6

「……木さん、柚木さん」

 耳慣れたよく通る声のするほうへ顔をあげて目を擦る。枕元のカーテンが開かれて、ベッドが接した窓から朝の真っ白い光が部屋いっぱいにさしていた。まばたきを繰り返すと視界の中心のぼやけた輪郭がゆっくり形を結んで、それは硬い癖毛と無精髭の、小さな目を細めて人懐こく笑う背の高い男の姿になった。

「八幡」

 窓側から明るい日光を受けた八幡は、大きな体を屈めて枕元に手をついて言う。

「もう十時になっちゃいますよ。ご飯食べましょう」

「まだ眠い」

 柚木は毛布を掻き寄せて唸った。八幡との隠れ家を出てから、以前処方されていた日中覚醒用の薬のストックを飲んでなんとか過眠を抑えこんで動き回っていたのだ。手持ちの薬が尽きる前に、なんとしてあの新薬のデータや試作化合物のライブラリを破棄しなくてはならなかった。警察に拘束された時にも瀬名と揉み合った時にも暴れたので、体じゅうが痛んで関節が軋んだ。顔の前に腕を掲げると、あちこち内出血で紫色になっていた。

「あれ、おれどうやって帰ってきたんだ」

 そう言いながら枕元の八幡の顔を見上げる。あの時、試作品開発用の実験室の低温室に隠れていた柚木を暴き出した青服の警察の人間の中になぜか八幡がいた。丈足らずのコートを羽織った八幡の大きな体はひどく場違いで、健康的であかるい、それ自体が光のような存在感だった。八幡をこんな方向に引きずり込んだのは他ならぬ自分なのに、この男を穢してしまうもののすべてに猛烈に腹が立った。

「八幡、ごめん」

 柚木は両腕を伸ばすと、眼前で目を丸くしている八幡の肩を強く引き寄せて抱きしめた。八幡は、ええ、うわ、と戸惑った声をあげつつ、されるがままに大人しくしている。柚木は八幡の焦げ茶色のウールニットのやわらかい胸元へ額を押しつけて、首の後ろを抱く両手に力を入れる。

「はは、どうしたんです」

「おれが悪いんだ。梨緒のことも、桐子のことも、全部」

 柚木は低い声ではっきりとそう言ってから、一気に言葉を続けた。

「おれは桐子の薬の開発のプロジェクトチームにいた。新卒で途中から入ったからもちろん全部の工程に関わってたわけじゃない。入った時にはかなり進んでて、もう臨床試験できるところまで来てた。あれは特定の遺伝子を持ってる患者にしか効かないが、そのかわりこれまでの免疫抑制剤よりはるかに大きな効果があるはずだったんだ。おれは夢の特効薬なんだと信じてた」

「はい」

 八幡はじっとしたまま柚木の話を促す。

「でも、あの臨床試験の被験者のひとり、患者との対照実験のために選ばれた健康な人間が梨緒だったんだ。あいつ自身も試験部門のメンバーなのに、対象の遺伝子を持ってるレアな人間だってわかった時点で自分から手を挙げたらしい。おれはなにも知らずにそのデータをもとに開発試験の最終段階を調整してて、そしてその結果として、梨緒は死んだ。あの新薬には劇的な副作用がきわめて稀に出ることを示すかたちで」

 梨緒はその死の原因を徹底的に隠した上で葬られていた。承認申請を控えた「夢の特効薬」を取り下げないために、ビオテクファーマにさまざまな権力が協力したうえでの隠滅だったらしい。柚木はそもそも梨緒が試験に参加していることすら知らなかったが、これは極秘の臨床試験がその担当以外のプロジェクト関係者にいっさい告知されず、梨緒本人にも厳しい箝口令がしかれていたことによる。

