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「柚木修(ゆのきしゅう)、二十六歳、宮城県仙台市出身。陸奥大学薬学部医療薬学科卒業。株式会社ビオテクファーマ、ライフサイエンス事業部創薬部門臨床開発チーム所属」

 弥勒が読み上げる少し掠れた声に合わせて、八幡はタブレット端末上の文字列を目で追った。久しぶりに事務所で対面した弥勒は、相変わらずの蓬髪の下にギョロっとした目を光らせ、枯れ木のような痩躯にタバコの匂いを纏わせて八幡を出迎えた。彼が手渡した端末上の報告書には、履歴書形式の学歴と職業のリストに始まり、数十ページに渡り「ユノキ」の個人情報が写真や地図を交えて整理されている。一ページ目の右上に、どこから取ってきたのか証明写真のようなはっきりした正面からの顔写真が付けられていた。こちらをしっかりと見据える大きな目の下の隈が濃い顔を眺めながら、意外にも柚木が思っていたよりも若く、自分より十歳ほど年下だったことを知り、うっすらと彼を憐れむ気持ちが湧くのを八幡は感じた。

 端末にかがみ込んで心なし緊張して柚木の経歴を辿り始めると、

「まあとりあえず座ってゆっくり読んでくれや」

 とデスク越しに言われて自分が立ったままだったことに気づく。上の空でデスクチェアに腰掛けながら、弥勒が上目遣いに眉をあげて気遣わしげにこちらを見ているのにも構わず、黙々と報告書を読んだ。

 柚木は大学院を出て仙台市に大きな研究所を構える製薬企業に入社し、新薬開発の部署に配属されたばかりの新人研究員だった。難病の特効薬を開発するチームに加わり、無愛想で人付き合いは悪いがそれなりに優秀な社員だったらしい。勤務態度も問題なかったものの、初年度の十二月から突然長期休職に入っている。持病の睡眠障害の急激な悪化によって勤続が困難になったためだという。

「ナルコレプシー」

「過眠症の一種だな。日中の強い眠気だけでなく、感情が高まった時に眠り込む発作を起こしたり、常に長時間の睡眠が必要になったりする病気。原因は不明で根本的な治療法はない。一応、日中に眠気を軽くするように覚醒作用のある薬を処方されることもあるが、対症療法だしな。薬価が高いし身体的な負担がでかいらしくて、柚木も飲むのはやめちまったらしい」

「それであんな様子なのか……」

 八幡はそう言いながらこの二週間余りの柚木との暮らしを思い返した。ボロボロになって逗留先のホテルに戻ってきたあの日、柚木はどういうつてなのか二人で隠れ住める物件の情報を持ち帰ってきていた。青葉区の歓楽街の国分町エリアに大通りを挟んで向かい合った区画、座敷付きの高級料亭や鉄板で仙台牛を焼くステーキハウスが隠れ家的にひそみ、その周りを新旧のラブホテルが取り囲む中に建つ、看板のない事務所だらけの雑居ビルの一室。八幡は数日がかりで泉中央の自宅から必要最低限の荷物を運び出し、そのおよそ居住用とは言えない部屋に入れてなんとか生活空間らしく整えるのに時間を費やしていた。柚木はその傍らで大半を眠って過ごし、たまに目を覚ますと電子書籍タブレットで黙々と読書するか、今では珍しくなった携帯音楽プレイヤーで何か聴くかしていて、それも小一時間でうとうとして中断する。八幡はもう柚木が部屋のどこで眠っても気にしないようになっていた。

「八幡、おまえこの柚木修とどういう関係なんだ」

 弥勒が直截に聞くので、八幡は顔をあげてハッと目を見開いた。顎に手をやって無精髭を擦る。

「いやその……、しばらく匿ってるというか、一緒に生活することになってまして」

「なんだそれ、こいつが犯罪者だとわかっててか」

 八幡は、はあ、まあ……、と曖昧に頷いて視線をさまよわせた。弥勒が言った通り、柚木の身の上は真っ当な人間のそれではない。最初からおそらく法を犯したかなにかで逃亡しているのだろうとは思っていた。柚木のあの様子では本人が事情を話すこともなさそうなので、弥勒に身上調査を依頼したのである。

 柚木修の罪状は殺人、同居していた恋人を殺した罪だと報告書にはある。柚木が睡眠障害で長期休職に入った時から同居しはじめた皆本梨緒が自宅で不審死したのが去年の二月。発見者として通報した柚木は警察の捜査でもっとも有力な容疑者とされる中で行方をくらまし、最終的に逃亡先の札幌市内で逮捕された。その後は状況証拠と自供から裁判で懲役刑が確定しており、収容されていた札幌刑務所からの移送中に逃げ出して八幡のフェリーにたどり着いたらしい。

