7

 柚木は床で眠っていたところを突然強く揺さぶられて目を覚ました。視界いっぱいに白い室内灯の明かりがまぶしい。部屋のまわりから入ってくるわずかな喧騒と、窓の厚いカーテンの隙間から漏れる光から、今は昼間の明るい時間帯なのだろうと目星をつけた。

「……うるせえな」

「早くして! この部屋もうダメだって。逃げなくちゃ」

 バタバタと走り回りながら久遠が叫んでいる。ノートパソコンやスマートフォン、ルータなどの通信機器をまとめてカバンに入れている彼女を、柚木は床に上体を起こしてぼんやりと眺めた。柚木にあてがうまともな寝室がなかったらしく、ここに連れてこられて以来、結局このリビングともダイニングとも言えないような家具のない部屋の床に、余っていた寝具をあるだけ持ち込んで眠って過ごしていた。衣類の替えは久遠によって補充され、あの日研究所で泥や血で汚した白いパーカーを処分したあとは、彼女が選んで買ってきた冬着を適当に着ている。柚木は濃い緑色のケーブルニットの少し余った袖をつまみながら、自分の趣味ではないなと思う。

「柚木は荷物なんかないでしょ。これ持って」

「なんなんだよ」

 久遠が押しつけた重たいリュックを膝に抱え直しながら、柚木は部屋の反対側でスマートフォンを操作しながらワイヤレスイヤホンでどこかとやりとりしている瀬名のほうを見やる。瀬名は真っ黒いモヘアのニットにブラックデニムの格好で、アイランドキッチンの備え付けのスツールに腰掛けていらいらと脚を揺すっていた。

「ここの場所が朝比奈たちに知られてるんだ。モタモタしてたら鉢合わせる。クッソ、どうしてこんなことに」

「聡くん、どうしよう」

「逃げるって、どこへだ」

 柚木が独り言のように言ったのに応じて、瀬名がスツールを飛び降りて答える。

「僕のあと二箇所の隠し部屋は警察に入られた。国分町のオフィスももちろん駄目だ。こうなったら仕方ないな」

 苛立った様子の瀬名がかけた通話を相手が受けるのと、柚木が短く叫ぶのがほとんど同時だった。

「……はい、八幡です」

「八幡!」

 瀬名は柚木の様子に、通話の受信先をイヤホンから本体のスピーカーに切り替えて、八幡の声を聞こえるようにした。柚木が動揺するところが見たいのだろう。

「僕の事務所と『別荘』に捜査が入った。今からそっちに行く。僕と久遠と、もちろん柚木も」

「匿えってことですか」

「計画直前にこんなのってないよ。もう時間がないから、八幡さんが住んでるその部屋を本部として使わせてもらうけど、いいでしょう」

「……わかりました」

 八幡が諦めたようにゆっくりと言う。柚木はなにか口を挟みたかったが、特に言うべき言葉が見当たらないので黙って座っていた。また久遠に殴られたり、ここへ置いていかれたりしたらたまらない。

「じゃ、後はよろしく。久遠、車出して。八幡さんの場所はわかってるんだろ」

 瀬名はそう言いながら通話を切って、軽そうなボストンバックを一つ持っただけの姿で玄関へと向かっていく。瀬名自身はほとんどの日用品や衣類を隠れ家ごとに使い捨てにしているので、まともな荷物がひとつもないらしい。それを追う久遠の背中を眺めながら、柚木はあちこち痛む重たい体を引きずって立ち上がった。

 久遠の銀色のハイブリット小型自動車は、三人を乗せて秋保通(あきうどおり)を滑るように走っていく。瀬名も免許を持っているものの、どうしても必要な時以外は運転したがらない。久遠はアクセルを踏み込んで、国内仕様でリミッターがかかっているハイブリット車を最高速度で飛ばした。この速度ではそれ自体が通報されそうだと後部座席の柚木は思うが、今はそれどころでないらしい。柚木は窓に張りつくようにして流れる景色を見ていた。部屋に閉じ込められていた時には住所などわからなかったが、グランデ長町(ながまち)と書かれた大型ショッピングモールの脇を通って国道二八六号線へ出たので、太白(たいはく)区長町南あたりにいたのだろう。

