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「修(しゅう)ちゃん」
甘く低く掠れた女の声だった。懐かしいのになかなか思い起こせない、記憶の中に閉じ込められたその声。
「修ちゃん、起きて」
柚木(ゆのき)の肩をそっと揺すって、彼女がそうささやく。やわらかい毛布の感触の上からあたたかな体温が重なり、柚木はようやく薄目を開けながら唸る。
「ほら、もう十時だよ。お腹すいたでしょ」
「……梨緒」
柚木は呼びかけながら、体をもたれかけてほほえむ恋人の姿を見上げた。
皆本梨緒(みなもとりお)。美しい女だった。やわらかく細い黒髪が胸まで流れ、丸い額の下につぶらな両目が輝いている。クリームのように白くて均質な肌は、その細い四肢と薄い胴をいっそう儚く見せて、まるで全体が割れもののようだ。その印象は親しくなった当初から、こうして一緒に朝を迎えるようになった今まで変わらない。
「ん……」
柚木は両腕を伸ばすと、梨緒の薄手の白いニットの肩口に手をかけて引き寄せた。そのまま自分の上体を合わせて抱きしめる。梨緒はされるがままになりながら、
「なに、どうしたの」
と言ってクスクス笑っている。かすかに揺れるレースのカーテンを透かして、陽光がふわりとその背中に差している。自分の頬に当てた梨緒の卵型の頬の産毛が白く光っているのを見て、噛み付いたらそのまま食べられそうだと柚木は思う。
「まだ眠い……」
そう言いながら梨緒の頬に鼻を擦り付けて、顎を彼女の肩にのせると、柚木はまた目蓋を閉じた。梨緒の髪の匂いを感じながら、意識が眠りに沈もうとするのに抗う。溺れた人が縋るように、抱きしめる腕に力をこめた。
「修ちゃん」
梨緒が囁く声が頭上から降る。慈愛と、わずかな同情の色を帯びた声が。
大学院生の頃に発症した柚木の睡眠障害は、新卒入社の同期として梨緒と出会ったこの春から、同じ部署に配属された梅雨の時期のゆるやかな再発を経て、初冬の今に至るまで悪化の一途を辿っていた。夜間は一度眠りにつくと最低でも十時間程度は目覚めない。日中も頻繁に仮眠を必要とし、一日のうちはっきり起きていられる時間はわずか。梨緒と同居することになったのも、長期休職が言い渡された柚木の単独での日常生活がほとんど不可能だったことによる。総合病院の睡眠外来へ定期的に受診しているが、そもそも確立された治療方法がなく、生活リズムを整える指導がなされる程度で、根本的な解決には至らなかった。
「いいよ、もう少し寝てたら」
「嫌だ。行かないで」
柚木の言葉に、体を離そうと起き上がった梨緒が動きを止める。柚木は梨緒の両肩を掴んでその顔を正面から見つめた。梨緒は目を丸くひらいて、どうしたの、と言いたげに小首をかしげた。
これが夢であることを、柚木はごく自然に理解していた。ちょうど一年前の冬に、身一つで転がり込んだ梨緒のマンションでの、いつかの休日の朝の夢。こんな穏やかな暮らしは、今の柚木にはもうない。このマンションはすでに別の住人が住んでいるし、柚木が包まる毛布やベッドそのものもとっくに処分してあるはずだ。もちろん、梨緒本人も今はもう、この世にない。
「梨緒……」
昼夜問わず長く眠る柚木だが、はっきりしたストーリーのある夢を見ることは珍しい。まして夢の中で梨緒に会えることなど稀だった。
「嫌だ、もう起きなくていい、このまま一緒にいたい」
梨緒の胸元に額をつけてそう言い募る柚木の、腕の中の感触がふっと軽くなってほどけていく。梨緒の体が少しずつ実体をなくして、空中へと霧のように細かく溶けているのだ。柚木の両目から溢れる涙が、その霧散していく体を透かしてシーツの上にぱらぱらと染みを作っていく。
「ごめんね、修ちゃん」
最後に残った梨緒の声に衝かれるように、柚木はハッと目を覚ました。馴染みのない部屋の硬いベッドでごわついたシーツの上に丸くなったまま、しばらく事態が飲み込めない。
「大丈夫ですか」
上からかけられた声とともに室内灯がつく。白い壁紙とベージュのカーテンを引いた窓だけがぼんやり視界に浮かび上がった。それを背景に黒いシルエットになった男の姿を見上げながら、柚木は額の汗を拭った。さほど暖房の効きが良くない室内は肌寒いほどなのに、脂汗で手が滑る。
「……ああ、うん」
曖昧に答えると、男—ヤハタは顎の無精髭を擦りながら、小さめだが切れ長の両目を細めて柚木にかがみ込んだ。柚木は鬱陶しいのと眩しいのとで、目元を手の甲で隠して身を翻す。ヤハタは何も言わずに体を引くと、困ったように眉を下げてふっと息をついた。