「睡眠障害が酷くなって札幌刑務所で対処しきれなくて、日本でいちばん医療設備が整ってる八王子刑務所へ移すことになったんだ。最初に捕まった時も逃げてる時もニュースになってただろ、顔も実名も出てた。そこにもネットニュースの記事貼ったけどさ」

 弥勒が腕を伸ばしてページを繰ると、八幡の手元の端末には、報道各社のニュース記事から猥雑な週刊誌系のサイトのゴシップまで、皆本梨緒の死亡事件に関するスクラップが集められたページが表示された。皆本梨緒の死んだ時の現場の状況にはじまり、同居していた片平のマンションの地図や外観写真、柚木や梨緒の顔写真などが掲載され、二人の学歴や人物像などまで細かく書かれている。柚木の家庭環境が恵まれていなかったとか、両親からの虐待があったのではないか、などと書いた記事もあった。いくら犯罪者とはいえ、プライベートを公に報道するそれらの記述がつらく感じられ、八幡はつぶさに読むのに気がひけた。

「……桐子のことで忙しくなってから、ニュース見てる余裕なかったので」

「それでも、まともな人間じゃなさそうだとは思ってたから俺に調査を依頼したんだろ」

「それはまあ……、そうなんですが」

 八幡が柚木と梨緒の事件を知らなかったのは事実だったが、柚木はなんらかの犯罪者だと疑って弥勒を頼ったのもその通りだ。ただ、柚木の素性を知って自分がどうするつもりだったのか、八幡自身にもいまひとつはっきりしない。あるいはそれ自体を弥勒に相談したいのかもしれなかった。

「なんか事情があんだろうから、今すぐ警察に連絡してどうこうはしないけどさ。八幡に限ってこんなのに関わるなんて考えられねえよ。どうすんだ、これから」

 弥勒が大きな目でこちらを睨むように見つめる視線をかわして、八幡は俯いた。報告書の一端に載った写真が視界にうつる。誰かの個人的な撮影データを引用したらしきその画像の中では、長い黒髪を垂らした清楚な雰囲気の女性の隣に並んで、ややはにかんだ笑顔で写っている柚木の姿があった。


「戻りました」

 雑居ビルの部屋に着いて、小声で言いながらドアを閉める。二〇三号室のその部屋はもともと事務所だったらしく、中の床は外との高低差のない硬いフロアで土足前提の作りだったが、八幡は入ってすぐのドア前を簡単に区切ってそこで靴を脱ぐようにしていた。

 安物のスリッパに履き替えて、弥勒の事務所から帰る道すがら買ってきた食材を冷蔵庫にしまう。台所として独立した部屋がないので、シンクのある給湯室らしき部分にガスコンロを置き、冷蔵庫は廊下の先、突き当たりの居室に設置してあった。十四畳ほどのワンフロアの半分をリビングダイニング、残りをそれぞれの寝床としたものの、間を区別するための什器を用意する余裕がなくまだ雑然としている。その仮の寝室側、八幡のベッドの上に、毛布とポリエステルの綿布団を二人分小山のように集めた塊がある。

「柚木さん」

 八幡は部屋の灯りをつけ、布団を持ち上げて言った。毛布を体に巻きつけて布団を抱えた柚木が、中から顔をのぞかせて眩しそうに薄目をあけて呻く。

「ん……、ヤハタ、おかえり」

 その少年のように毒気の抜けた無防備な寝起きの顔に向き合うと、八幡は混乱でかるい眩暈におそわれた。これが本当に恋人を殺害して懲役十三年の刑に処せられた人間なのだろうか。柚木に返す言葉がとっさには出なかった。

 冷蔵庫の中身や部屋のものが動いていないことからして、八幡が出かけてから今まで柚木はろくに飲み食いもせず眠っていたのだろう。こんなことでは一人で逃亡を続けることはおろか、そもそも生活すらままならないはずだ。むしろ刑務所、いやせめて病院などに入っていたほうが本人のためなのでは、という思いが頭によぎりつつ、八幡はエアコンの設定温度を上げて足元のヒーターをつけた。

