5

 一睡もせず朝を迎えた八幡は、身支度もそこそこに弥勒の事務所へと走った。電話を鳴らし続けて叩き起こした弥勒は、普段は十一時を過ぎないと事務所を開けないと寝起きの声でごねたが、八幡のただならぬ語気に気圧されたらしく、

「なんなんだ、わかったわかった、いま事務所行くからおまえも来てくれ」

 と言って通話を切った。八幡はスマートフォンを片手に、ラブホテル、雑居ビル、一階がコンビニのマンション、ドラッグストアとディスカウントショップの間を抜けて定禅寺通(じょうぜんじどおり)に出る。車道に挟まれ中洲のようになった、冬枯れのけやき並木が両脇に高く並ぶ遊歩道を、北風が音を立てて薙いでいた。それを見下ろすように立った大きなガラス張りの、図書館やギャラリー、会議室、カフェなどを備えた市の複合施設に隣り合ったビルの細い階段をあがる。一階が美容室、二階は老舗のコーヒーショップが一軒ずつ入るだけのその細長い建物の最上階に弥勒の事務所はあった。

「弥勒さん!」

 ドアを勢いよく押して駆け込んできた八幡に片手をあげて応じた弥勒は、普段のワイシャツとジャケットの姿を整える時間を惜しんで出向いてきてはくれたらしく、ボーダーのカットソーにニットカーディガンを引っかけたラフな格好で座っていた。いつにもまして乱れた白髪混じりの髪をかき回しながら、

「それで、柚木が逃げたって」

 と言って煙を吐く。八幡はコートを脱がずに立ったまま弥勒のデスクに両手をついて、

「昨日、朝になったらいなくなってて……。まる一日戻ってこなかったんです。電話も通じない。あんなに過眠が酷くては一人じゃとてもやっていけないはずだし、警察だって探してるんでしょう。捕まってしまう」

 と捲し立てた。弥勒はぎょろっとした目を光らせて八幡を見上げて言う。

「金か逃げ場所の算段でもついて、八幡は用済みになったってことだろ。瀬名って男と組んでなんかやってたっていうしさ。いいじゃねえか、犯罪者と手を切れたんだ。おまえがなにを困ることがある」

「いや、それは……、その」

 八幡は口ごもって視線をさまよわせた。確かに柚木と一緒にいなくてはならない理由も、柚木が去ったいま彼を探す道理も八幡にはない。

「俺の古巣からは、柚木の捜索に手こずってるって聞いてる。なんなら手伝うことになるかもしれん。俺は八幡に引き合わすために柚木を探すことはできんぞ。俺が柚木を捕まえたら、もう一度県警に渡して最終的には刑務所へ入れるだけだ」

 弥勒が言う。八幡は自分がいつの間にか他人からは異常と思えるほど柚木に情がうつっていることを、はじめて痛切に自覚した。来客用のソファにへたり込む八幡を、弥勒が黙って見つめていた。外は強い北風が吹いて窓を叩き、ガタガタと音を立てている。けやき並木の葉を落としきった枝がざわざわと風に揺れて騒いでいた。

「……柚木さんに協力した以上、いまの僕たちは人からみれば単なる共犯者なのかもしれません。でも、柚木さんは僕の……、友達とも違うし、仲間というか家族みたいな、それも変なんですけど」

 俯いて話しはじめた八幡を促すように、弥勒はなにも言わずにタバコをふかしている。

「なんか、その……、関係をあらわす適切な言葉がない。でも、僕にとっては大切な人なんです」

「……そうかよ」

 弥勒は呆れたように天井を仰いで言うと、灰皿で吸いさしを揉み消した。

「まったく、しょうがねえなあ。今回だけだ。それ以降はおまえたちに関わらねえぞ。いいな」


 デスクで弥勒がいくつものスマートフォンやパソコンを操作して情報収集を始めたのを横目に、八幡は事務所を飛び出した。ここでは戦力になりそうになく、かと言ってなにもしないのでは気持ちが収まらない。とにかく近場を足で探すくらいしか今の八幡には思いつかなかった。

 借りている雑居ビルに戻ると、裏手の駐輪場には柚木がどこからか拾ってきた古い自転車が残ったままだった。柚木は車やバイクを運転できないはずなので、徒歩で移動してから電車やバスに乗ったのだろうか。現金しか使えず口座も持たない柚木がそれほど遠方に行くとは考えられなかった。それに、と八幡は思う。柚木が、梨緒のいた仙台からそんなに簡単に離れることはないだろう。梨緒の思い出のよすがのために北海道からここまで来たのだ。警察が追っていることで身の危険を感じたのか、単に八幡を見限っただけだったのか、消えた理由はどうあれしばらく仙台市内には潜んでいるはずだと八幡は感じていた。