男と他の船員の会話の中で、その苗字がヤハタとは聞いたが、どういう字を充てたものかは知らない。名前もわざわざ尋ねなかった。こちらも「ユノキ」以上の名乗りはしていない。本当の氏名を伝えたくはないが、かといって苗字も名前も偽って暮らし続ける自信はなかったので、仕方なくそれだけは開示したのだ。
ヤハタの硬い癖のある髪が金属質に照明を反射するのを眺めながら、柚木は枕元のケーブルを手繰ってスマートフォンを引き寄せた。一月十六日四時十八分、とロック画面に表示される。
護送中に逃げ出してから苫小牧港で潜伏して一日、フェリーに不正乗船して仙台へ降りるまでにもう一日、そしてヤハタと市内の安宿へ仮に収まっての三日目。札幌刑務所から八王子医療刑務所に移送される道のりで、逃げるとしたらやはり本州へ渡る船に移されるタイミングが狙い目だった。港湾部の治安がよくないのも有利にはたらいて、柚木は護送車を脱走して仙台便のフェリーに紛れ込むことに成功した。地元の仙台ならば土地勘も知人のつてもあるし、この季節の東北地方ではもっとも温暖で過ごしやすい。到着すればひとまず隠れ住むくらいはできると踏んでの乗船だったが、この逃亡でのストレスから一気に睡眠障害が悪化したのは予想の埒外だった。船内で眠り込んでは乗客に見つかるだろうと居場所を探していて、デッキに出て座っているうちいつの間にかその場で深く寝入ってしまったのだ。ヤハタに見つかったのはむしろ幸運だったと言っていい。あのまま放置されたら命はなかっただろう。
そのヤハタを軽く脅した程度でここまで大人しくついてくるどころか、むしろ柚木を気遣うそぶりさえ見せるのも、都合が良すぎて多少気持ちが悪かったが、今は好都合ではあった。
「あんた、変なやつだな」
柚木は起き上がって、壁に向いた簡易デスクでノートパソコンを開いているヤハタの後頭部を見つめて言った。ヤハタはこちらを振り返って、うん? と小さく首をかしげる。おれのことが怖いとか不気味だとか思わないんだろうか、と柚木は思うが言わない。ヤハタを無視して、彼の名義で手に入れたスマートフォンに深夜のメッセージ通知が溜まっているのをチェックしていくと、瀬名聡(せなさとる)からのものが混じっているのに気がついた。
柚木はベッドを出て、ヤハタの荷物から勝手に出して着ていたLサイズの半袖シャツを脱ぎ捨てた。手首から腕にかけての痣と傷跡だけでなく、肩や脇腹にもいくつか同じような跡があるのが照明の下で白い肌に浮かぶ。勾留から逃亡までの期間に様々な場所でついたもので、ヤハタがこれを目にするたび自分が傷ついたような表情をするのが不思議だった。
「出かける」
「こんな時間にどこへ」
ヤハタが問い返す間に、柚木はセーターを被ってジーンズを履くと、船の上で着ていたショートコートを羽織る。
「隠れ家と仕事が要るだろ」
振り返らずにそれだけ言うと、柚木はビジネスホテルの薄いドアを蹴るように開けて廊下へ出ていった。
「なに、今から帰って寝るとこなんだけど」
「どうせ適当な女の家だろ。捕まらなくなるから仕事場にいるうちに来たんだ」
柚木がそう言うと、黒いワイシャツに黒いジャケットを重ねた眼前の男は、彫刻のようにくっきり刻まれた二重瞼の目を細めて、端正な顔を崩した嫌味な笑いを作った。
東北一の歓楽街、青葉区国分町(こくぶんちょう)。もう朝が近いこの時間は、店じまいした飲食店や風俗店から仕事を終えた男女が家路について、その足元ではネズミや虫の類、頭上ではカラスが餌と異性を求めて鳴き交わしている。その一隅、ガールズバーとシューティングバーの間の通路を奥に入ったエレベーターで三階へ上がると、不動産屋と消費者金融の事務所に並んで、「(株)インテリジェンス」とだけ書かれたオフィスのすりガラスの扉がある。瀬名聡はそこで働く人事コンサルタントということになっているが、それは昼間に名乗る必要があるときの名目で、実際はこうして夜から明け方にかけて、身元を明かせない人間にこの街の様々な仕事を斡旋してやるのが主な業務だった。
「ハーア、まあ、柚木の頼みじゃしょうがない」
瀬名はわざとらしく肩をすくめてデスクのノートパソコンを開くと、向かいあった椅子へ勝手に腰掛けた柚木へタブレット端末を手渡した。
「いくつかピックアップしといた。今すぐ紹介できそうなのはそんなに多くないけど」
「助かる」
画面上に示された仕事のリストをスクロールして読み込んでいく柚木を、立ち上がってデスク越しに見下ろした瀬名の両目は冷たく暗い。人当たりがいいのに時折別の性質が垣間見えそうな素振りがあるのは、柚木には慣れたことだが、付き合いの浅い人間には不気味に思われる部分だった。