 車は北へ向かい、愛宕(あたご)大橋を渡って五橋(いつつばし)へ出た。片平を抜け、西公園側から定禅寺通へ回り込む。そこから細い路地を入ったらもう立町だ。八幡のいる隠れ家の建物には駐車場がないので、久遠は近くのコインパーキングへざっと車を入れてエンジンを止めた。柚木は降り立った細い路地の、ラブホテルと得体の知れない雑居ビルばかりが目立つ雑然とした眺めが、妙に懐かしいものに思えて苦笑した。

 久遠がすりガラスの嵌まった二〇三号室のドアをノックする。八幡は何も言わずにドアを内へ開いて三人を出迎えた。私物の入ったバッグを重そうに抱えた久遠、身軽な瀬名に続いて、デジタル機器の入ったリュックを背負った柚木が入っていく。

「柚木さん!」

「八幡、ただいま」

 柚木は八幡を目にしたとたん素直な言葉と笑顔が表に出て、自分でもそれに内心戸惑うほどだった。八幡も普段は目蓋の重たくかかる目を丸くして驚いた表情をしている。柚木は八幡の胴を押しやって奥の部屋に向かせ、

「早く。あいつらが急いでんだ」

 とわざと粗雑な口調で言った。首だけ振り向いた八幡が赤面している意味がよくわからないが、ともかく瀬名たちを追って居室におさまる。八幡のデスクの上の時計が十一時三十六分を示しているのを見て、久遠が慌てた様子でダイニングテーブルにデジタル機器類を勝手に広げてセッティングを始め、瀬名もそれに加わっていた。

 八幡は積極的に協力するつもりはないようで、特に手出しせずに黙って自分のデスクチェアに座った。瀬名と久遠には場所を提供するだけ、必要な時に伝達役を担うにとどめる、と決めているらしい。さすがの瀬名もここで八幡と柚木を拘禁しようという気はないらしいので、柚木は自由にしていてよいのだと勝手に判断した。

 柚木はデスクに接して窓際に置かれた八幡のベッドにするりと上がると、生成りのカバーをかけた綿布団とその下の焦げ茶色の毛布に潜り込んで唸った。

「あー、帰ってきたな……」

 布の塊になった状態で低い声で言う柚木を、デスクに向かう八幡がどんな顔で見ているのかは知らない。ただ、今の自分にとってこの住居用ですらないオフィスの隠れ家、八幡のいるこの部屋が、二度と戻ることはないと決めて出て行ったものの、やはり本心では帰ってきたかった場所なのだと柚木は思う。

「なんで僕の布団なんですか」

「こっちのほうが落ち着く」

 そう言って柚木が頭だけ布団から出すと、八幡は顎の無精髭を擦りながら、

「柚木さん、人質なのにこんなところで寝てていいんですか」

「知らん。逃げたり暴れたりしなければいいだろ、おれの家だし」

「はは……」

 と笑う。状況にそぐわない妙にやわらかで和んだ八幡の表情に、おれたちはなにをやっているんだ、と柚木は心の中で苦笑した。瀬名と久遠が通信機器や資料や飲み物を乱雑に広げているダイニングテーブルからは、慌ただしい気配がしている。

「逆探知対策セットアップ終わったよ」

「よし」

 瀬名がダイニングの椅子に長い脚を投げ出して座り、右頬だけあげて暗い目つきで微笑んだ。デジタル時計の表示が正午に変わる。

「はじめるよ。県警へ要求メッセージを」


 瀬名から宮城県警への脅迫文は、一一〇番通報、警察相談専用電話の九一一〇番、仙台中央警察署の電話番号に同時に発信され、同じ内容が県警の相談窓口メールアドレスと、弥勒の業務用のアドレスにテキストで送信された。

 柚木が梨緒を殺しておらず、梨緒が全身性結合組織障害の新薬の重篤な副作用で死亡したことを隠すために罪を着せられたこと。新薬がそのまま承認されて患者への使用段階に進み、結果として桐子が死亡したこと。この件の隠蔽のためにビオテクファーマに県警や病院が協力したこと。これらを把握している瀬名聡が、公開する代わりに取引したいと望んでいる旨が示された。

「『要求は以下の三つ。一、交渉金を現金で一億円手渡しすること。二、瀬名聡の身柄の安全を保障すること。三、柚木修についても同様にすること。期限は四十八時間後、二日後の正午。こちらの受取人として八幡博範を、県警側からは弥勒啓輔を指名する』って書いてんだぞ。どういうことだ」