「柚木さんの行きそうなところ……」

 八幡は自分のデスクの引き出しの奥底に隠した、以前弥勒に依頼した柚木の身上調査の報告書をプリントアウトしたものをひっぱり出す。柚木のこれまで関わってきた場所から仙台市内のものをピックアップしていった。柚木の幼少時に暮らしていた何箇所かの住所は、今は更地になるか別の物件が建っているかで、ひとまず用はなさそうだ。それ以降の人生で重要そうな場所は、陸奥大学の薬学部がある青葉山キャンパス、大学から大学院時代の下宿のアパート、ビオテクファーマ仙台研究所、会社の借り上げマンション、そして皆本梨緒のマンション。

「ホワイトコート片平」

 あの日の夕方柚木と揉み合いになっていた瀬名聡は、梨緒の住んでいたこのマンション—ビオテクファーマの女子社員に貸されている物件に出向いた柚木となにごとか話し合ったあと、柚木について隠れ家まで一緒に来たのだとあとで聞いた。ホワイトコート片平には柚木と梨緒の同期の女性が住んでいて、その人にあの瀬名という男もどういうわけか関わっているらしい。

 八幡は目的地をその物件に定めて車を走らせた。近くのコインパーキングに停車して、マンションのエントランスホールに入った段になって、その女性の部屋に向かおうにもここから先へゆく手段がないと気がつく。

「……しょうがない、適当に言い訳するか……」

 そう言って顎の無精髭を擦りながら五〇四号室を呼び出す。嘘をついて他人の部屋に入り込むのは気がひけた。踏み越えてはいけない一線を自分がいま跨ごうとしているのを感じて、指先がこまかく震えていた。

 日曜の朝なのが幸いしたのか、すぐに部屋から女の声が応じた。

「はあい」

「すみません、仙台市役所の者ですが」

「なんでしょう」

「国勢調査の件でお伺いです。お時間はかかりませんので」

 女は少し訝しそうな声をあげつつ、玄関のロックを解除した。八幡がエレベーターで上がって五階の部屋でチャイムを押すと、中から栗毛のほっそりした女が顔だけ出して迎える。

「はーい、なんだっけ、そんなの来るって聞いてなかったんですけど」

 八幡は無言で女を中へ押し込むと、自分も玄関に入って後ろ手にドアを閉めた。

「瀬名聡さん、ここにいるんでしょう」

「えっ、ちょっと何? 市役所の人じゃないの?」

 声をあげた女を狭い玄関の壁に押し付けて口を塞ぐ。

「静かにしてください、僕もこんなことしたいんじゃないんです」

 八幡は自分自身の言動に動揺しながら震える声で言った。こうなってはこの女性を脅して押し切るしかない。

「柚木さんがいなくなって探してるんです。瀬名さんとあなたなら、知ってることがたくさんあるはずだ」

 八幡がこれ以上危害は加えたくないと言い募って拘束を解くと、女はおそるおそる八幡を奥のリビングに通した。八幡をソファに座らせて、自分は少し距離を取ってダイニングテーブルに腰掛ける。スマートフォンを手に取ろうとして、八幡の注視に気づいてその手を止めると、両腕でクッションを胸の前で抱きしめる姿勢をとった。

「本当になにもしない?」

「警察を呼んだりしなければ」

「……そう」

 女は長く伸ばした前髪をかきあげて大きくため息をついた。

「聡くんは今はいません。一昨日から帰ってないの。たぶん柚木とのことで……、なにかあったんでしょ」

「僕と柚木さんとで住んでる家に瀬名さんが来てて、トラブルになって、無理やり帰ってもらったんですけど……。その、柚木さんが、瀬名さんの意識がないうちに、どこかへ置き去りにしてきたみたいで」

「どういうこと? そのあとは? まだこんな寒い仙台でそんなこと、信じらんない」

 女はそう言ってクッションに顔を埋める。涙まじりの叫び声だった。八幡は柚木の罪への糾弾に、自分も責められているのを感じて俯いた。ひとしきり唸っていた女は、顔をあげて八幡をしっかりと見据えた。大きな目の茶色がかった明るい瞳をこぼれ落ちそうに光らせて、つやのある厚い唇を開いてはっきりした口調で言う。