「柚木ってしばらく仙台離れてたんじゃなかったの? 札幌だかどこだかのムショに入ってたじゃん」
「聡には関係ない」
「あるよ、どの程度のお客さんに紹介していいのか変わるでしょう」
「刑務所間の移動の途中で脱走して手配されてる囚人を紹介していい顧客、ってなんなんだ」
柚木がそう言うと、瀬名はハッ、と小さく笑ってから、デスク脇の金属ラックのガラス戸を開けて中を漁り始めた。
「人殺し、密輸、犯罪者の情報の売買、刑務所内への情報や物資の輸送、需要はいくらでも。記録が残らない、すぐに消える人間としての価値も高い。口が堅ければ大きい案件も回してもらえる。まあ、そこまでしろとは言わないけどさ」
瀬名はラックの中の鍵のかかったケースを開けて銀色のシートを取り出すと、デスクの上に腰掛けながら口元だけで微笑んで振り返る。
「いる?」
「いらない」
瀬名が言い終わる前に重ねて柚木が返事をしていた。瀬名はつまらなさそうに鼻から息を吐いて、アルミシートの中身の錠剤を手のひらにまとめて出した。柚木はタブレットから一瞬顔をあげて、瀬名が卓上のペットボトルの水でそれを飲み下すのを眺める。
「またなんか新しいのやってんのか」
「今回のは合法だよ。副業っていうか、仕事回してる子を何人か精神科に通院させて、向精神薬を処方されたら僕が買収してるんだけど、裏ではさらに高く売れるんだよね。自分用にも残してある」
瀬名の薬物濫用は今に始まったことではなく、柚木と知り合った大学時代に端緒があった。陸奥(みちのく)大学薬学部で六年間過ごす間、読書と勉強だけでろくに人と関わらなかった柚木と対照的に、瀬名は講義や実験が終われば国分町に繰り出して各種のアルバイトに勤しんでは素性が不明の友人知人を増やし、その中に市販の風邪薬の大量摂取でトリップする遊びを教えた人間がいたらしい。
「薬剤師が売人やってんのかよ」
「知識と経験に基づいた処方で信頼感があるって人気なんだよ」
柚木は長く嘆息して後ろ髪をかき回すと、タブレット端末の画面の中程を指で示す。
「この件の詳細詰めてほしい。おれの履歴とか顔合わせとか要るならまた連絡する」
「あと、物件の話もだっけ。これは不動産やってる人紹介するとこまでだけど」
「頼みたい」
「いいけどさあ」
瀬名は長い足を組んでかがみ込み、柚木の顎を片手で掴んで自分の顔へ引き寄せた。真っ黒い瞳が柚木を間近で覗き込む。
「高くつくよ。金ないから僕のところに来たんだよね。それならそれなりの担保が要るな。柚木はラブホ嫌いだけど、僕いまマンスリーホテル借りてるからさ、そこならいいでしょう」
「……わかった」
柚木は視線をそらしてそれだけ答えた。瀬名は柚木の頭を軽く撫でてから立ち上がる。椅子を蹴るように立ってその隣に並んだ柚木の、前をはだけたコートの下、グレージュのニットの胸元に顔を寄せて、瀬名がそっとつぶやいた。
「柚木、今男と一緒なんだ」
「なんでそうなるんだ」
「知らない男の匂いがするから」
柚木はぎょっとして思わず自分の体と瀬名の顔を交互に見た。
「なに、どういう関係なの? 詳しく聞かせてよ。そういう材料あるほうが盛り上がるからさ」
そう言って心底おもしろそうに笑顔をつくると、瀬名は柚木に背を向けて歩き出した。
ビジネスホテルの狭い部屋の窓からはなんの景色も見えない。真横に密接した同じような建物の煤けた壁があるだけだ。その窓と壁とのわずかな隙間から一月の冷たい光が細く差し込んでくるのを眺めながら、コンビニで買った握り飯とインスタントの味噌汁で遅い昼食にしていた八幡は、戻ってきたユノキの姿に驚いて声をあげた。ふらついた足取りでどうやってここまで辿り着いたのか、部屋の床にそのまま倒れ込んだユノキは、乱れた衣類の下の肌を紅潮させて、全身にびっしり汗をかいている。
「何かあったんですか」
ユノキは答える力もないのか、それ以上に眠気に抗うことが難しい様子で、ドアを入ってすぐのカーペットの上でそのままスッと瞼を閉じて静かになった。
「ユノキさん」
八幡はユノキに駆け寄ってそっと肩を揺さぶったが、無理に起こすのはよくないと判断して手を離すと、コートを剥いで仰向きにさせる。せめて靴くらいは脱がせてやったほうがいいだろうか、汗を拭かないと冷えてしまう、とバスルームへ駆けながら、八幡はかすかに苦笑した。
「なにやってんだろうな……」