「瀬名とおれとで突き止めたんだ。梨緒が死んだ理由が会社とあの薬にあることも、それが隠されておれに殺人の罪が被せられたことも。あいつが裏の仕事を回してる病院や薬局の関係者がこの件に関わってたんだ。あいつはこの件を盾に県警を脅して金をとろうとしてる」

 柚木の頬につたわる八幡の胸の鼓動が早くなっていくのがわかる。高い体温が柚木の体に浸透してくるようだ。

「こんなことに関わらせて、八幡の手を汚して、おれが全部悪い。ごめん、八幡」

「柚木さん」

 そっと抱き返してくる八幡の声はやさしく落ち着いている。柚木をあやすように、背中を大きな手で撫でて言った。

「柚木さんは謝らなくていい。あなた一人のせいで起きたことじゃないでしょう。梨緒さんのことも、その隠蔽のせいで薬が桐子に使われる段階まで来てしまったことも、責任は感じるかもしれないですけど」

「八幡」

 柚木は自分の両目が熱くなり、頬に涙がつたうのを感じながら言い募った。

「八幡、おれはどうすればいい。どうすればおまえに償える」

「柚木さん、僕は—」

 八幡がなにかを言いかけたその瞬間、柚木はハッと目を覚ました。

 毛布を何枚も被ってはいたものの、硬い床に直接寝ていて全身が痛む。ぐるりと見渡した薄暗い部屋は白っぽい壁紙と木を模したフローリングの床の大半が見えていて、最低限の家具しかない。備え付けらしいエアコンが音を立ててぬるい風を送っていた。

「……ああ、そうか、夢か」

 柚木は髪を掻き回して唸ったあと、そっとひとりで苦笑いを漏らした。自分が八幡の元に帰り着けるはずなどないのに、どうしてこんな夢を見るのだろう。もう八幡との奇妙で穏やかな生活には二度と戻れないとわかったうえであの家を出たのだ。今さら合わせる顔もない。そもそもあの夜、バイオ棟の実験室で警察に捕まった柚木をさらに攫ってきたのは八幡ではなく瀬名だった。青い制服を着込んだ瀬名が荷物として柚木を積み込んだ警察車両で門を出たのはその直後で、聞けば警察内部にも仕事を斡旋したり情報をやりとりしたりしている人間が複数いて協力しているという。

「柚木、起きた?」

「久遠」

 女の声に振り返ると、フェイクファーのついたフード付きのパーカーに細いジーンズ姿の久遠が、ヘアゴムで髪を一つにまとめながら部屋に入ってきた。瀬名は一緒にいないらしい。

「聡くん今ちょっと出かけてる。ごめんねー、昨日は急に」

 笑顔の久遠が肩にかけたショッピングバッグから出して差し出すペットボトルの水を、柚木は奇妙なものを見るように注視して言った。

「おまえになんの関係があるんだよ」

「研究所の受付AIを通るパスカードの偽造、バイオ棟入構パスワードの改変、実験室の防犯カメラのシャットダウン、警察無線の通信妨害」

「久遠がやったのか」

「そうだよ。私ひとりで全部ってわけじゃないけど」

 久遠はなに食わぬ顔でそう言って、ポケットのスマートフォンを片手で操作しながら前髪を直す。そもそもどうして久遠が瀬名と一緒に行動するようになったのか、その経緯を柚木は知らない。昨日までの瀬名との「仕事」の間も、柚木と瀬名がふたりで動いている時は、基本的に久遠は関わってこなかった。瀬名は二人組でしか行動しない、一度に三人では組まないと言っていたような気もする。

