが好きなのか、お節介な性格なのか。どちらにしろ、関わり合いたくない人種です。
「そんな面倒なこと、嫌だよ」
「どうして?他にやりたいこともなくて暇でしょ。ちょっとぐらいいいじゃん」
「だからって、死にたがりの無気力な人間がやる気にはならないよ」
「メリットが欲しいってこと?」
そういう問題でもないんですが。自殺した人のことをあれこれ嗅ぎ回ることに、もっと漠然とした抵抗があります。そっとしておいてあげたい、という気持ちでしょうか。彼女にはそういう想いやりがないのかもしれません。
それとは別に、痩せ細ったある少年の姿が脳裏に浮かびます。置いてきたはずの過去が、逃れられないのだ、と囁いている気がしました。
「あくまで断るんだ?」
「そうだね」
「私って、自殺するような人、嫌いなんだよね。死ねばいいのにって思う」
「それはなんだか、矛盾してない?」
「だから効率良くいこう」
中富は近くの机の上に置いてあったカッターナイフを取りました。誰かが文化祭の準備で使って、片付け忘れたものでしょう。彼女はそれを手に、なぜか僕にツカツカ歩み寄ります。
「えっと……?」
「私が殺してあげようか?」
強い痛みが走り、咄嗟に身を引いて左手を見ました。袖をまくったシャツの下。赤い血がにじみ、やがて流れはじめます。
痛みよりも突然現れた、その鮮血に驚きます。前腕から手のひらへ、跡を残しながら指先に到達するのを、僕はただ見ていました。
鼓動が強く打ち付け、彼女の声が遠くから響きます。
「きっと下手くそだろうから、安らかな死に方はできないだろうなぁ。どうする?私に協力するか苦しんで死ぬか」
どうしてその二択しかないのか、意味がわかりません。この女は一体何なんでしょう。
黙っていると彼女は僕の左手を掴み、「えいっ」と再びカッターナイフを押しつけました。
肉が裂かれ、
刃が奥へと侵入。
触られた不快感など吹き飛ぶ。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
「頷いてくれるまで刺し続けるから」
二択はいずこに。
鼓動は乱れ、緊張で身体が強張ります。
僕の何かに審判を下す神のように、僕を圧倒して彼女はそこにいます。
スリッパと廊下の甲高い摩擦音がいくつか近づいて離れていきました。
「ふーん、抵抗しないんだ。ドMなの?」
「ッ!」
血が床に滴り落ちます。
こういう時、人は咄嗟に相手を突き飛ばすのかもしれません。でも僕はできませんでした。それは他人に触れたくないから、だけではない気がしました。
殺されるか、謎解きの協力をするか……どうしてか僕は笑いそうになりました。彼女のせいでおかしくなったのでしょうか。まさか特殊な癖に目覚めたなんてことは……
「わ、わかった。やるよ」
「ほんと!?私の助手として手伝ってくれる?」
「やるやる」
ようやく中富はカッターナイフを離しました。
「ほんと!?ありがとう!」
嬉しそうにはしゃいでいますが、その手には血に濡れたカッターナイフが握られているのです。この光景に眩暈がしました。こんな頭がおかしい女の子相手に、とんでもないことを了承してしまった気がします。
「約束だよ。絶対手伝ってよね。抵抗するならその度にまた刺すから。私にはできるってわかったでしょ。だって君のこと大っ嫌いだから」
「……なら実際に自殺をやり遂げた和泉くんは?」
「嫌いだし、許せない」
それなのに調べるのか?と疑問です。
そんな相手のことを知るために、ここまでするでしょうか。
「中富、君はどういうつもりなんだ。探偵にでもなるつもり?」
彼女はキョトンとしていました。
「そんなつもりはなかったけど。そうか、今の私って探偵っぽいね!」
そんなことはありません。むしろ犯人役がお似合いです。
「誰かに依頼されたわけでもなく?」
「うん、個人的な行為だよ」
「個人的?」
「ずいぶん気になってるねぇ」
「当たり前だろ。腕を刺されてまで協力するんだ。ちゃんと目的を知っておきたい」
「そういうものかぁ」と彼女は呟き、何度か頷いた。
「でも今重要なのは私たちの関係性だよ。私は真実を知りたい。森塚は痛めつけられないため私の助手になる。うん、素敵な関係ができたね」
中富はころっと表情を変え、今気付いたように声を上げます。
「血だらけじゃない!痛かったよね」
潤んだ瞳で僕を覗き込みます。
この女は一体、どこまで狂っているのでしょうか。
「ちゃんと手当てしなよ。この関係が終わるまで、死んじゃダメなんだから」
ひとり残された僕は保健室に行く前に、掴まれた手を洗うことにします。
中富の、他人の体温が残っている気がして、冷たい水で洗い落としたくてたまらなかったのです。
やはり、僕もどこかおかしいのでしょう。
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