8

 よく晴れた三月の光の中を、八幡の銀色のコンパクトハイトワゴンが進む。葉の落ちきったイチョウの木の沿う広瀬通を北へ進んで十分ほど、駅前通に面した三十三階建ての再開発ビルは、下層の商業施設部分がガラスと鉄筋を組み合わせた独特なデザインの吹き抜けになって陽光を透かしている。八幡には学生時代から馴染みのある建物で、一階の書店で雑誌や料理本などを買うことが多い。そういえば車で訪れたのははじめてだったな、と思いながら、地下の駐車場に入って停車した。

「……はあ」

 待ち合わせの正午まではまだ時間があった。瀬名が手引きしている人材派遣会社のオフィスには早めに入っていてもいいらしいが、慣れない場所で待機するより今はひとりの時間が欲しかった。エンジンを切った車内はすぐに冷えてしまうので長くはいられないが、それでも気持ちを落ち着けるくらいの余裕はあるだろう。ため息をついて、保温瓶に入れてきた熱いほうじ茶を一口飲む。こんな日にも自前の水筒に飲み物を用意してしまう律儀な自分に呆れつつ、こうでもしないとまともに出てこられそうになかったのだとも思う。

「行くか……」

 頭をかるく振って運転席を降りる。後ろにまわってラゲッジルームからキャリーケースを下ろすと、思いのほか重量があって八幡はよろめいた。ハードディスクや書類以外に、瀬名たちが追加でなにか入れたのかもしれない。詳細を知らないほうがいいだろうとあえてここまで中をあらためずに来たのだった。今になってここで開けるわけにもいかないので、そのまま引いてエレベーターに乗せる。オフィスのある二十二階に向かうエレベーターは片面がガラス張りになっていて、上昇につれ仙台駅前の街をあかるく見渡すことができた。八幡はペデストリアンデッキを行き交う人の波を眺めつつ、この街にこれから安全に住んでいられるのか、柚木と瀬名の身の安全が保障されても自分や久遠はどうなるのかとこの段になってからぼんやり考えていた。

 二十二階のエントランス表示で右手に示された、「ヒューマンリソース株式会社」のほうへ向かう。受付の機械に久遠から渡された認証カードをかざすと、取引先社員として通行が許された。中の社員にはどう話をつけているのかわからないが、奥から出てきた小柄なめがねの女性が、

「インテリジェンスのかたですよね、会議室をご案内します」

 と先導するので八幡は素直に従った。フラットなオフィスエリアにデスクの島ができているのを横目に廊下をゆくと、いくつかの会議室が両側にある通路にくる。そのうちの一室、十から十五人ほどで使う小部屋に八幡を通すと、女性は簡単に頭を下げて辞した。

 部屋の片側の窓は仙台の街並みに向いているが、今はブラインドがおりて景色はよく見えない。廊下側も上の部分はガラス張りになって室内の様子が外からわかるように作られているので、今回の受け渡しには条件がよくないな、と八幡は思う。内開きのドアの上には簡素な時計がかけられ、その針は正午の十分前を示していた。

「そろそろか……」

 八幡はこの先の手順をスマートフォンで再確認して息をついた。八幡のキャリーケースの中身を弥勒に引き渡し、弥勒から現金を受け取り、あとはその様子をこの部屋の、窓側の天井についた監視カメラで見ている瀬名が確認したらすぐに撤退すればいい。地下駐車場を出たらそのまま仙台駅のロータリーに乗り入れて、駅にいる瀬名と久遠に現金を渡せば、八幡の役目は終わりだ。瀬名たちはそのまま新幹線か、仙台空港ゆきの電車に乗ってどこかへ姿をくらますらしい。柚木は隠れ家で待機しながら、監視カメラの映像と、八幡、瀬名、久遠とそれに対する警察側の音声のすべてに接続した状態で、八幡の戻ってくるのを待っている。

「あと一分」

「じゃ、予定通りよろしくね」

「はい」

 八幡は右耳に入れたワイヤレスイヤホンに手をやって、久遠と瀬名の声が問題なく入るのを確かめてから小声で答えた。外から足音がするのに顔をあげると、廊下を歩いてくる先程の来客対応係の女性と、その後ろのひょろりと丈高い男の姿が見えた。

