ブロークン・スリープ

森山流

1

 寂しい海だ。

 エンジンの低い唸りと波が砕けて逆巻く轟音が鳴り続けている。それは航行している間じゅう響くので、毎日を船内で過ごす乗務員たちにはもはや聞こえていない。絶え間ない機関部からの震動も波による船体の揺れも、馴染めばそれが当たり前になる。

 深夜の三陸沖、船のデッキからはほとんどなにも見えない。黒ぐろとした海面と空の間に境界はない。灯火が見えるようになるまでにはまだ湾岸は遠すぎる。一帯に広がるのは深い眠りのように暗い海だけだった。

 船尾の展望用デッキには夜間でも橙色の照明が灯っているが、この時間は一般客が出ていかないよう入り口部分にロープが張り渡されて、立ち入り禁止と書かれた札が冬風に揺れていた。

 八幡博範(やはたひろのり)はそのロープを片手で持ち上げてくぐると、懐中電灯を消した。船内の客室部やデッキの見回りは客室係のうち夜間担当者の持ち回りだが、この季節の展望デッキは特にみな行きたがらないので、客室係チーフの八幡が引き受けてしまうことが多かった。桐子(とうこ)が死んでからというもの、どうせ眠れないならと夜間のシフトを多めに入れているので、ほとんど毎夜デッキでこの寂しい海を眺めている。体に慣れきってエンジン音も波音も聞こえなくなった船上からの真っ暗な海の眺めは、自分自身のかたちも溶けてなくなるように感じられて、死んだ恋人を思いながらの長い夜の時間潰しに似つかわしいと八幡は思う。

 苫小牧港を十九時に出て仙台港まで夜通し進むフェリーの上は、正面からの冷たい夜風が刺さるようで、長身の八幡にはLサイズでも丈が足らない乗務員制服のコートでは足腰が冷えた。夜気にあたるほど頭も冷たく冴えざえとして、よりいっそう目が覚めて眠れなくなってくるようだった。

「戻るか」

 八幡はそう呟いて襟元をかき合わせてから、タブレット端末で異常のない旨を記録した。船室への扉は安全のため重たく、宇宙船かなにかのように頑強な作りだ。白くペンキ塗りされた金属扉のロックを開け、細くひらいた隙間に体をねじ込もうとしたとき、視界の端に人影がうつる。

「え?」

 船室ドアの脇に人がうずくまっている。乗客だろうか。こんな季節にデッキに出ていたら命に関わる。慌ててドアを閉めると、そちらに駆け寄って声をかけた。

「大丈夫ですか」

 若い男だった。ゴアテックスの腰丈のコートを着てフードを被った小柄な男。軽く揺さぶっても返事がない。寒さのために顔が青白く、唇はひび割れて、かたく閉じた目蓋に密生した睫毛には体温で結露した水滴が溜まっていた。八幡は一瞬ぎょっとしてその顔をのぞき込む。もう息をしていないのかと思ったのだ。動揺しながら男の右手首を出して脈をとると、弱くゆっくりとした拍動があった。

「……びっくりした」

 慌てて自分の制服のコートを脱いで男の頭から被せる。そのまま抱えるようにドアの隙間から船内に押し込んだ。特等と一等の客室につながる厚いえんじ色のカーペット敷きの中央ホールに人影はなく、間接照明が光量を落として灯っている。いくらなんでもここで介抱するわけにはいかない。八幡は端末でいちばん近い空き客室を検索してマスターキーで開錠した。男を抱えあげて部屋の中に入れる。八幡より背は低くて痩せ型のように見えたが、力の抜けている人間ほど重いものはなく、両脇を抱えて引きずってカーペット敷きの床面に寝かせるのが精一杯だ。夜気で湿った衣類を脱がせるのに骨が折れた。

 誰か男のクルーを呼ぼうか。ひとりでは手に負えそうにない。

 八幡はインカムで夜間の客室担当者をコールした。井上がすぐに答える。

「どうしました」

「八幡です。デッキでお客様を保護したんだけど、意識がないみたいで」

「デッキ? こんな時間に?」

「タオルと、あと休憩室のポット、湯たんぽとか持ってきてください」

 話しながら特等客室備え付けのバスルームに入る。洗面ボウルに熱い湯をはり、備品のタオルを浸して温めると、寝かせた男の首の下へ当てた。低体温症の人間は体幹のみを温めるのが鉄則だ。四肢を加温すると、末梢の手足から冷えた血液が心臓に戻って中心体温が急激に低下する復温ショックという危険な状態になる。

「大丈夫ですか!」

 若いクルーの井上は、二リットルの電気ポット二つを手に提げ、大きな袋にタオルや湯たんぽなどを入れて担いで小走りに入ってきた。

「とりあえずお湯沸かして温めましょう」

「はい」

 二人がかりで男をベッドに寝かせ、毛布と羽毛布団を重ねてかけた。湯たんぽを胸と腹に当てて中心体温が上がるのを待つ。顔を温タオルで拭き清めると、いくらか赤みがさしてきたようだった。目にかかる前髪を持ち上げると思春期の少年のような青っぽい造りの顔があらわれて、八幡は胸がざわついた。大きな眼窩に長い睫毛の幼い雰囲気が、目の下の黒ぐろとした隈や乾燥して張りつめた皮膚の質感と釣り合っていないのが妙だった。何歳なんだろう、と八幡は場違いにそう思う。