「柚木、昨日あそこから運んでるうちに寝ちゃって、私たちでここまで引っぱってきたんだよ。大変だったよ、見た目のわりに重いんだから……」

「この部屋はなんだ」

「ここ? 聡くんがいろいろあった時に隠れるために用意してある部屋のひとつだって」

 そう言いながら柚木の前に座ってルイボスティーのペットボトルを開ける久遠は、いつもと変わらぬ華やかで朗らかな雰囲気で、後ろ暗い様子がまったくない。

「久遠はなんでこんなことしてる。おまえも見つかったらただじゃ済まないだろ」

「いいの。聡くんのためならなんでもするって決めたから」

 膝を抱えた姿勢で前を向いている久遠は真剣な顔と声音でそう言った。その左手の薬指には、そこに嵌めるにはやや安っぽい雰囲気の、小さな赤い石を頂いた指輪がある。

「柚木の冤罪を晴らしてこの件が終わったら、私たち結婚するの。瀬名くんはあんな風だけど、本当は寂しがり屋だし、ひとりで置いとけないところがあるって私はわかってるから。これは安物だけど、マリッジリングを嵌めるための予約の指輪なんだって」

 熱っぽく言い募る久遠に、柚木はなんと返したらいいのかわからない。瀬名は久遠を騙している。柚木の恋人殺しの冤罪を晴らすためにビオテクファーマと警察に入り込んだ、柚木の身柄は自分が保護する、とでも説明しているのだろう。それをあえて指摘して久遠に瀬名の実際の姿を伝えるのは酷だった。ここまで犯罪に加担した彼女を、今さらどうしてやれるというのだろう。柚木は黙って上体を起こして水を飲んだ。

 柚木は研究所の騒ぎでスマートフォンをどこかになくしていた。身につけている白いパーカーとジーンズの他には、中に隠した狩猟用ナイフくらいしかもう持ち物がない。スニーカーの中にも刃物を隠していたが、これはもう瀬名に知られて処分されているだろう。

 部屋には時計がなく、窓から外を見ようとしても雨戸がきっちり閉められている。自分はどのくらい眠っていて、いま一体何時ごろなのだろう。かたわらの久遠に聞こうとしたところで、彼女のスマートフォンのカメラが自分に向けられて柚木はたじろぐ。

「なにすんだよ」

「八幡さんに定期的に送ってるの。聞いてない? 私が窓口になって連絡してるんだ。柚木の身柄を渡す代わりに、八幡さんも瀬名くんに協力してもらう」

「協力?」

 柚木の声に答えるように部屋のドアが内へ開いて、真っ黒なシャツとパンツ姿の小柄な姿が入ってきた。

「久遠、ありがと。ここからは僕が相手するからさがってて」

 瀬名は言葉はやさしげだが、有無を言わさぬきっぱりとした口調で言って久遠のスマートフォンを奪った。久遠は特に抵抗もせず従って、何も言わず奥の寝室へ姿を消してしまう。

「瀬名、おまえ八幡をどうするつもりだ」

「いいから大人しく付き合いなよ。八幡さんと映像繋いであげるから」

 瀬名は口の端を上げておもしろそうに笑うと、柚木の前にあぐらをかいて座り込み、スマートフォンを操作してコール音を鳴らした。しばらく呼び出す音が続いたあと、スピーカーから流れてきたのは、馴染み深いよく通る声に、焦りと不安が混ざったものだ。

「八幡です。さっき久遠さんから定期連絡はいただきました」

「柚木の引き渡しの交換条件を僕から説明したい。周りに人間はいないね?」

「僕だけです。そちらは」

 八幡の返事を聞いた瀬名は、カメラを起動してこちらの映像を送信するビデオモードに切り替えながら、柚木にカメラを向けて笑った。

「柚木がいるよ」

「……柚木さん!」

 八幡が声を高くするのがスピーカーから聞こえる。今度は夢でなく、確かにほんものの八幡の声だ。柚木はさっきまで見ていた夢を急いで遡って自分がなにを言おうとしていたのか思い出そうとした。