「あなた、八幡さんか。柚木と住んでる男の人なんだもんね。柚木とどういう関係だか知らないけど、瀬名くんになんでそんなことする権利があるわけ? 瀬名くんは柚木の大学時代からの友達なの。今回だって柚木が冤罪なのを晴らそうとしてるんだから。あなたは何? どうして邪魔するの?」

「瀬名さんが、柚木さんの冤罪を?」

「梨緒を殺したのは柚木じゃない。私は当時のことを他の人よりはちょっとだけ知ってる。だって、梨緒も柚木も友達だったし、私もあの時あの部署にいたから。瀬名くんに知り合ったのはたまたまだけど、協力できると思ったから、だからあの人をうちに入れたの」

「株式会社ビオテクファーマ、ライフサイエンス事業部創薬部門」

「そう。柚木は臨床開発チームで、私と梨緒は臨床試験チーム。あの時は特殊な自己免疫系疾患の特効薬の開発の最終フェーズに入ってて、もう実際の人間に投与して試験するところまで来てた。その中で、対人の臨床試験の担当になってた梨緒が突然亡くなったの。試験データの解析担当だった私には、プロジェクトの詳細なんて全部は伝えられてなかったけど、梨緒が死んだのとこの薬の試験とは絶対なにか関係あると思ってる」

 そこまで一気に言った女—篠崎久遠を前に、八幡はハッとして問い返す。

「もしかして、その薬の対象となっていた病気は」

「Systemic connective tissue disorder、全身性結合組織障害」


 八幡が弥勒の事務所に戻ってきたのは、西の空で日が空を赤く焼いて沈んでいく頃合いだった。なかなか帰ってこない八幡を弥勒が呼び戻したのだ。コートの前を開けて羽織った上にマフラーを一周巻いただけの姿で、事務所の椅子にぐったりと座り込んだ八幡に、弥勒は缶コーヒーを手渡した。

「どうだ、おまえのほうは」

「本人は見つかりませんでしたけど……、どうしていなくなったのかはわかった気がします」

「なんだそれ」

 弥勒が手元で四台のスマートフォンを操作しながら言う。八幡は組んだ両手に額を当てた姿勢で答えた。

「桐子に最後に使った新薬、あれはビオテクファーマのもので、柚木さんがその臨床開発チームにいたんです。僕が桐子の死んだ理由があの薬にあると思っていることを話したから、柚木さんは僕の元から離れたんじゃないかと」

「罪悪感か責任感からってことか? 恋人殺しの犯罪者にそんな情があるかよ」

「柚木さんは恋人を殺してなんかいません」

 八幡が強い語気で言い切ると、弥勒は意外そうに眉を上げてこちらを見た。

「なんで八幡がそんなこと知ってる」

 それには答えずに沈黙した八幡になにか言おうとした弥勒の言葉を、スマートフォンの着信音と振動音が遮った。しばらく声を落として話し込んでいた弥勒は、いらいらとデスクを人差し指で叩きながら何度か八幡のほうへ目をやる。通話を切ると、北風のような掠れ声で八幡に呼びかけた。

「柚木が見つかった。ビオテクの研究所で県警が追っかけてる。俺たちも行くぞ」

「はい!」

 八幡が目を見開いて頷くやいなや駆け出すのを、弥勒が呆れたため息をつきながら追った。

 ビオテクファーマの仙台研究所は仙台市の中心部から車で三十分ほど、青葉山の奥地にある。山裾には陸奥大学薬学部と理学部がキャンパスを構えているが、この研究所はそれよりさらに深い山間部を切り拓いた研究用の特殊な用地に大きな敷地を持っている。古くは動物園と遊園地があった場所らしいが、平野部にはなかなか広い土地が確保しづらい都市事情からこういった形になったらしい。

「社長が仙台出身の人間で、わざわざ土地のない仙台市内にどうしても研究所をって無理言って建てたんだとさ」

「そうですか」

 八幡の運転するワゴンは広瀬川を渡って青葉山へ向かう。日が落ちきってすでに深い藍色になった空が、ゆれる木々の黒い影と一緒にこちらへ被さってくるようだった。

 弥勒は助手席でスマートフォンでメッセージのやりとりをしながら、片耳にはめたイヤホンと襟元のマイクで別の人間と通話している。柚木捜索の関係者と連絡が取れているらしい。研究所の門には赤いライトを頂いた警察車両が並んで大光量のライトで通る車の人間を照らし、検問のような厳重な警戒体制を敷いていたが、弥勒がなにごとか担当者に告げると通過を許された。