「どうしましょう、医療系のお客様にコールします?」

「そうですね……、僕らじゃ応急処置しかできないし、仙台までまだ七時間か……」

 八幡は男の脈をとろうとして、そっと持ち上げたその右手首に大きな青痣があるのに気づいて思わず手を離した。手首を一周する太い痣に、擦り傷のようなまだ新しい細かな赤い筋が重なっている。左腕も布団から出してみると、同じように二色の傷跡がつる植物のようにまとわりついていた。外では暗くて気がつかなかったのだ。

「どうしました」

「え、いや……、大丈夫です。なんでもない」

 八幡は動揺しつつも、この男の痣と傷については井上に言わなかった。なにかよくないもののようだと思ってとっさに隠してしまったのが自分でも意外だった。

「そういえばこの人、身元とか連絡先わかるもの持ってましたっけ。乗客名簿見ましょう」

 八幡が端末で乗客名簿を呼び出して二十代から三十代くらいの男性を探している間、井上は脱がせて丸めておいた男のコートのポケットを開けて、財布とスマートフォンを抜き出している。失礼しまーす、と小声でつぶやきながら財布を開いて中身を改めると、井上は八幡を向いて眉を寄せて言った。

「……免許証もカード類もないです」

 不審に思った八幡はサイドテーブルの上の残りの衣類をガサガサと漁った。ニットパーカーの内側の隠しポケットから薄く折り畳まれた小型の金属が現れた。キャンプなどで使うような小さなサバイバルナイフだった。乗客の荷物には危険物が入っていないか搭乗前に乗り場でチェックしているはずなのに。

 嫌な予感がした。さらにカーゴパンツのポケットをひとつずつ開けていくと、腿の部分の大きなポケットからなにかが滑り出てカーペットへ落ちた。

「えっ」

 狩猟に使うようなやや大振りのナイフ。テーブルから落ちた衝撃でカバーが外れて鈍い銀色の刃が見えている。猛獣の歯列のようにギザギザした形の、肉を破壊するために作られた刃物だ。これは普通の人間ではない。この男に他の人間を関わらせてはいけない。八幡は直感的にそう思った。

「……井上さんは戻ってください。この人は僕が対応します」

「八幡さん?」

 こちらの表情を伺うように井上が眉を上げる。

「いやあの、控え室で待機してるクルーをもう何人か呼んできてください。とにかく外へ」

 矛盾したもの言いに困惑する部下の背中を押して半ば無理やりに廊下へ出すと、八幡は内側からドアを施錠した。どうしてこんなことをしているのか、自分でもうまく内心の説明がつかなかった。ただ、保護した男の顔を明かりの下で見たときから、ずっと胸騒ぎがしている。足元の光るナイフの存在がその予感をさらに強固にしていた。この男の保護はきっと厄介なことになる、自分以外の人間を巻き込めないと八幡はなぜかそう思った。

 八幡は男の元へ静かに戻ってもう一度まじまじとその顔を眺めた。はじめて見る顔だが、その幼い造作と釣り合わない老いたような達観の雰囲気には確かに見覚えがある。死ぬ直前の、自分はもうすぐ死ぬことを覚悟している人間の顔だ。布団から投げ出されてベッドの脇へ垂らされた男の左腕をとる。その腕のつるばらのような濃い鬱血痕、これも八幡には馴染みがあった。

 腕を布団の中に押し込んでやり、手を離そうとしたところで、かえって手首を強く掴まれる。ぎょっとして振りほどこうとした八幡をうすく開いた目で見つめて、男が低い声で言った。

「梨緒(りお)」

「……桐子……」

 男の声に八幡の呆然とした呼び声が重なる。男は八幡のうしろに別の人間を見ているように遠い目をしていた。八幡は自分も同じ表情をしているのがわかる。あの日、この客室よりずっと殺風景な真っ白い病室で、毛布とかけ布団に包まれて昏睡していた桐子は、八幡の手首を掴んでゆっくり目を開いたのだ。桐子の腕が採血の針と点滴の留置針の跡で青痣だらけだったのを、眼前の男の腕を見てまざまざと思い出す。