自分を脅して逃亡に協力を強いている赤の他人、いつ危害を加えてくるとも知れない男に、なぜこんなに世話を焼いてしまうのだろう。目の前で苦しんでいるならどんな素性の人間でも助けたくなるのは八幡のもともとの性格ではあったが、それに加えてこのユノキという男自体に庇護欲のようなものを掻き立てる力があった。独特な若さと老成の入り混じる風貌に、どこでも深く寝入ってしまう体質、濃い孤独と死の影。
ユノキの額の汗を絞ったタオルで拭いながら、八幡はその顔色と表情が落ち着いているのを確認してふっと息をついた。ベッドに上げるのは大変なので、このままここで寝かせてやろうと思い、毛布をその体にかける。ユノキは毛布を抱きしめるように横向きに丸くなって、穏やかな寝息を立てた。
八幡はベッド脇のデスクでノートパソコンを開き、会社関係者からのメールや電話を一旦拒否するよう設定した。ここから数日のうちに、連絡がつかなくなった八幡のことを、まずは家族が探し始めるだろう。会社にはしばらく出勤しない旨を伝えていたが、それもあまりに長引いたりまったく音信不通になったりすれば怪しまれる。ここからどうやって身を隠したものかと八幡は考えあぐねていた。
それ以前に、いつまでこうしてユノキと行動を共にしていればよいのだろう。とにかく眠っている時間の長いユノキの様子から、その隙をついて逃げ出すことは簡単そうではあった。ただ、彼が個人で動いているのならともかく、手を切ったことでなにか非合法な団体などを敵に回すことになっては困る。ユノキがそもそも何から逃げているのか、その原因も八幡の気にかかっていた。あれだけ痣や傷跡だらけで痛めつけられた様子の人間が、法を犯すような方法で必死に逃亡しているなら、それなりに大きな理由があるのだろう。もしかしたらユノキの側に、なにか八幡が協力してもよいと思えるようなやむを得ぬ事情がないとも限らない。
そう思案しつつ、スマートフォンに入っている連絡先のリストをスクロールして眺めていると、懐かしい名前が目に入った。弥勒啓輔(みろくけいすけ)。珍しい苗字の印象は、本人の飄々とした得体の知れなさを瞬時に想起させる。八幡がその仕事用のメールアドレスに短いメッセージを送ると、数分足らずでスマートフォンが振動して着信を知らせた。
「八幡か、久しぶりだな。なにやってんだ最近」
「いや……、まあいつも通りです」
「なんか面倒なことでもあるんだな? わざわざ俺に連絡してくるんだ。よそに言えない話なんだろ」
間髪を容れずに返す弥勒の声はうれしそうだ。この人はいつもこうで、相手が困れば困るほど面白がるみたいなところがある、と八幡は思う。
「ちょっと弥勒さんにお願いしたいことがあって、その、人探し……、いえ、身上調査なんです」
「なんだ、普通の仕事の話か」
「一応、便利屋というか、興信所っていうか、今なんていうんです。個人情報管理事務所でしたっけ」
「そんなもんだよ。実際は前世紀と変わらん浮気調査や家出人探しばっかりのしょっぱい仕事だ。八幡にそんなのが要るの珍しいな。何を頼まれりゃいい。できれば女絡みは受けたくねえなあ」
弥勒は途端に面倒くさそうな声音になった。仕事のやる気のなさも相変わらずで、八幡は前回会った時の弥勒の様子を頭に思い浮かべながら、見た目や雰囲気もきっと変わらないのだろうと思う。最後に弥勒を見たのは去年の九月。漆黒の喪服に長身を包み、普段は好き放題にはねさせているやや白髪混じりの髪をきれいな七三に分けて、桐子の棺の前で静かに焼香していたその背中を、八幡は鮮明に思い出した。弥勒が桐子の通夜に参列していたのは、そもそも八幡と桐子の出会いのきっかけを作ったのが、弥勒啓輔その人だったからだ。
「八幡さあ、ちょっと顔貸してくんない」
三年前の三月、仙台駅の東側、宮城野区榴ヶ岡(つつじがおか)で一人暮らししていた八幡の、その古いアパートへふらっと現れた弥勒は、くたびれたベージュのトレンチコートを細長い体にひっかけるように立って、当時にはもう珍しくなっていた紙巻きタバコを咥えていた。暦の上では春とはいえ、仙台市内のこの地域は桜が咲くのも四月の中旬から下旬で、それにはまだひと月以上待たなくてはならない。そんな薄い上着で凌げる気候ではないだろう、と弥勒の姿に呆れながら、八幡は彼を部屋の中に通した。陸奥(みちのく)大学文学部史学科の三学年上の先輩として知り合った弥勒は昔からこんな様子で、突然やってきては昨日の続きのように話をはじめるのが癖だった。
「僕の家、禁煙ですよ」
「わかってる」
弥勒は懐から携帯灰皿を取り出すと、もう火のついていないタバコをねじ込んだ。コートを脱ぎながら、寒いな、と笑って肩をすくめるので、当たり前でしょう、と八幡はそれを受け取りハンガーにかけた。