「なんだ、まだ捕まってない? もう結構時間経ってるだろ。俺らはどこから入りゃいい」

 マイクに向かって言いながら髪をかき回して弥勒が唸るのを横目に、八幡は車を駐車場の端に停めた。

「まずは受付だ。中の人間が手配してくれてる」

「はい」

 どういう算段になっているのかはわからないが、八幡はそれ以上は聞かずただ頷くにとどめた。時間がないのはもちろん、弥勒が県警出身なのを利用して内部の人間に手を回すのが合法とは思えず、詳細を知りたくなかったのだ。

 研究所の敷地内にはいくつもの棟が建ち並び、どれも淡い灰色の鉄筋コンクリート造の窓の少ない簡素な建物で、ぱっと見には大学の施設のようだ。そのうち唯一正面をガラス張りにした事務棟らしき建物では、定時時刻に近いとはいえまだ所内に多く残っていた社員を誘導している警察官の姿がちらほら見えていた。柚木捜索のために一般の社員を帰らせて建物を封鎖しようとしているらしい。

 八幡と弥勒は人目につかないよう関係者のような素振りで受付のAIのチェックを通過する。弥勒が通行用のパスカードを事前に入手してきたという。おなじく弥勒がどこからか持ってきた研究所内の建物の地図をスマートフォンで見ながら、柚木が最初に発見されたバイオ棟という建物につながる連絡橋を渡った。バイオ棟側には、正面のガラス戸と、それに並んだ社員向けの通用口のような小さなドアがある。施錠されていたが、弥勒がドア脇のタッチパッドでパスワードを入力すると簡単に開いた。八幡はいまさらパスワードの入手方法を訊す気にもならず、顎髭をざりざりと右手で擦って弥勒に続いた。

「柚木さんが最初に見つかったのは」

「あいつがいた部署、ライフサイエンス事業部創薬部門のオフィスらしい。昔のデータでも盗みに来たんだかな」

「まだ所内にはいるんですかね」

「門の警戒がいちばん厳しいからな。どっかに隠れちゃいると思うよ。俺は県警に協力してて、柚木を確保したら引き渡すってことに建前上はなってるから、そういうつもりでよろしく」

 ひとまず創薬部門のオフィスに向かう。さほど広くない部屋に、パーティションで社員ごとに区切られた作業デスクが整列している。制服の警官たちが行き交う中に混じりながら、弥勒はその中で唯一スーツ姿でひときわ体格のいい角刈りの男に声をかけた。

「朝比奈」

「弥勒か、遅かったな」

 朝比奈は八幡にもかるく会釈すると、自分の背中にあるデスクを指で示して言う。

「ここにいたらしい。監視カメラに映ってた。書類がなくなってる。あとPCのデータ、保存用のハードディスクも」

「あれか、例の新薬の関係のデータ」

「ああ。なんでまた逃亡中にこんな派手なことを」

 首を捻る朝比奈と対照的に、八幡は納得した気持ちで思わず長いため息をついた。柚木は桐子の使ったあの新薬、全身性結合組織障害の特効薬の開発プロジェクトを撹乱しようとしている。

「それで、いま柚木はどこにいんだ」

「所内を捜しまわってもまだ出てこない。あとは薬品庫とか危険物保管倉庫とか、普通は入れないところを開けてもらうしかないな」

 朝比奈がそう言ったとき、ポケットの端末が鳴り、ほぼ同時にオフィスに青い制服の若い警官が息を切らせて駆け込んできた。

「朝比奈さん! いま、実験室のほうで警報が」

「いたか」

 駆け出す二人をのんびりと見やる弥勒に、八幡が言い募る。

「僕らも行かないと」

「まあ待ってろ」

 弥勒はスマートフォンのひとつをポケットから取り出して、画面上の地図を八幡に見せた。

「朝比奈にマイクロ発信機をさっき仕込んだ。これで追っかける。表立って同じように行動してたら変だろ、現役の刑事でもねえんだし」

「はあ、まあ……」

「三階の実験室に入ってる。裏の階段から行くぞ」

 そう言って廊下を早足で歩いていく弥勒を八幡は追いかけた。

 三階はフロアの半分の南側がオフィスエリア、北側は厳重に区画された実験室になっていた。実験室とオフィスを仕切る壁は二重構造の機密性の高いものらしいが、上半分は透明な強化ガラス製で、お互いの状況を確認できる仕様になっているようだ。オフィスのデスクや椅子の間を通り抜けながら、