「弥勒さん」

「こちらです」

 ドアを開けた女性の後ろから、スタジアムジャケットにキャップ姿の弥勒が入ってくる。八幡よりさらに数センチ背の高い弥勒が大きなデリバリー用の黒いカーゴリュックを背負っていると、それだけでなにかの冗談のようだった。ただその中身が一億円に及ぶ現金とあっては、弥勒にも八幡にも笑っていられる余裕などない。

「あとは私が対応しますので」

「はい」

 八幡が中から応じると、女性は簡単に引き下がってオフィスへ戻っていく。弥勒はその姿が見えなくなったのを確認して背中の荷物を会議机の上に乗せると、肩のストラップをはずして息をついた。

「クソ、重てえな……。念のためお互い中身確認しろって言われてるけど、ここで勘定でもすんのか」

「どうします、このままじゃ部屋の中が廊下側から全部見えますよ」

「社員は八幡が誰かと打ち合わせに来たと思ってるからな、しょうがない、隠せるだけ隠すか」

 弥勒は会議用のホワイトボードを廊下側に引っぱってくると、ガラス張り部分をなるべく覆うように設置した。ずっとこうしていては注意されもするだろうが、短時間ならなんとかごまかせるだろう。

 八幡は自分の荷物も引き渡そうと床に倒していたキャリーケースを開こうとしたが、ロックがかかっているのかうまくいかない。瀬名が厳重に施したものらしい。

「なんだ、そっちが引き渡すもののリストと照合してからじゃないと受け取れないぞ」

「鍵があったんだ……、ええと」

 八幡がキャリーケースへ屈み込んだとき、突然廊下からバタバタと物音がした。弥勒と八幡が振り返る間にも、部屋の扉は乱暴に押し開かれて、見慣れた青い制服の男たちが一斉に会議室に駆け込んでくる。その最後尾に、一人だけコートを羽織った朝比奈の大きな体が滑り込むように入ってきた。

「予定と違います! どういうことです」

「俺だってこんなの聞いてねえよ!」

 言いかわす八幡と弥勒へ、朝比奈が大きな声を掛ける。

「すまんな、瀬名聡の交渉には我々は応じられん。弥勒の荷物には現金は入ってない。ダミーの錘だ」

「そんな」

「八幡は署まで来てもらう。荷物もこっちで預かる」

 八幡の耳のイヤホンからは、仙台駅内のリモートワーカー用レンタルルームに隠れて通信している瀬名と久遠の声が響いた。

「どういうことなの? データだけ奪うつもり?」

「僕らもそっちへ行く、八幡さんはキャリーを守って」

 二つの叫びと同時に、朝比奈の号令で警官たちが八幡とキャリーケースに駆け寄り集まってくる。八幡が立ち上がって逃げ出すためにキャリーケースを縦向きに起こそうとしたその瞬間、ケースの蓋が内側から弾けるように開いて、中から小柄な男が転がり出た。

「ゆ、柚木さん」

「逃げるぞ、できるだけ派手に騒ぎを起こす」

 キャリーケースに隠れていた柚木は、懐から出した小さなスプレー缶のようなものを警官たちへ向けて中身を吹きかけた。柚木を取り押さえようとしていた青服の男たちは一斉に顔をおさえて倒れ込んで呻く。催涙ガスかなにからしい。柚木はその隙に八幡の腕を強くひき、さらに後方の警官たちにもスプレーを噴射しながら、左手には大ぶりの狩猟用ナイフを握って走り出す。柚木と出会った日、フェリーの客室で八幡の喉元に突きつけられたあの銀色のダガーナイフ。

「車は地下か」

「はい!」

 柚木は周囲の人間を肘や脚で薙ぎ、抵抗されたら躊躇なく切りつけていく。八幡はそれにほとんど引きずられるように柚木と共に会議室を転がり出た。柚木は大きめの白い半袖シャツを返り血と泥で汚して、たてがみを逆立てる獣のように強い殺気を放って駆ける。痣と傷跡だらけの右腕の先の、体のわりに大きな手はしっかりと八幡の腕を握っていた。