「八幡、なにやってんだ最近」
「いつも通りですよ。いま下船期間なんで陸上の事務所勤務です。弥勒さんこそ元気なんですか」
「俺か? 元気だよ。最近離婚してな」
「は? ええ? 美雪さんと?」
弥勒がこともなげに言うので、八幡は反応に困ってまぬけな声を出した。
「先月家は引き払って、俺一人でマンション借りて住んでんだよ。優季(ゆうき)の親権は向こうが持つっていうからさ。来月中学にあがるとこなんだけどなあ。入学式出てやりたかったな。きのう今生の別れを済ませてきたところよ」
「え、はあ、そ、そうですか……」
弥勒は大学卒業後すぐに同級生と結婚していて、どちらとも親しかった八幡は結婚式にも出席していた。娘の優季とは面識もある。なんと返答してよいものかわからず、八幡は言い淀んでしばらく黙ってから話題を変えた。
「こうやって会うの、弥勒さんが県警辞めた時以来でしたっけ。一年ぶりくらいかな」
「事務所開業すんのに方々走り回ってたんだよ。やっと軌道に乗ったところだ」
弥勒は膨らむ癖毛をかき回しながら、リビング兼ダイニングの八畳間に座ってテーブルの上に名刺を出した。
「これ、うちの事務所の住所と仕事用の携帯。誰も雇ってないから全部俺が出るんだけどさ。人探しでも身辺調査でもあれば請け負うよ。おまえは身内割引で安くしとく」
「それはいいんですけど、顔貸すってなんの話です」
「一日でいいんだよ。どうしてもおまえくらいの歳の男が一人要るんだ。日当は払うよ」
煎茶をいれたポットと適当なマグカップを二つ並べたトレーを持って台所から戻ってきた八幡は、
「力仕事ですか? 休みの日ならいいですけど」
と聞き返した。弥勒はスマートフォンを操作して画像フォルダを検索しながら言う。
「三月十四日の土曜。体力はまあ、あんまり関係ない。できればちょっとちゃんとした格好してきてもらいたいんだよ。おまえ、女の実家に挨拶行ったことあるか。俺はもう十年以上前の話だから今時の作法がわからん」
「え?」
「これ、依頼者の高原桐子(たかはらとうこ)な。この子の彼氏の役で、結婚の報告をして両親を信じさせてやってほしいんだ」
スマートフォンの画面には、凛とした顔立ちにやわらかい癖毛で、真面目で知的な雰囲気の、八幡と同じ三十すぎくらいの年頃の女性の写真が映っていた。
実物の高原桐子は、弥勒の見せた写真よりさらに快活な印象の、歯切れ良い物言いの女だった。体に沿ったハイネックの黒いセーターと膝丈のタイトな千鳥格子のスカートで細い長身を包んで、弥勒の事務所で八幡と向かい合う。癖のある髪はやや明るく染められ、力のあるきりっとした目元の強い印象をやわらげていた。
「今日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
見合いのように向かい合って座った八幡と桐子がそれぞれ頭を下げる。弥勒はそれを面白そうに横で見ている。
「親には、二時からって言ってあるので」
「婚約者なのに高原さんのことを何も知らないのは変だから、個人情報のすり合わせだけできるように事前にまとめてある。八幡のぶんも同じだ。お互いのプロフィールを頭に入れておいてくれ。相手のことは名前で呼ぶようにしてくれよ」
弥勒が二人のスマートフォンにデータを送る。八幡は桐子のプロフィールを読みながら、なんでこんな依頼を受けてしまったんだろうとこの段になって思っていた。そもそも、弥勒の仕事は昔で言う探偵みたいなもので、個人情報を秘密裏に調べて依頼者に渡すのが主だったはずだ。なぜこんな偽装婚約の真似ごとをしているのだろう。疑問が顔に出ていたのか、弥勒は小声で八幡に向けて言う。
「俺んとこはこういうのも業務のうちなんだよ。人探しの逆。人を、匿って、安全なところへ逃がす」
「高原さんが逃げようとしてるのって……」
「両親」
手元のプロフィールに添えられた一文には、「母親と不仲、過干渉傾向。父親から、結婚するまで実家を離れることを禁じられている」とある。八幡はハッとして顔をあげ、正面の高原桐子を見た。
「あの、僕でよければ、なんでもしますんで」
突然そう言い募る八幡を目を丸くして眺めた後、桐子はうれしそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、『博範(ひろのり)さん』」
青葉区上杉(かみすぎ)は宮城県庁や仙台市役所、区役所にほど近い閑静な住宅街で、瀟洒な一軒家と高層マンションが立ち並んでいる地域だ。そのうちの一つ、今時珍しい門を構えた外塀に囲まれた庭付き戸建て住宅の前で、桐子と並んだ八幡は大きく息を吐いた。弥勒に言われた通り、ワイシャツにセーターを重ねた上に厚手のウールのジャケットを着込み、折り目をつけたスラックスに革靴を合わせてきていたが、これで失礼がないのか正解がわからない。
