4

仙台市青葉区片平(かたひら)、陸奥大学片平キャンパス。市内六箇所に分散したキャンパス群の中でもっとも古く歴史があり、研究棟と教育施設に加えて大学本部を擁している基幹キャンパスだ。特に生体工学研究所は世界的にも名が知れていて、SEIKOKENと英字で検索するだけで世界数多ある研究所に埋もれることなくここのサイトがヒットするらしい。敷地は白い石造りの壁とその内側に植え込まれた高い木々で囲まれて、外からはちょっとした城郭のように見える。

 その南門の向かい側、広瀬川に接するように建ったマンションやアパートには、学生や教職員はもちろん、立地のわりに家賃が安価なので独身の若者が多く住む。そのうちの一つ、「ホワイトコート片平」と刻印した金属表札を掲げた五階建てのマンションを前に、柚木は自転車のハンドルを握ったまま呆然としていた。

 あまりにも馴染みのある建物だ。自分の出身大学が目の前だからなんとなく入っていくのが後ろめたいのも、ベランダ側が川なので梅雨には湿気が上がってきて家中の窓が結露することも、柚木はよく知っている。クローゼットをちゃんと管理しないと何もかもが黴にやられてしまうから、今度住むなら高台がいい、と梨緒も久遠も言っていた。株式会社ビオテクファーマの借り上げ社員寮の一つとして、主に女子新入社員に割り当てられていた物件。この最上階の梨緒の部屋、五〇二号室に、去年のあの事件の日まで柚木は住んでいたのだ。

「なんでだよ」

 柚木は思わず言う。瀬名の指定した住所を地図アプリに入れてたどり着いたのがここだった。指定場所が梨緒の家ならそれと気付きそうなものだが、そもそもここの住所を文字列として認識したことがなかったのだ。ただ地理的な位置と部屋の番号だけを把握していたし、同じ片平とはいえこのマンションと瀬名聡が結びつかなかった。

 柚木はコートのポケットからスマートフォンを取り出して瀬名にコールした。

「いま下まで来てる」

「五〇四号室」 

 それだけ言って瀬名は通話を切った。柚木は目を見開いてマンションホールの操作板を凝視している。五〇四号室、梨緒の部屋の二つ先のその部屋は。

「開けたよ。入って」

 操作板のスピーカーから確かに瀬名の声がして、柚木はハッと意識を戻した。嫌な予感を抱えながらエレベーターで上がった廊下の先、504号室のドアからは、想像通りの姿があらわれる。

「柚木! 久しぶりだね。聡くん待ってるよ」

「久遠」

 五〇四号室の住人、篠崎久遠は、記憶の中の姿と変わらぬ明るい栗色の髪を肩口で外へ跳ねるように巻いて、ふわふわと起毛した真っ白なニットに短いスエード風のスカートを合わせた姿で、にっこりと大きく季節外れのひまわりのような笑顔を見せた。

 どうしておまえの家が瀬名との打ち合わせ場所になってるんだ。瀬名とどういう関係だ。なぜおれがここにいるのに変だと思わない。聞きたいことはいくらもあったが、柚木はとっさに言葉が出なかった。無言で俯いて頷き、久遠に従って部屋の中へ入る。1LDKの室内は梨緒の部屋とまったく同じ間取りだが、玄関に並んだ靴や傘立てをはじめとする細かな持ち物や調度のすべて、うっすら存在する部屋特有の匂いまでも、なにもかもが梨緒のそれとは違っている。梨緒はシューズボックスの上に小さな焼き物の犬と樹脂加工したドライフラワーの花束を置いていて、隣にくしゃくしゃの笑顔の梨緒とはにかみ笑いの柚木の写真を並べて飾っていたことを、柚木は一瞬で鮮明に思い出した。

「遅かったじゃん」

 リビングでソファに当然のように座る瀬名が片手をあげる。ベージュのソファに煉瓦色のラグ、朱赤のクッションやスリッパとそれに合わせた明るいオレンジのカーテンで暖かい色合いにまとめられた部屋に、真っ黒な細身のジャケットとぴったりとしたパンツ姿の瀬名の姿はまったく馴染まなかった。