「……せめてなにか飲んだほうがいい、乾燥してますし」

「ああ」

 柚木はモゾモゾと起き上がってヒーターに近いソファの上へと移動して、今朝八幡がローテーブルに置いておいた熱い麦茶の入った保温ポットを傾けている。袖をまくったスウェットから覗く腕には赤黒くなった痣がまだはっきりと残り、伸びをした拍子に裾から見えた白い脇腹にも、どこでつけたのかいくつもの新しい傷が鮮やかだった。柚木が歩くのに合わせて床に落ちていった毛布類を拾ってベッドへ戻した八幡は、一瞬逡巡したあと長くため息をついて、スリッパを引きずるようにキッチンへ向かった。気持ちの整理がつかない時はとにかく体を動かすに限る。考え込みそうになった時ほど家事に力が入るのが八幡の癖だった。

 キッチンの流しで米を研ぎ、リビングの炊飯器にセットする。冷蔵庫から野菜を適当に見繕ってキッチンに戻ると、八幡は献立を考えながら頭の中で調理の工程を組み立ててから取り掛かった。片手鍋の水に昆布を浸し、野菜を洗って切っていく。フライパンで甘口の塩鮭を二切れ焼く。鍋を火にかけながら、今度はトマトをさっと炒めて、油を多めに足したところで溶き卵を合わせて炒って塩胡椒。鍋が沸いたら昆布を取り出して鰹節を入れ、弱火で出汁をとったらざるでこす。出汁の半分は野菜を入れて味噌汁にして、もう半分は醤油と味醂を足して、豆腐と湯通しした青菜をさっと煮ていく。

 八幡が夕食の支度を終えるのを見計らうように、柚木は裸足で食卓にしている二人がけのテーブルへやってくると、

「腹へったな」

 と言ってあくびを噛み殺した。香りのいい湯気に引き寄せられるように、冷蔵庫の隣の棚に置いた炊飯器に向かうと、炊き立ての米を茶碗に好きなように盛っていく。食器を干したカゴから自分のぶんだけ箸と小皿を取ると、卓上に出した料理を勝手に取り分けて、柚木は黙々と食べ始めた。これではまるで野犬でも餌付けているかのようだが、毎度のことで八幡も慣れてしまった。柚木には構わず味噌汁の腕をその顔の前へ置き、焼き鮭や炒り卵の隣にほうれん草と豆腐の煮物の鉢を並べて、不揃いのマグカップに煎茶を注ぐと、

「いただきます」

 と自分だけ手を合わせてから食事に取りかかる。独居が長く、同棲期間に桐子に見限られないよう家事に邁進したこともあり、八幡は料理も掃除も洗濯も一通り手際よくこなせるので、柚木がほとんど何もせず寝ていても一応生活は成り立つのだった。八幡のほうとしても、仕事にも行けなくなった現状で時間だけはあり、かと言って潜伏している身の上でおおっぴらに出歩くのも憚られるので、こまごまとした家事にかかるのが日々の気晴らしになっているところがあった。

「大根と油揚げと」

 柚木が汁椀に顔をつっこんだまま言う。当然といえばそうだろうが、行儀や作法が念頭にない人間らしい。

「ん? ああ、お味噌汁の具ですか」

「うん、あと、この……、これ何」

「大根の葉っぱです。意外とおいしいですよ」

「へえ。うまいな」

 八幡が手元の大根菜の切れ端をつまんで見せると、柚木はそれだけボソリと返してまた無言で箸を動かした。その表情が少しだけ緩んで口元が笑っているような気がするのは、さすがに見る方の思い込みかもしれなかったが。

 八幡は奇妙な感覚にとらわれる。桐子が死んでひとりきりになって、二人暮らしのあの家に自分だけで寝起きした日々と、その後のフェリーでの泊まり込み勤務の航海、そのどちらよりも、この奇妙な同居人との今の隠遁生活のほうが穏やかで落ち着いているように思えるのだ。すぐに眠り込んでしまう柚木の生活に八幡が必要なのだというより、今の八幡自身にこそ、誰か自分以外の人間との生活空間と時間の共有が何よりなくてはならないのだと、八幡は静かに心の底で認めはじめていた。


 八幡は弥勒のつてを辿って、英語とロシア語の翻訳や通訳の業務委託を受ける体制を整えた。基本的には在宅の仕事だ。十年前の感染症の世界的流行からこちら、そもそも対面での業務そのものが激減している業界なので、顔や名前を極力表に出さないためには好都合だった。打ち合わせもメールやボイスチャット会議で済ませ、仕事上は別の氏名を名乗った。もちろん早急に生活費が必要なためではあるが、夜遅くまで目が冴え、寝ついても眠りが浅く中途覚醒しがちな八幡にとって、眠れない時間になにか専念できるものがあるのは救いになった。