「そのまま読んだ通りです。僕は瀬名さんと一緒にいるので……。この通話も録音されてますし」

 八幡が眉を寄せて俯いた姿勢でマイクへ話すのを、瀬名がソファで長い脚を投げ出して退屈そうに眺めている。久遠は八幡のスマートフォンから手元のノートパソコンに転送している通話記録を自動で文字起こしするスクリプトを動かしながら、八幡に淹れさせたローズヒップとハイビスカスのブレンドティーのカップを吹いて冷ましている。柚木は八幡のベッドでそのまま眠り込んでしまい、安心しきった顔を布団のあいだに覗かせて、大きな飼い猫のように深い寝息を立てていた。その様子に目をやりつつ、八幡はリビング部分を歩き回りながら弥勒の返事を待った。

「……おまえと柚木は人質みたいなもんってことか。俺が選ばれたのはまあ、現役の県警の人間じゃないからいざとなりゃ煮るなり焼くなりできるし、おまえを安易に攻撃できないとわかってのことだわな」

 弥勒がそう言いながら後ろ髪を掻き回すのが目に見えるようだった。口調はいつも通りだが、珍しく声音に憔悴が色濃くあらわれている。ここで弥勒に助けを求めたり脅迫に応じないよう説得したりすれば、八幡も柚木もただで済まないのは当然なので、八幡は黙って何を言うべきか考えていた。あの日、研究所で柚木を拘束していた警察官たちを、無造作にナイフで刺して返り血を受けた瀬名の真っ黒い姿を思い出す。

「県警にも同じ内容が行ってます。たぶん朝比奈さんのところにも」

「だろうよ。厄介なことになったな。まあいいや、もう八幡に連絡すんのはよくねえな。これで終いにしよう」

 弥勒はそう簡単に言って通話を切る。

「呑気なもんだね」

 そう言って電子タバコを咥えた瀬名は、八幡のほうへ、ねえ、と声をかける。

「おなかすいちゃった。なんか食べるもんある?」

 八幡は苦笑して冷蔵庫を開け、中身をあらためながら、

「あるものでなにか作りましょう。あと、僕の家は禁煙です」

 と言い、わがままな貴族の坊ちゃんと召使いみたいだな、と場違いなことを思った。


「できましたよ」

 八幡が声をかけると、ソファで警察とメッセージのやり取りをする久遠と、かたわらで指示を出していた瀬名がちらりと目線をよこした。柚木はこの程度では起きないので、布団の塊になっているのを揺さぶってやると、

「腹へった……」

 と言いながら身じろいだ。あとは魚の焼ける匂いと、味噌汁の温まる匂いに引っぱられて身を起こしはじめたので、放っておいてもよさそうだ。今日は朝から慌てて瀬名の「別荘」を出てきたので、きっとなにも食べていないのだろう。瀬名や久遠はときどきコンビニで買ってきたものをつまんでいたが、それも大した足しにはならなかったようで、八幡の用意したダイニングテーブルを気にしている。

 柚木が八幡の周りをするすると動き回り、しまってあった柚木用の茶碗や箸やカップを出していくのを、料理の仕上げのかたわら八幡は不思議な気持ちで見た。三号炊きの炊飯器で足りないだろうと踏んで鍋で追加で炊いて蒸らしていた米を、柚木は勝手に大盛りによそって持ってきている。遠巻きに見ている瀬名たちをよそに、茶碗と焼き上がった鯵の干物の皿を食卓へのせて柚木は食事に取りかかる。八幡がかぼちゃの煮付けと白菜の浅漬けを出して汁椀を並べてやると、柚木は当然のようにそれにも箸をつけていく。出ていく前とまったく同じ、奇妙だがうれしい食べぶりに我知らず笑いを漏らした八幡に、久遠が声をかけた。

「八幡さん、こっちにもお願いーー!」

「はいはい」

「警察に金銭要求してる時にこんなんでいいのかねえ」

「聡くんだっておなかすいてるでしょ、ほら」

 久遠と八幡がソファの前のテーブルへ器を並べていくと、瀬名は呆れた顔で箸を手にとった。小骨が面倒くさいと文句を言いながら干物をつつく。久遠も構わず煮付けや味噌汁をうまそうに食べてニコニコしているので、逆に八幡がその鷹揚さにやや戸惑うほどだ。

「おいしーい、八幡さんって料理上手!」

「久遠より才能あるんじゃない」

「聡くんだって家事いっさいできないくせに」

 言い合いながら八幡の料理を食べる二人は、とても警察を脅迫している最中の犯罪者には見えない。どこにでもいるごく普通の二十代カップルのようだ。もともと危ない仕事で生計を立てている瀬名はともかく、全身性結合組織障害の新薬開発に巻き込まれなければ、久遠や柚木はそのまま一般的な若者の暮らしを送れただろう。