「緊張するなあ」
「緊張してたほうが本物っぽいですよ」
桐子はそう言ってキュッと目を細めて笑うと、インターホンを呼び出して声をかけた。
「トーコです」
「はーい、どうぞ」
解錠された門を通って玄関に向かう。中から出迎えた母親は、キリッとした目元が桐子によく似ていた。
「お母さん、こちら、博範さん」
「はじめまして」
「よくいらしてくれたわね、お父さんも緊張して怖い顔してるのよ。今お茶出しますから」
笑顔で二人を奥へ通す母親は、ごく普通の身綺麗な明るい婦人という様子で、八幡が心配したような不穏な家庭の雰囲気はない。窓際にモンステラとポトスの鉢が並んだ明るい光のさすダイニングに入ると、硬い表情の父親が座っているのが見える。今時わざわざ対面で行うことの珍しい結婚報告の顔合わせを希望する人らしく、もう退職して正装の必要ない立場でも、きっちり糊のきいたワイシャツにジャケットを重ねて背筋を伸ばしている。八幡はその正面に座ると、軽く会釈して自己紹介を始めた。
「八幡博範です。桐子さんとお付き合いさせていただいています」
「今日はわざわざありがとう。桐子の父です」
「二人ともそんなに肩肘張らなくていいのよ。博範さん、コーヒーで大丈夫?」
母親が笑いながら四人分の湯気のたつカップを卓上に並べる。八幡は普段あまりコーヒーを飲まなかったが、ここで断るのも悪いと思いそのまま受け取った。八幡に是非を問う言葉は形だけで、本人がこうと決めたら変更する気はないのだろうことが読み取れて、うっすらとその気質が伺える。
隣に座る桐子が、笑顔を作っていても自分以上に体を硬くしていることに気づいた八幡は、とっさにテーブルの下でそっと片手を桐子の手に添えてしまってから、慌てて赤面してそれを離した。
「……ふふ」
一人でうろたえている八幡の様子に、桐子がやっと本物の笑顔を見せる。
「えっと、今日博範さんに来てもらったのはね……。私たちから話があるの」
桐子の目配せに促され、八幡は思いきって切り出した。
「桐子さんと僕は、お付き合いが一年になりまして、このたび結婚したいと考えています。仙台市内で二人で暮らすつもりです。どうか、よろしくお願いします」
深く頭を下げた八幡と、それに並んで自身の両親へ平伏するようにした桐子を、相対する二人は困ったような満足したような嘆息とともに見る。
「まあ、そんなに畏まらずに……。こちらこそ、桐子を頼みますよ」
父親が相好を崩して言うと、八幡と桐子は思わず顔を見合わせ、大きく息をついてから笑い合った。
そこから和やかに始まった会談はしかし、二時間余りにわたる両親からの怒涛の質問攻めだった。八幡は自分の本当の身の上話に、弥勒が設定した嘘の情報も交え、ところどころを桐子が補足して、なんとかその長い時間を乗り切った。
「……はあ、疲れた……」
高原家を出て、ひとまず弥勒の事務所に戻るために歩き出した八幡に、見送りたいと両親に断って追ってきた桐子が駆け寄る。
「本当にすみません、こんなに時間かけてあれこれ聞くなんて……、うちの親どうしようもないな」
「いいですよ。弥勒さんからはその分報酬いただけることになってますし。任された以上はちゃんとやるまでです」
「八幡さんって真面目だけど、変わってますよね」
そうですか? と言いながら、八幡は通りかかった弁当屋の店先の自動販売機で飲み物を二つ買う。ほうじ茶のボトルを手渡すその当然のような手つきに、桐子は少し驚いた表情をしながら、
「はい。だって、こんな仕事本気で受けてくれるし。さっきも、父が私を実家から出すことで渋った時、『僕が桐子さんをサポートしますから、絶対大丈夫です』なんて言うし」
「ああ、それは」
八幡は今日のためにきれいに剃り上げた顎にいつもの無精髭がないことに、手をやってから気づいて苦笑しながら続けた。
「それはその……、演技っていうか、僕の本心なんです。実家から出て自由な生活するの、手伝わせてくれませんか。僕が桐子さんをサポートしますから」
「それで本当に八幡と、高原桐子で同居することになったって」
「はあ、その、まあそんな感じです」
「あの親子の縁切りを手伝いたくなったのはわかるが、それにしたって馬鹿正直に一緒に住まなくたって別にいいだろ。だいたいなんで高原桐子がそこで『はい』って返事すんだよ」