「……今日はこのへんで」

 独りごとにそう言いながら時計を見ると朝の五時過ぎで、デスクが接したベッドの向こうにある窓からは薄明かりがさしはじめていた。少し離れたもう一つのベッドを振り返ると、柚木がくるまっている布団が呼吸にあわせてかすかに上下しているのがほの白く浮かんでいる。八幡はノートパソコンを閉じて椅子の上で軽く伸びをする。寝るタイミングを逃してしまったな、と思った。

 八幡はそっとキッチンに立った。柚木は多少の物音では目覚めるような体質でないとわかっていても、眠る人間の存在はまわりのものに息をひそめさせる。寝巻きの上に厚いパーカーを羽織る衣擦れと、スリッパが硬い床に敷いたラグを擦る音が耳についた。

 湯を沸かして大きめのマグカップに入れ、紅茶のティーバッグを沈める。小皿で蓋をして居室のローテーブルまで持ってくると、ソファに浅く腰掛けた。桐子と暮らし始めるときに買った量販店の安物で、八幡と桐子と並んで座るには不足なかったが、男二人にはどうにも狭い。日中は柚木がひとりで寝転んで本を読んだりうつらうつらしたりする定位置として定まりつつあって、八幡は自分が恋人を亡くしてから大型の動物を飼いはじめた人間みたいだなと思う。

 小皿にティーバッグを引き揚げる。紅茶にはなにも入れずに、熱いものをろくに冷まさずに飲むのが八幡の癖だった。桐子はコーヒーも紅茶も砂糖を入れないと飲めないと言って、なんとなく普段の毅然とした雰囲気に反する気がしておかしかったものだ。柚木はコーヒーでも紅茶でも、出されればなんでもそのままの状態で口にする。砂糖やミルクがないと飲めないとも言わないわりに、最初からそれが入っていても特に意に介さず、そもそも食べ物や飲み物に好きとか嫌いとかいう概念を持っていないような感じがあった。

 ローテーブルの上には、紅茶のマグカップの向こう側に紙幣といくらかの硬貨が置かれていた。八幡はそれをぼんやり見ながら顎の無精髭をザリザリと擦る。昨夜帰ってきた柚木が、

「これ」

 とだけ言って投げ置いたそれは、一応生活費として回収していいものらしいのだが、手をつけずに朝になっている。どこから何をして手に入れたものなのかわからない以上、八幡は安易に受け取るのに気が引けた。なにかの仕事の報酬だろうとは思う。柚木は立場上銀行口座など持てないので、現金で受け取ってきているのだ。それがどんな内容の業務なのか聞く必要はあるだろうが、気が進まない。逃亡中の服役囚でも報酬を得られるような仕事が、まともなものであろうはずがないのだ。

 どうしてこんなことになっているのだろう。八幡はふーっと長く息をついた。目の前の人間にとっさに手を差し伸べることそれ自体は純粋な善意からのはずなのに、それが犯罪に加担したり警察から隠れて暮らしたりという後ろめたい行為を招いて、まっとうな道から転がり落ちて戻れないのだ。

「罰なのかな」

 八幡はそう言って自分でぎょっとした。純粋な善意から、というのは嘘なのだ。困っている人間を見ると放っておけず、よりややこしい問題に首をつっこんでしまうのは、それが自罰的な犠牲の意識からなのを八幡はもう自覚している。その悪癖は桐子の死後よりいっそう強くなってこの一連の柚木との顛末を招いていた。桐子が死んだことの責任をとるための罰。桐子が死んだのは自分のせい、桐子は自分が殺したようなものなのだから。

「……ヤハタ」

「え?」

 柚木の声に顔をあげると、ソファの脇に人影が水彩画のように曖昧な輪郭でぼやけている。いつの間にか自分の両目が涙で滲んでいるのに気づいて、手の甲で拭って呆然とした。今度ははっきりと見える柚木の顔は、虚を突かれたようなキョトンとした表情をしてこちらを向いている。八幡は苦笑しながら言った。

「起こしちゃいましたか。ごめん」

 柚木はまだ寝ぼけているかのように、

「泣いてる人間、ひさびさに見た」

 と返事にならない言葉をかえす。柚木はそのままソファ脇の床へ座り込んで、電子書籍を読みはじめた。柚木は相当読書が好きらしく、わずかな覚醒時間をくつろいで過ごすときにはいつもなにかしら本を読んでいる。