「久遠は瀬名とどこで知り合ったんだ」

 突然脈絡なく、ダイニングテーブルの柚木が箸を動かしながら言う。柚木は、大学の同級生の瀬名と、会社の同期の久遠のそれぞれがいま現在恋人どうしの共犯者として組んでいる理由を、ここまで特に気にせず来たらしい。

「言ってなかった? 僕がときどきキャストで入ってるクラブの上客だよ」

「柚木には内緒って言ったじゃん!」

「なんで? ホスト遊びするの隠してるんだ」

「瀬名さんってホストもやってるんですか」

 八幡が柚木の向かいに座りながら思わず質問をしてしまうと、柚木が目をあげて、

「こいつは大学の時にホストのバイトで国分町に入ったんだ。瀬名を指名してくるやつらが競争して新車のキーとか新築マンションの鍵とか渡し始めたり、入れこんだ何人かが借金で破産したりして、それでも顔色ひとつ変えずにいるから、オーナーやその知り合いの夜職の元締め連中に気に入られて今みたいな立場になった」

 と箸で瀬名を指して低い声で言う。

「残酷な性格と美貌を活かして誑かしてきた女の、そのひとりがこの久遠ってわけ」

「自分で言う? こちらこそ馬鹿で悪かったわね」

 口ではそう言いあっているわりに、さして険悪でもなさそうな瀬名と久遠の様子を、なんとなく微笑ましいような気持ちで八幡は眺めた。実際の彼らは、自分と柚木の命を左右するかもしれない人間たちではあるのだが。

「食べ終わってもどこか出て行っちゃだめですよ」

「うん」

 八幡はこれ以上は考えないことにして、目の前で素直に頷く柚木に緑茶のカップを渡してため息をついた。

 その日はさしあたり警察側とのトラブルもなく済んだらしく、瀬名と久遠は大人しく部屋で過ごしていた。柚木は久々の隠れ家に安心したのか、いつも以上に長時間深く寝入っている。八幡はなにをしても落ち着かないので、部屋中の拭き掃除をしたり、換気扇や風呂場の天井のような面倒な部分の掃除をしたりして過ごしていた。瀬名と久遠は、八幡と弥勒の間での現金の受け渡しの場所や方法、また自分たちがこの新薬の事件の証拠やデータを滅却する手段、それを警察側に証明する手順について話し合っているらしかった。

 八幡はこの四十八時間の間は隠れ家から出るのを禁じられている。ネットスーパーで注文した食材は夕方に玄関脇に届いていた。昼と同じように夕食を作り、立場がバラバラな四人で食卓を囲んだ。

「食べたら順番にお風呂入ってくださいね。四人いると時間かかるので」

「八幡さん、お母さんみたい」

 そう言って口を尖らせる久遠が最も時間をかけそうなので、とりあえず最初にどうぞ、と八幡は言った。風呂場は事務所のシャワー室を改造したらしき手狭なユニットバスで、満足な脱衣所すらない。狭かった、寒い、などと久遠と瀬名がそれぞれ不満を漏らしながら身繕いをしているリビングで、柚木がさっと着ているものを脱ぎ捨てていく。濃い緑色のニットと白いシャツを点々と床に落として廊下をゆく柚木の体じゅうに、赤黒い痣と傷跡が浮かぶのを久しぶりに目にして、八幡はなんとも言えず胸がふさがった。


「八幡さんには、これを持ってってもらう」

「はあ」

 翌日、警察に交渉の最終調整の通信をする久遠を背に、瀬名が八幡に示したのは、八幡がフェリーへの泊まり込み航海の時に使っていた大型キャリーケースだった。柚木を入れて船から下ろしてきたのと同じものだ。

「中身はこっちで詰めた。柚木が研究所からあの日に持ってきたデータとサンプル試薬、こっちのデータ類のハードディスクや書類一式」

「へえ……本当に全部渡すんですね」

「こっちは金と安全が確実に手に入れば、別にこんなもの必要ないからね。柚木の件を暴くことが目的じゃない」

 瀬名が真面目に交渉することをやや意外に思って間の抜けた反応をした八幡に、瀬名はどうでもいいといった様子で返す。瀬名にとってこれらが単なる交渉の材料でしかないのはわかっているが、桐子と梨緒の死因を闇に葬るのに助力していると思うと八幡は気が重くなった。これで得た大金と安全な立場で瀬名がなにをするつもりなのかも気になったが、聞いたところでまともな答えが得られるとも思えなかった。