「なんでだよ」

 柚木は思わずまたそう言うと、瀬名が楽しそうに声を立てて笑った。

「柚木の事件の話はできるだけ秘密を守りたいからあんまり業務時間内に触りたくないんだよ。だからオフに呼んだの。言ってなかったっけ、僕こないだからこの家に住んでるんだ」

「聞いてない」

「久遠がいいっていうからマンスリー引き払ってきちゃった。ああ、僕たちね、最近付き合ってんの」

 キッチンから戻ってきた久遠は、ペットボトルの緑茶とタンブラーをテーブルに並べながら、

「聡くん、私いないほうがいい? 聞いてるほうがいい話?」

 と窺うように言う。瀬名は簡単に、座っててよ、とあしらうように答えて口の端を上げた。

「久遠も協力してくれるって約束でしょ。そのためにここで三人集まったんだから」


 八幡は車を走らせて泉中央の家に向かった。大きな家電や家具の一部は今の立町(たちまち)の隠れ家に移し、残りは処分したので部屋にはほとんどなにも残っていない。今日は最後の退去手続きと電気、水道、ガスの停止の立ち会いだけだ。会社には体調不良でしばらく休むと伝えて三週間ほど欠勤を続けたあと、人事部宛に退職届を送っていた。所属先のフェリー会社は三ヶ月程度の乗船期間と陸上の事務所での勤務期間を交互に繰り返す特殊な業務形態のため、突然フェードアウトする社員は少なくない。八幡の退職届は特に問題なく受理されていた。もともと職場の人間と業務外で接することの少ない身なのも幸いして、大きな騒ぎにもならなかったようだ。

 管理会社の点検が済んで鍵を返却すると、部屋は完全に八幡の手を離れ、わずかに残っていた気がする桐子のいた気配も完全に消えてよそよそしい雰囲気になった。玄関ドアの前で管理会社の係員と別れて車に向かう。空からはポツポツと小雨が落ちはじめて、フロントガラスに涙のようなこまかい跡を残していた。

 八幡が助手席のダッシュボードの物入れを開けると、中から小さな手帳型のケースが落ちた。高原桐子と表に記名されたそれは、桐子の保険証や診察券と、処方薬の記録帳をまとめておくためのものだ。八幡は拾って中を見ながら、桐子の死後もなんとなく処分しづらくてしまい込んでいたことに気づいて苦笑した。

 三年前の夏、桐子は陸奥大学病院に入院した。倒れた時はすぐに退院したものの、それ以来体調不良が続き、精密検査のために再度入院することになったのだ。レントゲンや採血に始まるさまざまな検査を連日続けたが、これといった病名に行き当たらず診療科さえ確定しない。最終的に精神的な問題による心身症のような状態ではないかと精神科へ送られることに決まりかけたのとちょうど同じタイミングで三度目の採血の結果が出て、免疫機能に異常があることが明らかになった。

「Systemic connective tissue disorder、全身性結合組織障害?」

「膠原病の一種です。新しい病気で、二〇二〇年代の新型コロナウイルス流行以降に国内で確認されたものです。新型のウイルスに感染したことで免疫機能に負荷がかかり、自分の臓器を攻撃するようになった自己免疫疾患ではないかと考えられています」

 診察室で桐子と共に説明を聞くことを許された八幡が、聞いたことのない長い病名を反駁すると、膠原病内科の担当医は冷静ではっきりした口調でそう説明した。三十代後半、八幡や桐子とさほど変わらない年齢らしき医師は、その割に白髪の多い髪を分けて撫でつけ、白衣の下にきっちり糊のきいたワイシャツを着込んで背筋を伸ばしている。

「この病気の診断は、『この検査の数値がこれ以上ならば確定する』といったものではないんです。今までの高原さんの、疲れやすさ、発熱、めまい、頭痛などの各種の症状と、血液検査の結果、それから特に肺と関節と皮膚の症状を元に、総合的に判断したものです」

 検査入院の期間中、桐子は肺炎を起こしてそれが重症化し、一時はその重点的な治療で検査どころでなくなった。もともと息が苦しく深い呼吸がしづらいと以前から訴えていたものが急速に悪化しているらしい。それに加えて桐子にはここ数週間、関節の痛みと同時に顔に大きな赤い痣のような紅斑(こうはん)が現れていた。どこにぶつけたわけでもないのに腕や腹にも鮮やかに赤い痕がつくので、本人の健康的な肌色との奇妙なコントラストに八幡は心を痛め、これはきっと難しい病気なのだろうと覚悟しつつあった。