 廊下の先のオフィスフロアから当惑した社員たちがおそるおそる様子を伺っている中へ、柚木と八幡が転がり込むのでわっと声があがる。

「なんで警察がこんなに」

「ちょっと、刃物持ってるよ!」

「危ない、逃げて逃げて」

「走らないでください!」

 と口々に叫びながら動揺した社員たちが好き勝手に逃げようとするので、警官たちの進路と逆行して邪魔になり、結果として足止めするかたちになった。柚木はそのままエレベーターに八幡を引き込むと、商業フロアの一階のボタンを押して床に座り込んだ。荒く息をつく柚木の隣に八幡もへたり込む。外に向いたガラス張りの面からは、白い雲が毛布のように折り重なった空から、大きな雪片が投げ落とされるようにつぎつぎと降ってくるのが見えていた。

「どうしてここに……、取引のデータや機器類は」

「置いてきた。俺の事件の証拠は消させない。桐子が、梨緒が死んだ原因を、このまま隠滅できるもんか。おれが暴れればここに警察が来たことも、八幡と弥勒が取引してたことも、瀬名が県警を脅迫してたこともみんな表沙汰になる」

 柚木は八幡の顔を見て言った。大きな目に強い決意と怒りを滲ませたその表情のうちに、八幡は柚木がやはり最初の日と同じように、幼い造作と釣り合わない老いた達観の雰囲気をまとっているのをみとめて言葉に詰まる。死ぬ直前の、自分はもうすぐ死ぬことを覚悟している人間の顔。柚木は今度こそ、梨緒と桐子、そして誰より八幡のために、自分のすべてを終わらせようと決めているのだ。

「柚木さん……」

 八幡が言いかけると同時にエレベーターは一階に到着して、小さな停止音とともにドアを開いた。なぜ駐車場のある地下一階ではないのだろうと問う暇もなく、柚木は立ち上がるその勢いで八幡の腕を強くひく。エレベーターホールに待っていた買い物客のひとりが柚木の服の血痕と左手のナイフに気付いて声をあげ、周囲にざわめきが広がった。

「えっなに、なんかの撮影?」

「うそうそ、本物だって、ナイフ持ってるもん」

「警備員さん呼んで! 誰か!」

「早く離れて、危ないから、早く!」

 周りの客がどよめいて動き出し、柚木と八幡の半径三メートルほどの空間だけがスッと避けられてひらけていく。柚木はまっすぐ正面の書店の売り場へと駆け込んだ。書店の左手側の階段が地下駐車場につながっているが、柚木はこのまま書店を抜けて正面玄関に向かう気らしい。

「わざわざ本屋なんかに来たら目立つじゃないですか」

「いい、みんなに見せてやれ。おれたちの証人になってもらう」

 柚木はそう言ってニッと片頬をあげて笑った。わざと騒ぎを大きくして事態を隠しようがないものにしたいのだ。そのためにあえて地上階の商業施設の一般客の中へ出て人目に触れてから逃げるつもりなのだと、八幡にもこの時にはわかっていた。「逃げるつもりなのだ」と、八幡はそう思いたかったが、柚木自身にここから逃げ出す気がもはやなく、暴れるだけ暴れて警察に捕まるか、あるいはそれ以上の事態になる覚悟でいることも、頭の別の部分では冷静に理解している。

 柚木は書架の間を滑るように駆けながら、

「八幡は車へ」

「柚木さんも一緒に!」

「おれが捕まってやらなきゃ八幡を逃がせないだろ」

 と言う。八幡は息が切れてなにも言い返せず、追いついて走っていくので精一杯だ。

「柚木!」

「八幡!」

 後ろから朝比奈の怒号と、弥勒の嗄れた声が折り重なって響いた。エレベーターホールの方から体格のいいコート姿の角刈りと、黒いスタジアムジャケットを引っかけた痩躯のふたりが、青服を引き連れて走ってくるのが見える。周囲の客は騒然としながら八幡たちからも警官たちからも離れようとして、警備員たちがそれを誘導して外へ出そうと大声をあげていた。