「柚木さん、いつもなに読んでるんですか」

「小説。海外のが多い」

「今のその本は」

「『すべての美しい馬』。コーマック・マッカーシー」

 柚木はそう短く答えるだけで、それ以上はなにも言わない。八幡は学生時代には一応小説を読んではいたが、文学部出身とはいえそれほど勤勉な学生ではなかったし、史学科で日本史を専攻していたので文学のことはほとんどわからない。英語が得意なのは高校からの熱心な独学の賜物で、特にこれも専門分野ではなかったので、英米文学にとりたてて詳しいわけでもなかった。

「どんな話なんですか」

「一九四九年のアメリカの話。十六歳の主人公が親友とふたり、国境を越えてメキシコへ渡る。馬と、革のブーツと鞍と、拳銃だけ持って」

「それって、幸せなお話ですか。悲しい結末になるのかな」

「わからない。まだ、最後まで読んでない。つらい話のような気がする」

 柚木はそう言うと、床の上であぐらをかいて端末に視線を戻した。八幡は柚木の言動の意図がわからないものの、その気まぐれにはもう慣れてきたので好き勝手にさせておこうと思い、黙って冷めかけた紅茶を啜った。本を読む合間に朝日が昇るのをベッドの向こう側の窓越しに眺めている柚木が、彼なりに配慮してあえて自分に寄り添ってくれているのかもしれない、と八幡がうっすら理解したのは、そのまま柚木が床で眠り込んでしまってからのことだ。


 仙台の冬の日暮れは早い。夕方四時にはもう西の空が焼けて、早くも一日が終わる雰囲気になる。日没から寒さが厳しくなるのと相まって、なるべく出歩かないようにという気持ちを人々に起こさせるのか、明かりを灯しはじめた国分町の人手は他の季節よりはるかに少なく、客引きの男たちが黒いダウンコートで寒そうに立つ姿ばかりが目立っていた。

 柚木はゴアテックスのショートコートの前を閉めて、ネックウォーマーを引き上げた。飲み屋の客引きと風俗店の客引きを両方無視しながら早足で歩き、瀬名のオフィスへ階段で上がる。いつ来ても他のテナントの人間には会わないが、ポストの中身が取り出されたりエレベーターが動いていたりするので誰もいないわけではないらしい。

「別に対面じゃなくてよかったのに」

 瀬名は柚木と同じくらいの背丈のわりに長い足を投げ出すようにデスクチェアに座って、いらいらと靴底を鳴らして迎えた。黒いコンクリート張りの床からは真冬の冷気が昇ってくるようだ。瀬名のオフィスは床も壁も全面コンクリートが打ちっぱなしの無骨な内装なので、その洒落た雰囲気の代償のように断熱性が低かった。

「ウェブ会議できる端末が家にない」

「めんどくさいなあ、なんかジャンク屋で調達すればいいじゃん」

「そんなの買ってる場合じゃない。金が要る」

 柚木はミーティング用のテーブルに荷物を下ろしてゴアテックスの黒いコートを脱ぐ。同じく黒い大型のリュックに大した持ち物は入っていない。そもそも立場上私物といえるものがほとんどない。財布とスマートフォン、音楽プレイヤー、電子書籍、ノートとボールペン。それから、印刷した論文の束と大型の専門書。

「なにそれ」

「別の仕事で使う。大学図書館のカード作って借りてきた」

「ふーん。よくおまえの怪しい身元で通ったね」

「申請書の身分は適当に書いた。あんなの別に役所に照合するわけでもない」

「そんなもんかね」

 いかにも興味なさそうな言い方の瀬名に向かい合うように、柚木はデスクの前へ椅子を移動させて座る。

「それで聡からの仕事ってなんだ。おれにしかできないんだろ」

「大きい話だよ。外部にバレたら比喩じゃなく首が飛ぶけど」

 瀬名はタブレット端末と紙束の資料をまとめて柚木に差し出すと、きれいに切れ上がった目尻をかすかに赤らめると、口の端を上げて興奮した声音で楽しそうに言う。

「柚木の事件が冤罪だってことをネタに、それをバラすからってことで宮城県警を脅迫するんだよ」

「なに」

「梨緒を殺したのは、本当はおまえじゃないんだろ」


 長い夢を見ていた。記憶を再生して、忘れないようにもう一度体験し直すためのような夢だった。なにもかもが時間と共に曖昧になって、今は起きている時よりも夢の中でのほうが、梨緒のことを鮮明に描けるくらいだ。梨緒が死んだ日にあったことも、その直前の期間のことも、柚木にはもはや他人ごとのように遠くなりつつある。