「それで、これから私はどうすればいいんです」

 桐子が赤い斑の浮かんだ顔をあげて、医師を見つめて言う。何事にも物怖じしない勇敢な桐子らしく、八幡よりもよほど落ち着いているようだった。

「ステロイドによる治療をすぐに始めます。しばらくは入院していただき、集中的な投薬を受けることになるでしょう。状態が安定してきたら通院治療に切り替えられます」

「ステロイドの他には」

「もしステロイドの効果が薄かった場合、次の選択は免疫抑制剤です。これには副作用も大きいので、一緒によく考えていただくことにはなると思いますが」

「……あの」

 八幡がそっと言葉をはさむ。医師は、はい、と目配せして続きを促した。

「……この病気の予後は……、その、あと何年くらい、元気で生きていられるんです」

「五年以上生存する人の割合は、現在では九十五パーセント以上にまで改善しています。大半の患者さんが十年間は元気に過ごしておられます」

 そうですか、と言って大きく息を吐いた八幡の隣で、桐子は医師に向かってきっぱりとした口調で言った。

「私、できることはなんでもやります。先生、よろしくお願いします」

 それからの治療の日々、ちょうど二年間にわたる桐子との短い生活のほとんどは、陸奥大学病院の入院病棟の中で過ごしたものだ。

 八幡は車を降りて柚木の眠る部屋に戻りながら、頭の中に思い出が湧き出すのを抑えた。なにを懐かしく思い描いても、最終的にはあの日、桐子が死んだ日のことへ繋がってしまうからだ。それは去年の九月、仙台の夏が一瞬で過ぎ去っていくその最後の瞬間のような、若干肌寒いほどの風が吹く日だった。眠るように息を引きとった桐子の血の気をなくした顔を思い出しそうになって、八幡は小さく頭を振った。

「ただいま」

 傘がなかったのでコートが湿っていた。八幡は強くなってきた雨が吹き込まないよう急いでドアを閉めた。廊下の妙な位置にあるいかにもあとから作られたらしき洗面台で、手を洗ってうがいをした。奥の部屋に向かおうとして、明かりがついていることに気づいて立ち止まる。柚木は眠るときに室内灯を消す癖があって、特に青白い電灯の光を嫌うので、廊下に漏れるほど明るくなっているのは妙だった。他にも誰かいるのだろうか。

「柚木さん」

 そっとドアを押して中を覗くと、とたんに大きな物音と男同士の悶着する声が聞こえて八幡はぎょっとした。入ってすぐのダイニングとその横のリビング部分を慌てて通り抜けると、窓に接した柚木のベッドの上で揉み合う二人の男の姿が目に入る。柚木はどういうわけかほとんどなにも着ておらず、不健康な青白い肌に痣と傷跡を紅く浮き上がらせた姿で、もう一人の小柄で細身の全身黒ずくめの若い男に組み敷かれるのに抵抗していた。

「あ、柚木の彼氏、帰ってきちゃった」

「八幡」

「え、ちょっと、なにやってるんですか」

 八幡は動揺しつつも、柚木に加勢しようと黒い男の背後をとって羽交い締めにしてベッドから引きずり下ろす。男は場違いな薄笑いを浮かべて身を捩る。真っ黒な瞳の、モデルか役者のように整った顔つきがおそろしかった。身長が一八〇センチを超える八幡なら、柚木と同じくらいの背丈の男を引き離すのは力ずくでなんとかなる。暴れる男を抑えながら、

「柚木さん!」

 と叫ぶ八幡に答えてベッドから飛び降りた柚木は、男の腕を掴んで小さなシリンジを取り出すと、袖を捲り上げて太い静脈に針を突き刺して注射した。その一連の動きの意味をまったく理解できずに呆然と見つめている八幡の腕の中で、男がぐったりと脱力して意識を失った。

「なにをしたんです」

「こいつが持ってきた薬だ。全身麻酔の導入とかに使う催眠鎮静剤。病院につてでもあるんだろ」

 柚木はまだ頬を赤くしたまま、息を切らせてそう言った。腰に引っかかっているだけのジーンズを履き直して床に落ちたスウェットを拾って被ると、八幡の抱える男を自分のほうに引き寄せて、ずるずると廊下へ引きずりはじめる。