「さあ、おれはここでやつらの相手だ」

 柚木は左手のダガーナイフを握りなおし、八幡の腕を離した右手で、ジーンズのポケットからクラフトナイフを抜き出した。大ぶりのカッターナイフのように刃をくり出して顔の下で構えたそれは、久遠が八幡へ護身用に渡したもののうちの一本だ。残り二本のナイフは、迷いがあったものの、結局八幡が最悪の事態に備えて携帯してきていた。その刃物がパンツの後ろポケットとジャケットのポケットでつめたく存在を示すのを感じながら、八幡は柚木の後ろでさっきまで強く握られていた自分の右腕を見下ろしたまま、地下駐車場へ向かう決心がつかずその場に立ち尽くしている。

 柚木はレジ前の新刊の平積み台を蹴った勢いで前に飛び出す。台から跳ね飛んだ本がバタバタと音を立てて床へ落ちていくのが八幡にはやけにゆっくりと感じられて、そのページが開いて羽のように繰られていくのがつぶさに見えた。

「柚木さん!」

 八幡がそう叫んだのと、駆け寄ってきた弥勒が柚木に組みついたのが同時だった。

「クソ、離せ」

「動くな、暴れんじゃねえ」

 柚木は怯まず弥勒に切りつける。弥勒のジャケットを裂いて腕まで刃を貫く。横に振り抜いたナイフの軌跡を追うように血液が弧を描いて宙を舞った。一般客のほうから悲鳴があがる。弥勒は痛みと出血に構うことなく、柚木の背後にまわると両脇を背中からしっかりと抱え込んで固定した。

「朝比奈!」

 その声にこたえて朝比奈がサッと両腕を構える、その動作の意味を、八幡は頭の芯で瞬時に理解した。とっさに体が前へ動いた。柚木とそれを羽交締めにする弥勒の元へ走る。

「柚木さん!」

「八幡、来るな!」

 パン、パン、と一瞬の破裂音がふたつ鳴る。柚木がうめき声をあげて、その体がびくりと跳ねる。肩で反動を受ける朝比奈の握ったグロック19の黒いプラスチックフレームが、明るい商業施設の書店の中で異質だった。

 間に合わなかった、と八幡は思う。また失ってしまう。視界が白くあかるくなっていくような気がした。周りの音がなにも聞こえなくなった。体の末端から血の気がひいて指先がスッと冷たくなっていくのがわかる。今度こそ失くすわけにはいかないと思った。自分のすべてを引き換えにしても、このひとだけは奪い返して自分の隣に座らせなくてはならないのだ。

 八幡は無我夢中で弥勒に食らいつくと、上衣のポケットからクラフトナイフを抜きだした。カッター状の刃をカチカチと繰り出す。次の瞬間、弥勒の首の頸動脈を狙いざっと横に深く切って鮮血を受けた八幡を、二人の前の床で倒れていた柚木が目を丸くして見ていた。

「八幡、おまえ、なにやって……」

「早く」

 右手から血に濡れたナイフが滑り落ちた。首元から血飛沫をあげた弥勒がドサッと音を立ててその場に倒れるのが、ゆっくりとコマ送りのように目に映る。それでも興奮で感覚が麻痺しているのか、不思議と強い恐怖や罪悪感はない。ただ今は逃げなくてはという気持ちだけが八幡を動かした。弥勒と折り重なっている柚木を床から引き上げて背負いあげると、八幡は走り出した。

「待て!」

 朝比奈の警告を無視して、書架の間を抜けて駐車場への階段に駆け込む。後ろから足音と怒号に混じって発砲音が響くのが、なにか遠く現実感のないもののように聞こえた。八幡は地下の車列の中から自分のワゴンを開錠すると、後部座席のシートを倒して背中の柚木を下ろした。柚木のジーンズの太ももと、八幡の荷物から勝手に出してきたらしい白い半袖シャツの左の腹が赤黒く染まっている。どういう処置をしたらいいのか八幡には判断がつかなかった。