 珍しく朝のうちにはっきり目が覚めた柚木は、ベッドから手を伸ばしてカーテンを開けた。結露でうっすら曇ったガラスの向こうの空は厚い雲が毛布のように重なっていて、そこから落ちてきた雪片は窓越しにも形がわかるほど大きい。仙台が地元の柚木には珍しくもない日常の風景のはずだが、今朝はなぜか初めて見るもののように感じられて、しばらく雪が降るのを眺めていた。

 そう、あの日がちょうどこんな天気だったのだ。皆本梨緒が死んだ朝。

 今しがた見ていた夢がまさにその時、隣に眠る梨緒がもう息をしていないことに呆然として、窓の外を落ちていく軽くふわりとした雪を目で追っている、そういう自分の追体験の夢だった。

 昨夜は瀬名のオフィスから戻ってシャワーを浴びた直後に眠り込んでしまったらしく、記憶が曖昧だった。ぼんやり窓の外を眺めていると、八幡がマグカップを持ってやってきた。アールグレイの爽やかな香りがたつ。

「この時間に起きるの、珍しいですね」

「うん」

「昨日リビングで髪拭いてるうちに寝てましたよ」

「そうか。……ありがとう」

 八幡が柚木をベッドへ運んだのだとわかって、柚木は少しためらいつつそう口にした。八幡は、ああ、うん、と曖昧に言いながら自分のデスクに座って柚木に背を向けた。柚木が礼など言うから動揺しているのかもしれなかった。今日も八幡はいつも通りに翻訳の仕事があるらしい。自分ももはや犯罪者のくせに真面目だな、と柚木は少し呆れつつ、それゆえの安定した収入に勝手に頼っている身で言えたことではなかった。

 柚木は八幡の背中を横目にシャツとフリース素材のカットソーに着替えて、冷蔵庫や戸棚をあさる。勝手に出した買い置きの食パンとりんごをどちらもそのままで齧りながら、片手鍋で卵をふたつ茹でてドリップバッグのコーヒーを淹れた。常に眠気と戦う柚木にはコーヒーが欠かせないので、これだけは自分で買ってきて切らさないようにしている。八幡はコーヒーより紅茶やハーブティーみたいなものをよく飲むらしい。

 ソファの肘掛けの木の部分にマグカップを起き、昨日の瀬名の話からとったノートの走り書きを読み返しはじめる。瀬名は資料自体は紙でもデータでも渡せないと言って、柚木になにも持ち帰らせなかった。結局その話に最後まで付き合ってしまった以上、断るという選択肢はなく、瀬名と組んで仕事をすることに決まっていたのだ。柚木は嫌でも自分の事件を振り返ることになり、それであの日の、梨緒が死んだ朝の夢を見たのだろう。

 柚木は自分自身でもうまく把握できない感情の扱いに戸惑っていた。もとより家族との関わりが薄く、大学進学を機に実家を出てからは親類縁者の誰とも連絡を取っておらず、友人らしい友人もたいして持たない柚木にとって、そもそも誰か他人に頼るという選択肢はない。おかしくなったのは睡眠障害が悪化してきた頃からで、長く起きていられず自律的な生活が難しくなったせいで、初めて人を頼みにする必要が出たのだ。その時にたまたま隣にいたのが梨緒だった、と柚木は認識していたが、それでも彼女にだけは生活空間を共有することも、多少の本心を見せることもあった。甘えられる相手だったのだ、と思う。そしてそんな梨緒をうしなって、ひとりで全てから逃げようとしている今、どういうわけかその梨緒がいた席に代わりに座っているのが八幡のような気がしている。八幡とは不思議と同じ場所で暮らす違和感も不快感もない。脅して強引に連れてきたのは自分のほうなのに、いつの間にか共犯者の連帯のような仲間意識を感じていることに、柚木は混乱しながら向き合っていた。八幡になら、打ち明けてしまってもいいのかもしれない。

 おれには一緒に住んでた人間がいて、と唐突に語り出した柚木を、八幡はほうじ茶のポットを傾けながら片眉をあげて見ていた。昼間の仕事中に柚木が起きているので、八幡は自分の休憩がてら二人分の昼食を用意したらしい。食卓にはカットトマトと玉ねぎにスパイスを合わせて作ったインドカレーと、野菜のピクルスが並んでいる。相変わらず凝り性で器用な八幡らしい。どういう状況でも暮らしに手を抜けない性分なのだろう。