「どうするんですか」

「外に出しとく。寒さで起きたら勝手に帰るだろ。やるときに薬物を使おうとしたのはルール違反だが、いまさら聡と手を切れない。このくらいで痛み分けだ」

 そう言い募った柚木が部屋の外へ姿を消してから、十分ほどで戻ってきたときには、さっきの男の姿はどこにもない。念の為玄関ドアの前とフロアの廊下を見回ったが、それらしき痕跡はなかった。本当に柚木がどこか路上にでも置いてきたものらしい。

「そんな、こんな時期に外に出したら死んじゃうかもしれませんよ」

「その時はそれまでだろ。あいつが悪いんだ」

 柚木はそう言ってソファに横向きに長く寝そべった。八幡は戸惑いつつも部屋に戻ってくると、エアコンとヒーターを最大出力にしてから瞬間湯沸かし器をセットして、

「柚木さん、あのね、もうちょっと自分を大事にしてくれないと。そういう、簡単に違法なことに持ち込むのもそうですけど、その、体を売ったりとかそういうのは」

「なんで」

「だって、そりゃあ……、柚木さんの味方をしてる僕が納得できない」

 と言葉を継いだ。うまい表現ではないとわかっていたが、それでも多少は気持ちの説明になるだろう。柚木はそれでもなにがなんだかわからないというきょとんとした表情になり、ふうん? とつぶやいてソファの上にあぐらを組んだ。

「瀬名聡、あいつは今の仕事のパートナーだ。他にも仕事や、ここの住処を斡旋してもらってる。おれから返せる金が少なすぎて、埋め合わせにたまに寝てる。あいつが今女の子と住んでて場所がないからってここまでついてきたんだ。あんなシリンジを持ち出されるのは想定外だった」

 淡々と表情もなく言う柚木を見るうち、八幡は憐れむような悲しい気持ちでいっぱいになった。ポットで沸かした熱湯を二つのカップに注ぐ手元がかすかに震える。それぞれにティーバッグを落として盆に乗せ、ソファの前のテーブルに運ぶと、柚木はうれしそうに手を伸ばしてきた。

「これ、何」

「マスカットと洋梨の香りのついた紅茶です。これ飲んだら、お夕飯にしますね」

 そう言って笑いかけながら我知らず涙ぐんだ八幡を、柚木は驚いたように目を丸くして見ながら、

「八幡はちょっとだけ、梨緒に似てるな」

 と低くやわらかな声で言った。

 

 その夜の八幡はいつにもまして寝付きが悪く、布団に入って二時間以上眠れなかった。深夜三時をまわったところで起き上がってベッド脇のデスクのライトを弱く灯した。寝付けない時は一旦諦めて起きてしまったほうがいい。暗闇で横になっていると、昼間思い返していた桐子の闘病の日々のつらい記憶や、柚木が瀬名という人間と協力してなにか「仕事」をしていることへの不安、そしてなによりその柚木に関わった八幡自身がこれからどうしたらいいのかわからなくなっている混乱が頭の中につぎつぎと押し寄せてくるのだった。

 反対側の壁際のベッドでは、柚木が腕と脚を布団から出したまま眠っている。八幡は布団をそっとかけなおしてやると、薄明かりの下で柚木の顔を眺めた。相変わらず顔色が悪く、しかし眠っている時だけは不思議とあどけなく幼い。柚木は日ごとに眠っている時間が長くなっている気がする。瀬名との仕事の影響なのか、どこからか戻ってきて食事をとらずに寝てしまう日も多くなった。

 八幡は少し考えてから、デスク用の椅子をベッド脇へと移動させて座った。静かに寝息をたてる柚木に向かって、いつもは声量と張りのあるよく通る声を低く落として話しかける。

「柚木さん、聞いてくれますか。僕の恋人の話」

 八幡は柚木が起きていないのは承知で、高原桐子の闘病生活について語りはじめた。気持ちの整理のためには、一度声に出して誰かに吐き出すしかないが、それには多少の物音では起きない眠りの中の柚木が適任に思えたのだ。