「ご覧の通り元気にしてる。八幡さんが僕の要求に応じるなら柚木はこのまま返すよ」

「わかってます、それで僕はなにをすればいいんです」

 瀬名はなにも言葉が出ずに俯いたりカメラを見たりと当惑している柚木を撮影しながら、楽しくて仕方がないという声音で続ける。

「柚木の事件の詳細はさっき送った通り。柚木は梨緒を殺してないし、全身性結合組織障害の新薬の重篤な副作用が梨緒の死因だ。桐子さんが亡くなったのも同じ理由だろうけど、これも隠されて表に出なかった。僕はこの件を元手に宮城県警と取引したいんだよ。柚木の冤罪、梨緒の死因の隠蔽、新薬がそのまま承認されたこと、そして桐子さんの死亡。このどれか一つでも公開されたくなければ、僕らの要求する金銭と、僕の身柄の安全の保証、それから柚木の逃亡を見のがすこと、この三つの要求を飲むように、って」

「県警相手に脅迫を」

「このために八幡さんが県警との接続役になってほしいわけ。僕や久遠は警察の前に直接出て行ったら何されるかわかんないでしょう。柚木はもちろん隠しておかなきゃいけない。八幡さんは元刑事の弥勒さんと繋がりあるんだよね。警察へのコネクションとしては最適だと思うよ」

 瀬名の顔を見てなにか言いかけた柚木は、ふいに後ろから衝撃を受けて床に倒れ込んだ。いつの間にか戻ってきていた久遠が、おびえた顔で両手で握った重たそうなショッピングバッグの持ち手を取り落とす。水のボトルか何かを入れて振るったものらしい。痛みと精神的な衝撃で動けない柚木は、瀬名が横からダクトテープを巻いていくのがわかっても抵抗せずに大人しくしていた。

「柚木は黙っててよ」

 大きな黒い瞳で柚木を睨んで瀬名は言った。八幡が何か言っているのがスピーカーから聞こえるが、柚木には内容がうまく聞き取れなかった。

「いい? 八幡さんが僕に応じるなら柚木はこのまま返すけど、そうでなければ好きなようにするよ」

 瀬名は床に頭を打った姿勢で蹲った柚木の髪を掴んで前を向かせ、その一連の動きをカメラに写し続けている。「なにがいいかな、柚木は痛みや怪我には強いから、あんまり普通の拷問じゃおもしろくないけど。一部始終は八幡さんに見せてあげたらいいよね。それとも、僕と柚木で『仲良く』してるところのほうが見たいかな」

 ニコニコと微笑む瀬名を見上げて暴れる柚木を映したのを最後に、瀬名はカメラをオフにして通話に戻した。八幡は言葉に詰まっているが、短い沈黙ののちに切り出したのは、瀬名が期待した通りの内容だった。

「……僕が瀬名さんに協力します。県警との連絡役でもなんでもしますから、柚木さんを返してほしい」


 瀬名からの通話を切った八幡は、深いため息をつきながらデスクに両肘をついて頭を抱えた。瀬名の言う通りにしたものの、今すぐにもう一度連絡をとってすべてを断ってしまうか、あるいは弥勒にでも打ち明けて事情を外部に告発してしまうか、どちらにせよ別の道に乗り換えたかった。自分の選択は間違っている。

「桐子」

 柚木を取り返すために瀬名に従って協力する。宮城県警から瀬名に渡される金や、瀬名と柚木の安全を確保するという証明を受け取る役を担う。そして瀬名の計画が成功すれば、柚木が八幡の元へ帰ってくるかわりに、柚木の事件の本当の経緯は闇に葬られて、桐子や梨緒を死の原因が全身性結合組織障害の治療薬にあることは、誰にも知られることなく終わるのだ。八幡は柚木のために、桐子の人生のすべてを犠牲にしてしまうのだと思って泣いた。