「引き渡しは明日の正午。警察もそもそも自分たちが柚木の件で脅迫されてること自体一般に知られたら困るから、目立たないように引き渡したいのは僕らと同じ。八幡さんにはこのキャリーでこっちの証拠品一式を持っていってもらう。向こうからは弥勒さんが、警察関係者とはわからないように現金を持ってくる」

「何かに扮装したりするってことですか」

「運送会社か、フードデリバリー業者の格好してくるはずだよ。一億円あったらちょうど十キロくらいだけど、大人の男なら背負えるでしょ。宅配の荷台か飲食用のカーゴだったらなに入れてても大概は怪しまれずに済むし」

 こともなげに言う瀬名にはもう、八幡のほうもまともな倫理観は期待していない。ため息を深くついてから言葉を返す。

「場所はどうするんです。目立たないところ?」

「駅前の再開発ビルのテナントで、僕の会社の関連企業ってことになってる人材派遣会社が入ってるんだ。そこのオフィスの会議室を指定してある。駅の西口、北側で最上階が展望台になってるガラス張りで吹き抜けのビルあるでしょ。八幡さんはうちの社員の立場で出入りできるようにこっちで手配してる」

「はあ」

「警察の人間もどこかしらにはついてきてると思うけど、会社の受付で足止めできると思うよ。あとは監視カメラでこっちも状況は見てるから、八幡さんは単独でよろしくね」

 瀬名はそう言い終わると、八幡に興味をなくしたようにスタスタと玄関に向かった。室内を禁煙と言ってあるのを一応は守って、外に出てから電子タバコを吸うのらしい。

「聡くーん、あっちは一応お金なんとか間に合うってー」

「そう。都合つかなかった場合にこっちのデータ出す相手先の準備しといて」

「もうやってる!」

 久遠がソファから瀬名の背中に叫ぶ。髪をくるくるとカールさせて、淡いピンクのモヘアのセーターに膝丈のウール地のスカートと厚いタイツを合わせた格好が、会話の内容とまったく噛み合っていない。

「八幡さん、飲み物もうなくなっちゃった。なんかあったかいもの飲みたい」

 そう言いながらノートパソコンのキーを叩く様子は、カフェで仕事に勤しむ洒落たノマドワーカーのようだ。八幡はポットに水を入れながら、つい、

「なににします」

 とまともに聞き返して、我知らず苦笑した。


「八幡」

 その夜、静かな部屋の中で柚木の低い声を聞き取って八幡は身じろぎした。少しだけ開けてあるカーテンの隙間、窓の外は夜半の暗い空から粉雪が舞っている。部屋の反対側の柚木のベッドでは、瀬名と久遠が仲良く寝息をたてている。寝床が足りないので仕方なく前の晩から二人で一つのベッドへ寝かせていたが、結果として自分のベッドに柚木を入れるしかなくなった。男二人ではダブルベッドでもさすがに狭い。しかしどちらかがソファで寝るにはこの事務所を改造した部屋ではあまりに冷える。柚木は文句を言うこともなく、当然のように八幡の横に丸くなって頭まで布団の中へ入れてしまっていたから、もうとっくに眠っていたのだと思っていた。あるいは今眠りから覚めたところなのかもしれない。

「なんです」

「明日いいのか、本当に」

 柚木は布団からすぽんと頭を出して八幡に向かい合った。ボサボサの長い前髪が、何時間眠っても隈の濃い疲れた雰囲気の目元にかかっているが、少し思い詰めたような悩みの表情は少年のような初々しさがあどけない。

「なんのことですか」

 そう言いながらも八幡には柚木が言いたいことはわかっていた。

「桐子の話、証拠ごと消されるぞ」

「……そうですね。でも、もう仕方ない」

 柚木は言葉を探すようにしばらく視線をさまよわせたが、結局なにも言わずに黙り込んだ。柚木にも彼なりに罪悪感や責任感をもつことがあるのだと思うと、八幡は少し心が安まった。柚木は黙って伏せた睫毛がそのまま目の下に影をおとしてゆっくりと目蓋を閉じると、やわらかい規則的な寝息をたてはじめる。その穏やかな寝顔をそっと眺めているうち、八幡もいつの間にか眠りの海に沈んでいた。

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