 桐子はステロイドの短期大量投与療法とその副作用によく耐えたが、病状はあまり改善せず、結局免疫抑制剤を使うことになった。異常な免疫反応を強力に抑えるぶん、副作用もさまざまなものが強く出る。桐子は吐き気と嘔吐でほとんど食事をとれなくなり、急激に体重が減った。退院して自宅での療養が可能になり、病院には定期的に通って投与を受けていたが、薬の性質上感染症にかかりやすくしょっちゅう熱を出すようになったので、行き帰りに電車やバスを使うのは早々に諦めた。八幡が車を買ったのはこの時だ。病気そのものの進行も早く、肺の炎症が慢性化して水が溜まり、緊急手術のために再度の入院を余儀なくされたのは、最初に倒れた日からまだ二年弱しか経っていない頃だ。八幡は焦りを感じていた。思っていた以上に桐子に残された時間が短いことを、八幡も桐子もこの時にはもう理解しはじめていた。

 八幡と桐子は結局婚約して同居した状態のまま、婚姻届を役所には提出していなかった。八幡はすぐにでも正式な結婚の手続きをふみたかったが、桐子が反対して頑として聞かなかったのだ。

「どうして」

「だって、博範さんはまだ若いでしょ。これからがあるじゃない。私がいなくなったら、また新しい人を見つけて、それからちゃんと結婚しなよ。私たちにはもう、あんまり時間はないから」

 結局話し合いの末に八幡が折れて、事実婚のかたちを続けることになった。

 八幡が医師から呼び出されたのはそれから少し経って、仙台の湿度が高く冷え込む梅雨が終わり、夏の気配がようやくやってきた八月のはじめのことだった。仙台市内の中心部では七夕まつりが行われて、例年通り長い吹き流しを吊るしたアーケード街に人が集まっていたはずだが、八幡はそれどころではなく街に足を向ける余裕もない。

 大学病院の周りに植え込まれた木々が青葉を揺らして、青空に刷毛で書いたような雲が湧いていた。最初に桐子が倒れた時と同じように、蝉の声が湧き立ってあたりを満たしている。八幡は首元の汗を拭うと、病院の正門から入って膠原病内科へと向かった。

 医師が八幡にいつも通り冷静に話したのは、桐子の病気のための開発途上の新薬を試せるかもしれないという内容だった。特効薬として大きな期待のかかった薬であるという。医師の隣に座ったスーツ姿の女性が差し出した名刺には、治験コーディネーターという肩書きがあった。その女性から別室で説明を受けた八幡は、この病気にかかっている患者がかなり少数で試験に参加できる人間が限られていること、この薬にはメリットだけでなく当然リスクもあることなどが書かれた資料を繰り返し読んで悩んだ。桐子も既に同じ説明を受けているとのことだった。

「八幡さん」

 少し考える時間が欲しいと待合室のベンチに座っていた八幡の元へ、看護師が駆け込んできた。

「高原さんが急変して……、いま先生が処置してます」

 桐子は数日前から全身に発疹があらわれて高熱を出していたが、八幡が新薬の説明を受けているのとほぼ同時刻に、突然呼吸不全に陥って意識をなくしたという。八幡が駆けつけたときには集中治療室に入っていて、とても面会できる状態ではなかった。

 処置を終えて戻ってきた担当医に、八幡は縋りつくようにして言った。

「新しい薬を使ってください。どうか、桐子が少しでも助かる可能性があるのなら」

 新薬の投与から一週間後、桐子はようやく意識を取り戻した。

「桐子」

 桐子の手がそっと八幡の手首を掴んでいる。ベッド脇の八幡がかがみ込んで呼びかけると、桐子は視線をふらふらと彷徨わせたのち、八幡と目をあわせてかすかに微笑んだ。顔を寄せて額に手をやるとまだ燃えるように熱い。

「大丈夫?」

 桐子は小さく頷いた。八幡がナースコールのボタンを押そうとすると、小さくかぶりを振って、

「……いい」

 とやっと絞り出した声で言った。八幡は動揺を隠しつつ、そうか、と答えて笑顔をつくった。

「よかった、目が覚めて……」

 思わずそうつぶやくと、桐子は困ったように眉を寄せた笑顔で八幡を見上げた。肌は黄疸でくすみ、全身が浮腫んでいるわりに顔だけが削ぎ取ったようにやつれて、かつての桐子の面影はない。長らく整える機会のない癖毛は脂じみてほつれ、布団の上に並んだ両腕は採血の針と留置針の跡の青痣だらけで、それが赤い発疹と重なって複雑な模様を作って痛々しい。