「桐子、桐子、すまない、本当に……」

 謝罪の言葉と共に流れた涙はすぐに嗚咽となって、八幡はデスクに額をつけて突っ伏しながら声にならない声をあげた。何を選択しても結果が耐えがたかった。それでも今の自分にとって、この状況でできることは、やはり瀬名に助力することしかないのだとも思っているのだ。まともに説明できるような理由や根拠もなく、ただ不思議と柚木の存在が自分の中で大きなものになっていて、それが失われた桐子のかわりを担い始めていることを、八幡自身も遅まきながら理解していた。どうしてこんなことになっているのだろう。

 いつの間にか八幡は、そのままデスクに伏せた姿で、明け方までの数時間を浅い眠りの中で過ごした。思えばここ数日まともな睡眠をとっていなかった。その一瞬に短い夢を見たのだ。鮮やかな夏空の下で、それに負けない輝く笑顔をこちらに向けた桐子の夢。大きなつばの白い帽子に深い藍色のワンピース姿の彼女は、八幡の手をひいて砂浜を先導するように軽い足取りで歩いていく。桐子は裸足で、点々と砂に残るその足跡の上をたどるように八幡はうしろを追った。桐子のゆるく波打った癖毛はきれいに焦茶色に染められて、振り返って八幡を見つめたあかるい表情には華やいだ化粧も施され、目蓋はちらちらと光を散らしたよう、頬と唇は花弁のように染まっている。

「いいんだよ。私が博範さんだったら、おんなじようにすると思う」

 桐子はたったひとことそれだけ言うと、前に向き直って砂の上を駆け出した。風にあおられて帽子が舞い上がり、リボンを靡かせてふわっと飛んでいくのを目で追って空を見上げる。それが海のほうへ落ちていく軌跡を眺めやり、次に桐子へと視線を戻して前を向いた時には、その紺色のワンピースの姿はもうどこにもなく、ただ明るい白い浜だけが目の前に広がっている。波が打ち寄せてきて踝までを濡らして去った。八幡はその瞬間に、すべてが夢なのだとようやく気づいて苦笑した。

 デスクに俯した姿勢で目を覚ます。無理な体勢に首筋と腕が痛んだ。朝焼けが静かにやってくる時間はまだ起き出すには早かったが、眠りが浅く毎晩何度も目が覚める八幡には、夜でも朝でもない中途半端なこの頃合いがむしろ馴染み深い。目覚ましに飲み物をいれようとポットで湯を沸かしながら干しカゴの食器を片付けていると、柚木のぶんの茶碗やカップが出てきて妙な気持ちになった。

 八幡はレモングラスとミントを合わせたハーブティーを蒸らしながら、柚木が寝起きの乱れたままで置いていったベッドを整え、ソファや床に落ちている衣類を拾って集めた。柚木は身につけるものに無頓着なのか、真っ白な半袖シャツの上に、白いパーカー、黒いセーター、グレーのフリースカットソーのどれかを着るだけだった。他に着るものを買ったり貸したりしようとしても、本人が嫌だと言う。思えば柚木は服だけでなく、私物らしいものをいっこうに増やそうとしなかった。簡単に出ていけるように身軽でいようと最初から思っていたのかもしれない。

 桐子が死んだ時、彼女の使った食器や、クローゼットの衣類、玄関の靴、その他さまざまな持ち物を片付けていくたびに、生きていた痕跡をひとつずつ消していっているような気がしたものだ。こうして柚木の使っていたものをしまっていくだけで、柚木本人が少しずつ八幡から遠ざかっていく気がする。八幡は柚木がソファーとローテーブルいっぱいに広げたままにしてあった大学図書館の重たい学術書と印刷した論文の束に伸ばしかけた手を止めて、柚木のいた場所の乱雑さにそれ以上は触れずに、願掛けのようにそのまま置いておくことにした。


「おはようございまーす」

 玄関のドアから明るい女の声がして、ぼんやりと歯を磨いていた八幡は慌てて口を濯いだ。こんな雑居ビルの部屋に用事のある人間は、瀬名聡の関係者くらいしかいないだろう。ここはそもそも住居用ではないし、八幡も柚木も住処にしていることを他の誰にも話さなかった。八幡は訝りながらもドアを開けてその訪問者に対峙する。