「……いい、とにかく車を」

 柚木がそれだけ言うのを聞き取って、八幡は運転席へと急ぐ。ハンドルを握る手が今さらになってガタガタと震えだして力が入らなかった。地上の昼間の白い光の中へ滑り出ると目の前はもう仙台駅で、ビルのエレベーターから見ていた時よりさらに激しく雪が降りしきって、あたりをうっすらと白く染めはじめていた。

 駅前通に出た八幡は、この先の広瀬通をどちら向きへ進むべきか迷った。隠れ家にはもう警察が入っているだろう。瀬名と久遠は駅からこちらへ向かったはずだが、通信が途絶えて状況がわからない。どこへ逃げたらいいのだろう。今の八幡にはもう、あれ以外他に考えつく場所がない。榴ヶ岡(つつじがおか)の表示に従って右に折れると、北へと進路をとって車を飛ばした。

「柚木さん、大丈夫なんですか」

「八幡こそ」

 ミラー越しに視線を合わせた柚木の顔はいつにもまして血の気がない。それでも八幡を見た柚木は、

「なんて顔してる、死人みたいだ」

 と顔をくしゃくしゃにして笑った。

 国道四十五号線に入ってさらに北へ進む。後部座席で柚木がみずからシャツを裂いて大腿の傷部分を強く縛って止血しているのを、八幡は停車ごとに振り返った。その間にも腹部の傷からの出血が続いているらしく、柚木の包まるブランケットが次第に赤く染まっていくのが八幡にも見えていた。

 多賀城市内を進むにつれ周りに倉庫や工場が増えて人の気配がなくなっていく。その静かなコンクリートの灰色だけの荒涼とした景色を、今はもう吹雪となって強く吹き付ける風雪が白く塗りつぶしつつあった。

「どこに向かってる」

 柚木の声にあわせたように、視界がひらけた。八幡は車をゆっくりと停める。コンクリートの道路が眼前で途切れている。目の前には真っ白く重たい毛布のような雲の敷かれた空と、そこから降りしきる雪、そしてそれらと同じ色をした海。

「仙台港です。フェリー乗り場」

「……帰ってきたのか」

 柚木が少し笑ってそう言う。昼便のフェリーがちょうど港に入ってきて、岸にいる作業員と船内のスタッフとで接岸作業が行われている。その懐かしい光景を前に、八幡はつとめて明るく言った。

「応急処置の設備くらいはあるから、どうにかして入り込めば手当てできますよ。この間までの職場だし、乗員に誰かしら知り合いがいると思います。僕がなんとかしますから」

「そうだな」

「どこ行きの便にしよう、いま来たのが苫小牧便、柚木さんが乗ってきたやつです。また北海道じゃ危ないかな。東京とか、名古屋がいいですか」

「うん」

 八幡は前を向いてハンドルを握ったままで話し続ける。柚木の呼吸がだんだん荒くゆっくりしたものになっていくのは、運転席の八幡にもわかっていた。

「瀬名さんたちにも、朝比奈さんたちにも見つからないところに行きましょう。僕ら二人で、遠くまで、ずっと」

 それ以上は涙で言葉にならない。八幡はハンドルに額をつけるようにして、いまだ震えのおさまらない両手の間へ頭を垂れた。

「ねえ、柚木さん……、柚木さん」

 八幡の声だけが車の中に響く。外は吹雪、風があたりを裂く音と、すべてを吸い込むやわらかい白雪の降るかすかな音。それらを受けてなにもかもを溶かし込む銀灰色の海の、寄せては返す波音。

「柚木さん」

 柚木の返事はない。

「柚木さん、寝ちゃったんですか、ねえ」

 八幡は顔をあげることも振り返ることもできないまま、そう呼びかけて涙を膝に散らす。窓の外からは、船員たちの呼び交わす声と、苫小牧便の乗船時間を知らせるアナウンスが、雪に溶けるようにこだましていた。


(終)

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ブロークン・スリープ 森山流 @baiyou

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