「お水飲みたい」

「うん」

 ベッドのリクライニングを調節してわずかに上体を起こしてやり、ペットボトルのミネラルウォーターにストローをさして差し出すと、桐子は自力で飲み込んだ。それだけまだ回復に希望が持てる状態なのかもしれない、と八幡は思った。桐子の腕の留置針はチューブでベッド脇に吊るされた薬剤のバッグに繋がれ、点滴でごく微量が投与され続けていた。数時間後にはもう一段階増量する予定になっていて、これが最後の望みだった。

「これ、新しい薬だって。効くといいね」

「そう」

 桐子はかるく頷いてまた頭を枕に沈めた。八幡のほうに顔だけ向けて、まるで睫毛についた光の粒を振り落とそうとするかのように、何度もこまかく瞬きを繰り返した。

「眠いなら無理しなくていいんだよ」

 八幡は桐子の髪を手で漉いた。ずいぶん髪が細くなった、と実感して涙ぐみそうになる八幡に、桐子ははにかむように目を細めて笑いかける。

「だって、今度またいつ会えるか、わかんないでしょ」

 それが二人の最後の会話になった。再び眠りの海に沈み込んだ桐子は、この日の薬剤の増量の直後から容体が悪化し、そしてついに息をひきとった九月一日まで、もう二度と意識を取り戻すことはなかったのだ。

「担当の先生は絶対にそれはないって言っていたし、亡くなったあと病理解剖もしてもらいました。だから科学的には問題なかったのはわかってる。でも、僕自身が納得できないんです。僕の、桐子への新薬の投与の決断こそがあのひとを殺してしまったんだと、僕はずっとそう思ってる。恋人を殺したことになって刑務所にまで入れられた柚木さんは無実で、死んだ恋人を忘れられない善人ぶってる僕には罪がある」

 八幡がそう言って顔をあげると、目の前のベッドの中で背中を向けて丸くなっていた柚木は寝返りをうち、静かに目をあけてこちらを見た。

「……起こしちゃったか。はは、僕の話、聞いてました」

 柚木は大きな目に光を湛えて、なにもわからないという顔をしてみせる。

「いま何時」

「四時過ぎたところかな」

「ふうん」

 柚木は興味なさそうに言い、また八幡に背を向けて毛布を体に巻きつけると、その上に綿布団を頭までかぶせた。八幡は少し笑って自分の椅子をデスクに戻すと、自分もベッドに向かう。不思議と気持ちは穏やかで、布団に入って十分足らずで、桐子の死以後絶えてなかった深く安らかな眠りに落ちていた。ハッと目が覚めると、薄く開いたカーテンの間から冬の明るい薄水色の空がのぞいて、気持ちのいい朝の光の中に八幡はいた。時刻は九時をまわっている。

「わ、こんな時間か……、朝ご飯の支度しないと」

 そう言いながら起き上がって、ふと違和感に気づく。反対側の壁のベッドに柚木の姿がない。跳ね散らかした毛布と綿布団に寝巻きが絡まっているだけだ。ソファーにもダイニングテーブルにもいないなら、あるいはどこかへ出かけたのだろうか。あの柚木がこんな朝の時間に覚醒して動けるとは到底思えなかったが、他に可能性はなかった。

「おかしいな」

 柚木のスマートフォンにメッセージを送ったついでに念の為電話をかけてみたが、番号が現在使われていない旨の機械的なアナウンスが流れるばかりだ。そして携帯電話が用をなさなければ、八幡から柚木へ連絡する手段はもう残っていないのだ。思いのほか簡単に切れてしまう儚い繋がりだったことに、八幡はここでようやく気がついた。

「……柚木さん、そんな、嘘でしょう」

 柚木のいなくなった部屋で、八幡はそうつぶやいて呆然と明るい窓の外を眺めた。

 八幡は一日中部屋を出ずに、スマートフォンのメッセージや着信をいつでも受けられるようにして過ごした。夜が更けても、日付が変わっても、八幡の待つこの部屋に柚木は帰ってこなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る