「……久遠さん」

「八幡さんって早起きなのね」

「どうしてここを」

 眉を寄せて尋ねる八幡が見下ろした久遠は、肩までの栗毛をきれいにカールさせて、前髪だけを膨らむようにピンでまとめ、目蓋を金色のこまかいラメで光らせた姿で、にっこりと微笑んだ。

「八幡さんが私の家に来たときにちょっと仕込んで、あれ以来ずっと携帯のGPSを追っかけてたの。せっかく協力者になってくれるなら、もうこれ以上は追跡しないようにするけど」

「はあ……」

 八幡が虚を突かれて呆然としている間に、その体を押すようにして久遠はドアから中へ入ってきた。腰のくびれた白いウールコートからニットワンピースがのぞく格好とは不釣り合いな、大きなショルダーバッグを肩から下ろして勝手にダイニングテーブルに置くと、中からスマートフォンとフラッシュメモリを取り出した。

「聡くんからのおつかい。本人は今なるべく通話もチャットもビデオトークをしないようにしてる。せっかくの計画中に探知されたら面倒だから……。はい、これ私たちとのやり取り用のスマホ」

 そう言いながら久遠は黒いスマートフォンを起動して八幡に手渡した。スピーカーから録音した瀬名の声がする。

「県警への要求の告知は明日の正午。八幡さんにも繋いで内容は聞けるようにするよ。向こうに与える準備のための猶予は二日間。その間に要求を飲まなかったらこっちは実力行使に出る。最終日に八幡さんが、引き渡し場所に僕らの代理として出向いてもらうから、よろしくね」

「当日の護身用にって、聡くんからこれも」

 横から久遠が防弾着と一緒に大ぶりなカッターナイフのようなものを差し出すので、八幡は差し出した手を引いて言った。

「なんですかこれ、こんなの受け取れませんよ」

「アウトドア用のスライド式クラフトナイフ。ステンレス製だから頑丈で結構硬いものまで切れるって。刃をしまえば小さいからどこにでも入るし、三本くらい持ってたほうがいいですよ」

 そう言って明るく微笑んだ久遠に、八幡は疑念を感じて問いかけた。

「久遠さん、本当に瀬名さんが善意で柚木さんの冤罪を晴らすために動いてるんだと思ってるんですか。そのためにこんなことまでするんじゃ道理に合わないでしょう」

 久遠は馬鹿にしたように短く嘆息すると、声をあげて笑い出した。

「何言ってるの、私が本気でそんなこと信じてるわけないでしょ。聡くんが警察を強請って金や有利な立場を取ってこようとしてることくらいわかってる。柚木と梨緒の事件は一生解決しなければいいし、私は柚木が傷つくところが見たくて聡くんに付き合ってるんだもん」

「……そんな、どういう」

 動揺してうまく言葉の出ない八幡に、久遠は荷物をまとめて戸口へと向かいながら、鼻で笑って言った。

「本当は梨緒なんかより私のほうがずっと柚木のことを好きだった。梨緒と柚木が幸せになるなんて許せなかった。だから新薬の被験者に梨緒を強く推したし、情報操作と隠蔽にも関わったの。このまま全部闇に葬られて、本当のことなんてどこかに消えてほしい。柚木が聡くんに痛めつけられて、八幡さんとも引き離されて、やっぱり最後には孤独になってほしい。私の願いはそれだけ」

 久遠がドアを閉めて立ち去ったあともそちらを見つめたまましばらく身動きがとれない八幡の前のテーブルには、黒いスマートフォンとフラッシュメモリに並んで、白いプラスチックのカバーにカッターナイフ状に刃を収納したクラフトナイフが三本無造作に置かれている。八幡はそれを視界から避けるように、リビング部分のソファに沈み込むと、天井をあおいで長く大きなため息をついた。

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