 柚木はカレーを食べながら、逆に不意を突かれてスプーンを持つ手が止まった八幡に、訥々と事件の日のことを話した。柚木の語りは一定のリズムを刻んで低く滑らかに進む。柚木が誰かにこんなに長く話すのは、普段ぶっきらぼうで言葉足らずな彼にとっておそらく初めてのことだった。


 おれには一緒に住んでた人間がいて、小さくて痩せてて、白い皮膚とウエーブした長い真っ黒な髪の、いつでもちょっと悲しそうに笑っている変な女だった。皆本梨緒、おれとは会社の同期で同い年、二年前の内定者の集まりの時に知り合ったらしいが、あまり覚えていない。その年の六月になって創薬部門に同時に配属されたのは、おれ、皆本梨緒、篠崎久遠(しのざきくおん)の三人で、なにかと一緒に行動させられた。おれは創薬学の免疫系の研究室を出たから、難病の新薬開発の臨床開発チームに入ることになった。

 梨緒は生命科学系の院を出て、専門は細胞シグナル伝達学。隣の臨床試験チームでウエット実験を担当していた。久遠は梨緒と同じチームでのプログラミングと解析がメインで、こいつは派手な顔つきの明るい女だが、工学の生物統計学で修士を取ってきた、R(アール)とPython(パイソン)では部内の誰より強い変わり者だ。梨緒と久遠はすぐに親しくなって、ふたりしておれをかまいたがった。

 梨緒は培養細胞とマウスを使う実験をずっとやっていて、手先が器用で細かい作業を何時間でも続けられて、生きてるマウスのオペなんかもうまかった。もともと犬猫の類いが好きでバイオ分野にきたらしい。動物園や水族館にひとりで出かけて行くのが趣味で、街なかや公園で野良猫に近づいても警戒されなかったり、散歩してる犬が勝手にどんどん寄ってきたりするやつで、でも職場でマウスの飼育室に入るから動物間の感染防止のためにペットの自宅飼育が厳禁らしく、それが不満なんだってよく言っていた。梨緒がそれならもっと大きい動物を飼う、と言い出したのはその年の秋頃で、久遠と三人で昼飯を食いながら適当に頷くおれの前には、なぜか一枚のカードキーが差し出された。

「なんだこれ」

「修ちゃん、うちにおいでよ。わたしと一緒に暮らす生き物になって」

「え、梨緒それマジで言ってんの? たしかに大動物(だいどうぶつ)だけどさ」

 久遠がおもしろがってゲラゲラ笑うので、社食の隣の席の人間がこちらを見ていた。おれは特に断る理由もなくて、むしろその時にはもう睡眠障害がかなりひどくなってきていたから、誰かと同居するならそれがいいと思った。無言でオレンジ色のカードキーを受け取って制服の胸ポケットにしまうおれを、梨緒がうれしそうに見ていたのを覚えている。笑うと目が細くなって顔がくしゃくしゃになるやつなのだ。

 梨緒の家に転がり込むのと同時に、おれは会社から言い渡されて休職期間に入った。会議で眠り込むことが続いたおれを見かねた上司が産業医面談をセッティングして、なかば強制的に三ヶ月休むことに決まった。主治医にはいつものように、根本的な治療方法や薬はないと言われた。その頃までには入眠時脳波の反復測定検査も髄液検査もとっくに済んで、ナルコレプシー二型の病名は確定していたが、だからどうなるわけでもない。昼間の覚醒を助ける薬を飲みながら無理やり起きて仕事をするしかなさそうで、それはそれで経済的にも肉体的にも負担がでかいから、おれは今後どうするのかを決めかねていた。

 当時は関わっているプロジェクトが大詰めで、毎日夜遅くまで残業での実験が続き、そのストレスと疲れが過眠となって表れているのはわかっていた。休職すれば仕事から離れたぶんだけ体調はマシになるだろうが、復帰したらまた同じことの繰り返しだ。こういう持病でまともな仕事をしようというのに無理があるのは承知の上で、それでも生活のためと、一応はおれなりの自己実現の希望もあってついた職ではあった。

 おれは眠っているだけでなんの役にも立たないから、いくら大動物でも犬猫を飼うほうがまだ家主のためになりそうだと思ったが、梨緒は文句も言わずおれの存在を受け入れた。

「修ちゃんがいてくれるだけでいいんだ。わたしの力になる」

 そう言って目を細める梨緒がなにを考えているのか、おれにはよくわからなかった。なんの利益もないのになぜこんな役回りを引き受けるのかと思ったが、それはそれとして身の回りのことを頼れる人間がいるなら任せたいのは事実だった。おれはとりあえず多めに家賃と生活費を出した。どうせ普段から本以外に買うものがなく、休職中にも何割か給料は出たから、金なら余裕はあった。おれから梨緒に渡せるものはそれくらいしかない。