事務所に戻ってきた八幡の緩んだ顔に、向かい合った弥勒はふーっと紙巻きタバコの煙を吹きかけて目を細めた。弥勒はぼさぼさの髪、皺だらけのワイシャツにジャケットを羽織った姿で、応接用のソファに崩れるように座って足を投げ出していた。対する八幡は目をしょぼつかせて咽せながら答える。
「僕だってそんなの、その場で同意してもらえると思わなかったんですよ」
「まあ、八幡はああいうしっかりしてそうな子が弱ってるとどうしようもなくなっちゃうもんな。おまえに頼んだ俺が馬鹿だった」
弥勒はそう言ってローテーブルの灰皿に吸いさしを押し付けると、立ち上がって紙の資料やタブレットやいくつものスマートフォンがデスクトップパソコンの周囲に散乱しているデスクに戻り、回転イスの背もたれに体を預けた。
「おまえと結婚するから家を出るって両親を信じさせれば一旦は落着で、あとは後日なんか事情をでっち上げて婚約破棄したことにして、高原桐子の行方はわからなくなっておしまい、で俺の仕事は片付くはずだったんだけどなあ」
ひとりごとのように天井に向けてそう言ったあと、上体を起こしてディスプレイに向き直る。弥勒はしばらくキーボードを叩いて何事か真剣に打ち込んでから、八幡のほうへと声をかけた。
「八幡の携帯にいくつか足がつかない物件のデータ送っといた。早いほうがいいんだろ。報酬は今週中に振り込む。まあ、おまえたちふたりがその気になったっていうんだったら、勝手にしろ。ほら、帰った帰った」
そこから一ヶ月で八幡と桐子の同居計画は進み、打ち合わせのために何度も顔を合わせるうちに、いつしか桐子が自分に少しずつ気を許してきていることを八幡は感じつつあった。
誰でも社名を言えば商品がわかるような国内有数の自動車メーカーで働く桐子は、高校時代はもちろん、大学は自宅から通える範囲と親に定められて仙台市内の私立大学に進学先を絞られ、就職先も父のつてで仙台支社への配属を確約させたうえでの決定だったらしく、三十二歳の今まで実家を出たことがない。そんな彼女が家を離れて姿をくらまそうと決めたきっかけは、親友の結婚と引越しなのだという。
「中学の時からの幼なじみが東京に行くことになっちゃって。うちと似たような家の子だったんですけど、婚活してわざと東京の人と結婚するっていうんです。仙台を出て都会で新しい人生を始めるんだ、って、それに比べたら自分がこのままここで親と一生暮らすのが馬鹿みたいな気がしてきちゃって」
白を基調とした素朴な雰囲気のカフェで穏やかなピアノ曲を背景にした桐子が、シロップを入れたアイスティーをストローでかき混ぜながら言う。肩までの髪を今日はひとつに括って、シンプルな紺のカットソーに細い白のパンツを合わせていた。顔の両側に大ぶりの金色のイヤリングが揺れている。
八幡は曖昧に頷いて、
「弥勒さんのことはどこで知ったんです」
「私、父親が家で手をあげて警察呼んだことがあるんです。それも一回じゃなくて。その時にお世話になった県警の人の中に弥勒さんもいて、今回事務所を始めるからって個人的に連絡してくれたの」
と桐子が特に動じもせずにはっきりと答えるのを、なんとも言えない表情で聞いた。
「あ、ほら、ケーキ来た。ね、半分ずつ食べません?」
「え、いや、僕は」
「博範さんってこういう甘いもの好きでしょう」
桐子が両目を細めてうれしそうにそう言う。何度もカフェやレストランで話し合ううち、八幡が遠慮しつつもデザート類に喜んでいることをしっかり覚えていたのだ。桐子はゆるく立てた生クリームの添えられたチョコレートブラウニーを真ん中でフォークで切り分けて、皿ごと八幡に手渡してくる。これじゃまるで本当に恋人同士みたいだ、と八幡は顎の無精髭をざりざりと擦ってまばたきした。
「これから家電決めなきゃいけないし、なんかお腹に入れといたほうがいいですよ。あれって結構大変なんですよね。私全部いっぺんに買うなんてやったことないからなあ、一緒にいいの決めるの協力してくださいね」
「まあ、僕の今使ってるものを使い回せそうなのはそれでもいいんですけど……、うーん、だけど最低でも冷蔵庫と洗濯機とエアコンは買い替え要るんだよな」
「掃除機はどうしようかな。ふふ、なんかこんなのって、本当に婚約してるカップルみたい」
「え?」
八幡が顔を熱くして桐子の顔を見ると、桐子も赤面しつつ睫毛を伏せて続けた。
「こんなにカップルみたいなら、今日から本当に婚約してるカップルってことにしません? 私たち」
その日はそれ以降八幡はまったく記憶がなく、駅の東口にある家電量販店の大型家電総合カウンターに座ったまま、ほとんど役に立っていなかったというぼんやりとしたイメージが残るだけだ。四月の爽やかな仙台の街で、こうして八幡と桐子の婚約生活は本当に始まったのだった。