「実験室でなにかあった時にオフィス側で気づけるようにってことかな」

「そんなもんだろう。あとはまあ、怪しい行動するやつがいないかの相互監視だろうな」

 と言い交わす。実験室のドアは普段はカードキーによる承認制だが、いまは緊急時なので開け放されており、八幡も弥勒も問題なく入り込めた。中では慌ただしい足音と怒号が飛び交い、大勢の青い制服の人間でひしめいている。奥の低温特殊実験用の小部屋あたりで揉めているらしい。

「いた、そっち、そっち」

 青い制服の人波の中で、大型の冷凍庫のような低温室の重たい金属扉を肩で押し開いて転がり出てきた小柄な男の、白いパーカー姿が浮き彫りのように目立って見えた。めくれた裾から見える体や、首や腕にいくつもの傷跡を生々しく火照らせて床から起きあがろうとした男を、周りの警官たちがいっせいに取り押さえにかかる。

「柚木さん!」

「……八幡?」

 こちらを向いて動揺したように目を見開いた柚木は、その怯んだ一瞬の隙に捕らえられた。左右から二人に腕を取られて上体を抑え込まれ、下半身はさらに二人の警官に警棒や特殊なテープのようなもので拘束されていく。八幡が止めようとそちらへ向かいかけるのを、弥勒は県警の捜索隊から隠すように実験室の入り口へ引っぱり出した。

「馬鹿、なにやってんだおまえ」

「離してください! 柚木さんは僕が」

 揉み合う二人にも聞こえる朝比奈のよく通る大声が、人垣を抜けて響く。

「おかしい、まだ警報が収まらん。柚木に反応して鳴ったんじゃないのか」

「バイオ棟内にまだ侵入者の熱反応があります」

「先程から監視カメラに異常が出ていて……」

「通信障害か、外部と連絡が取れません」

 周りの制服の部下たちもざわめきはじめ、その様子に八幡と弥勒は掴み合う手を止めて顔を見合わせた。

「どういうことだよ」

 弥勒のつぶやきに答えるように、警官に組み敷かれた柚木と、弥勒に襟元を締められた八幡が同時に言う。

「瀬名と久遠」

「瀬名さんたちだ」

 その瞬間、実験室を煌々と照らしていた大量の室内灯と、オフィスエリアの天井灯がすべて消えた。常時稼働させているはずの実験機器類が、断末魔の叫びのようにアラート音をいっせいに鳴らして電源を落とす。捜索隊の男たちからどよめきが起きた。続いて天井からスプリンクラーの水と、化学薬品火災用の泡状の特殊消化剤が吹き落ちる。停電と消化剤とで視界を奪われる中、部屋の入り口から小柄な黒い影が滑り込んでくるのを八幡は見た。

「……いけない」

「八幡!」

 瀬名聡だ、と八幡は確信している。暗闇に目を凝らし、弥勒の腕を振り切って八幡は駆け出した。黒い男は迷うことなく床に押さえつけられた柚木の元へまっすぐ向かう。なにか視界を確保できる用意があるのだろう。八幡が追いつく前に、瀬名は懐からスッと刃物を取り出した。それはあの日、出会ったばかりの柚木が八幡の喉に突きつけたのにそっくりな、わずかな明かりを反射して光る銀色の大ぶりなナイフだった。八幡はその光を目にして足がすくみ、柚木から少し離れた人垣の中に立ち止まる。

 瀬名はナイフを躊躇なく逆手に握って、柚木を抑えている警官たちの胸を正確に刺し抜いた。叫びをあげる隙すら与えない鮮やかでよく慣れた手捌きだった。

「お迎えにあがりました」

「うるせえ聡、余計なことすんな」

 瀬名と柚木が低く言い合うのが聞こえてハッとする。瀬名が柚木を連れて行ってしまうのを理解して、八幡は青服をかき分けてふたりの元へ走った。瀬名はまだ両脚を拘束テープで縛られて身動きが取れない柚木を、大型の実験機器搬送用の荷台に引きずりあげて載せた。そのまま勢いをつけて荷物搬出用のエレベータに向かって押し出す。

「柚木さん!」

 叫んで追いかける八幡に、瀬名は自分もエレベータに入り込みながら、肩越しに浮き立った明るい声をかけた。

「八幡さんだっけ、あんた、僕と取引だよ。人質交換の条件は久遠が伝える」

 なお追いつこうと縋る八幡の周りの捜索隊が、一歩遅れて瀬名を追って動き出し、人波の中で八幡の声はかき消されて柚木にも瀬名にも届かなかった。

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