 梨緒の家で寝起きするうちに年が明けた。梨緒は年末年始も関東の実家に帰らず、おれと二人で過ごせてうれしいと言って、クリスマスにでかいホールケーキを買ってきたり、大晦日に大量の天ぷらを揚げて蕎麦に乗せたりしていた。おれはそういう季節行事のない家庭で育ったから、全部新鮮で変な感じがした。

 そうして今からちょうど一年前、二月の上旬のこと、梨緒は泊まり込みの仕事があると言って帰ってこなかった。前にも何度か同じことはあって、おれはそういうものなんだと思っていた。その時期の梨緒はいまいち体調が良くなさそうで、早退や欠勤が続いていたから、そんな人間が泊まり勤務なのは変な気もした。おれは梨緒の個人的な事情には踏み込まなかったから、詳細は知らない。おれに深入りする権利はないと思っていた。

 梨緒は次の日のそれも夜遅くに帰ってきて、復職が近づくのにあわせてなるべく長時間を起きて過ごす練習をしていたおれは、なんとか目覚めた状態で出迎えた。その日の梨緒はいつもの悲しそうな笑顔が消えて、表情も顔色もうしなっていた。会社に行く日は結っているはずの長い髪が淡いグレーのウールコートの胸に垂れていて、失恋して帰ってきた人間みたいだなと思った。そのまま身支度してベッドに入るまで、梨緒はほとんど口をきかなかった。おれはその隣に潜り込んで、なにか聞いたほうがいいのだと思っているうちに眠ってしまって、そして朝目覚めた時には梨緒の体はもう、冷たくなっていた。突然だった。おれはとりあえず警察を呼ぶのが精一杯で、そこからのことはあまりよく覚えていない。寒い日で、ポップコーンみたいな雪がずっと降り続いていたことだけ記憶にある。


 そこまで話した柚木は、冷めたほうじ茶を飲み干して黙り込んだ。ずっと手元や卓上のものへ目線をやって、八幡のほうを見なかったが、それでもなにか重大な内心を提示したことは伝わっていたらしく、柚木が顔をあげて対面した八幡はいつになく真剣な表情をしていた。

「その、柚木さんが逃げているのは、どうして」

「おれが梨緒を殺したことになったんだ。でも、おれはなにもやってない」

 八幡がぐっと息をのむ。柚木は言葉を継いだ。

「疑われているのがわかって、逃げようと思って行った北海道で逮捕された。懲役十三年で確定して、札幌刑務所に入ってたけど、過眠が酷すぎて医療刑務所に移されたからその途中でまた逃げたんだ。おれは眠気であの日の夜の記憶が曖昧だから、本当になにもしていないのかと問い質されたら自分でも確信がもてなくて、結局無理に誘導されて自供した。でもおれはなにもしてない、梨緒にはそんなことはしない」

 柚木が言った。自分でも聞いたことのない熱を持った声音だった。八幡が当惑した様子で聞き返す。

「そんな、脱走なんて非合法な方法じゃなくても、なにかあるでしょう……、冤罪なんだから」

「おれが最初に北海道へ逃げたのがまずかった。あれで言い逃れができなくなって、今から判決をどうこうするのは無理らしい。それなら勝手に逃げようと思った。仙台に帰りたかった」

 柚木はそう言ってしまってから、自分でも、ああそうだったのかと意外に思った。八幡が目を瞑って眉間を指で揉みながら長くため息をつく。梨緒がいた仙台に帰って、曖昧な記憶を補いその思い出を拾い集めて、弔う時間が欲しい。柚木自身もこうして八幡に経緯を話すまでは自覚していなかった、この逃亡劇の本当の動機。八幡はすべてを汲んで了解したらしく、柚木の顔を正面から見て言った。

「そういうことなら、僕もまだ協力します。気持ちはわかるというか……、その、僕も婚約していた人を亡くしたばかりなので」

 今度は柚木が少しばかり驚く番だった。八幡にも事情があることを考えずにここまで付き合わせてきたのはわかっていたものの、似た境遇ではさすがの柚木でも気が咎める。

「……そうか。ありがとう」

 柚木は目を伏せてわずかにほほえんだ。八幡はこちらを見てハッと驚いた表情をしている。めったに笑わない柚木の、そのごくまれにこうして見せるくしゃっとした笑顔が生前の梨緒にそっくりであることを、柚木自身は気づいていなかったのだが。

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