仙台市の中心部から北へ向かった副都心、泉区泉中央の駅近のアパートを二人は借りた。築浅のメゾネットタイプで、一階にバス・トイレと洋間がひとつ、二階に広いリビング兼ダイニングキッチンにもう一部屋のある2LDK。八幡が元の部屋で使っていた独居時代の家具はそのまま使えるものがほとんどなく、結局はベッドやソファなどの大型家具も新しく買うことになり、その全てと二人それぞれの引越し荷物とが新居に揃うのには数日かかってしまった。
「さあて、今日からは結婚を前提とした仮同居ですから。当面は婚約者兼同居人ってことでよろしくね」
「その、もし、同居してみて無理だな、みたいなことになったら」
「その時は解散だけど、実家には内緒。私はどこか違うところに引っ越します」
そう言って屈託なく笑う桐子を見ていると、不安になればいいのか一緒に笑えばいいのか八幡はわからなくなる。それでも今の八幡は、当初の桐子に同情していた気持ちから、彼女の明るくはっきりした性格と境遇にめげない芯の強さそのものに惹かれるようになっていて、ここで彼女と離れるわけにはいかないと思った。
「えっと……、まずはどうしよう。家事の分担でもしますか」
「ホワイトボードに書いてキッチンに置いたらいいかな。得意なの優先にして、やってみてダメだったら調整しましょう。家計簿アプリとカレンダー共有アプリも入れよっか、いいのがあるんだ最近は」
段ボール箱に囲まれたソファで八幡に並んで座り、肩を寄せて手元のスマートフォンを覗き込む桐子の髪からは、ばらのようなやわらかく青っぽい花の匂いがした。桐子に押し切られて買ったダブルベッドがさっき搬入されたことを思い出した八幡は、動揺して桐子から身を離して深く息をつく。桐子はすべてを見透かしたように、カラッとした笑みを浮かべて八幡の肩を手で押してはしゃいだあと、
「一応、婚約者なんだからいいじゃないですか、ね」
と、静かな表情になって体をもたせかけ、頭をこちらに預けてみせた。
慌ただしくも楽しい毎日が始まり、仙台市内のけやき並木の青葉が萌えるのにあわせるように、八幡と桐子の関係は急速にやさしく確かなものへと成長していった。初めこそ実家の両親が突然訪問してきたり、桐子の携帯電話に母親が毎日のように連絡してきたりということはあったが、それも八幡が防波堤になることで次第に減った。桐子のどことなく肩に力の入った様子もほぐれ、逆に八幡がかなり久しぶりになる女性との生活にいつまでも緊張したまま、仙台の街は長引いた肌寒く湿度の高い梅雨をようやく終えて、短い夏を迎えようとしている。
八幡がフェリーの長期乗船期間に入る直前のこの時期、港湾の事務所内で桐子の職場からの連絡を受けたのは、この東北の都市の一瞬の夏にしては珍しく、日中の気温が三十五度に達した昼下がりのことだった。
「桐子」
八幡が病院に駆けつけた時には、桐子は既に意識を取り戻してベッドの上で上体を起こして座っていた。突然職場のオフィスで倒れて意識が戻らず、そのままここ陸奥大学病院まで救急車で搬送されたのだという。さいわい搬送後しばらくして状態は落ち着いたが、原因がわからないためまだこれからいくつか検査が要るらしい。
桐子が見ている窓の外は、灼けつくような白い真昼の光が中庭を満たして、その中に蝉の鳴き声がじわじわと滲んでいる。八幡の声に、桐子は細い背中ごとこちらへ振り向けて応えた。
「博範さん」
「大丈夫なの、急に倒れたんだって」
「もう平気。熱中症か貧血かな」
桐子は額に軽く手をやってそう苦笑した。本来は一年中風邪もひかず、めったに病院にかかることのない丈夫な体質ではあった。それにしても最近少し疲れやすくなったようだと八幡は気にかけていて、しばらく仕事を早めに切り上げて帰ってくるように桐子自身が職場と調整していた矢先の今回の救急搬送だった。
「そんな、重病だったら困るよ。先生に話聞いてくる」
「待って」
桐子の珍しく弱気な声と、そっとシャツの裾を掴む手が八幡を引き留める。八幡はハッとして振り返って窓からの光で影になった桐子の顔を見た。
「あともうちょっとだけ、一緒にいて」
出会ってから初めて不安を口にした桐子の手を取ると、八幡は寄り添うようにベッドの端に腰かけた。ここから始まる闘病こそが本当の二人の共同生活の中心になることは、この時はまだどちらにも想像できなかったのだが。
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