「……なんだ」

 男がそうつぶやいて手首を離し、八幡の意識は現実に引き戻された。

「……ああ、気がつきましたか」

「……客室? ……あんたが連れてきたのか」

 男は目を細めて訝しげに八幡を見上げた。さっきまでの迷い子のような表情は消え、顰めた眉の下の影が濃い。まるで保護されたことが心外だとでも言いたいかのようだった。

「デッキで倒れてたんです。あのままじゃ死んでしまう」

 八幡が答えながら布団を首元にかけ直すと、男はさっと身を捩って八幡の手を避ける。その反動を利用して裸の上半身を跳ね起こし、八幡の喉に左手の小指側を叩き込んだ。

 一瞬呼吸を奪われて咳き込んだ八幡が後ろ向きに倒れ込む。男はサイドテーブルのダガーナイフを掴んで八幡に馬乗りになると、首元へ刃先を当てて低く言った。

「下船に協力しろ。脅しじゃない」

 八幡はとっさにどうしていいのか判断がつかず、ナイフに当たらないよう精一杯顎をそらしたまま黙った。男も何も言わないまま八幡の目を覗き込む。ほんのわずかに刃先が八幡の喉を擦り、傷口から血が出るのを感じて八幡は背筋が寒くなった。

「……さ、騒ぎになったら捕まりますよ。逃げられません。船の中ですし」

「仙台に着くまで隠し通せればいい」

 八幡の死体を他の人間から隠せばいい、の意味だと気づいて、怯えを通り越して思わず苦笑しながら、八幡は仰向けのまま、両手をゆっくり顔の横へ掲げてホールドアップの姿勢をとってみせる。男はそもそもデッキで眠り込んでいたことからして、正規の乗客ではないのだろう。降りる時にそれが露呈しないよう、乗員の手引きが欲しいのだ。

「……どう協力すればいいんです」

「車で船を出ろ。荷物として中に隠れて降りる」

 八幡は今回の航海で下船する予定はなかったが、なにか口実を作れということらしい。こんな人間の手伝いをして船を降りたら、もうこのフェリーに戻ってこられはしまい。2020年代の新型コロナウイルスの大流行で国内の航空各社がほとんど倒産し、一般市民の海を越える主要交通手段がフェリーになった頃に就いた乗務員職にはそれなりに愛着がある。母語に加えて英語が堪能なことを買われて、通訳も兼ねての客室チーフのポジション。特に仙台ー苫小牧便に移ってからは、ロシア語の勉強に励んで多言語対応のできる数少ないスタッフとしてそれなりの立場を築いてきた。それも明日の下船で霧散する。

「到着は九時です。それまで僕の部屋に匿います」

 男は無言で頷くと、八幡の体から身を離した。立ち上がってナイフの刃を収めると、サイドテーブルにあった濡れた自分のシャツを着直して不快そうに顔を顰める。八幡はふいにその少年のようなそぶりに気を取られた。たった今この瞬間まで自分の命を握っていた人間とはとても思えないのだった。

「なんだ」

「いや、その……、なんと呼んだらいいですか。あなたのこと」

 思わず全く関係のない質問が口から出て、八幡は自分でも驚いた。男も一瞬目を見はって、八幡の顔をまじまじと見返した。ややあって、低い声で短く言う。

「……ユノキ。そういう苗字だ」


 翌朝九時、フェリーは予定通り仙台港に到着した。甲板部の乗務員たちは着岸してすぐに下船準備作業に入った。客室担当者も乗客を案内するために各自持ち場につく時間だが、八幡は客室デッキではなく駐車場のようになった乗車デッキに来ていた。車が出発を待ち構えるように隙間なく整然と並んでいる。八幡はその中を通り抜け、一番奥に停車する車に向かった。

「あれ、八幡くん今日下船なの」

「はい。ちょっと早めてもらったんです」

 乗車デッキの男性スタッフに答えながら自分の車を解錠する。銀色のコンパクトハイトワゴンだ。両扉がスライド式で、リアシートを倒して全面をラゲッジルームと繋げられる積載量のある家族向け。桐子との婚約の少し後に彼女の病気が発覚し、頻繁な通院が必要になったために、予定を繰り上げて正式な結婚の手続きに先駆け買ったものだった。この船は本来乗務員の車を積むことはないのだが、内陸の仙台市泉区から港に出てくる八幡には長期の乗船期間中に車を置いておく場所がないため、特別に許可が出されてあった。

「なんか急用なの」

「実家の母の調子がよくないみたいで。僕しかすぐに帰れないんです」

「大変だねえ。山のほうはかなり降ってるでしょ。気をつけて帰ってね」

 八幡は会釈してあいまいに微笑んだ。大崎市内の山間部の小さな温泉街である鳴子の実家では、七十代初頭の両親はどちらも健在だ。仙台市内には妹夫婦もいるので万が一の場合でも八幡が急に仕事を休む必要は実際にはないが、適当な口実が他に思いつかなかった。八幡はバックドアを開けて旅行用の大きなキャリーケースを車内に入れようとするが、なかなか持ち上がらずに手こずって時間がかかった。見かねた乗船デッキスタッフが駆け寄って助力して、二人がかりでなんとか積み込みを終える。

「ありがとうございます」

「そろそろお客さん降り始めるから。最後に出てね」

「はい」

 片手をあげて応じた八幡は、もう片方の手ですばやくキャリーケースのロックを外した。瞬時にバックドアを閉めて運転席に戻る。車外のスタッフが乗客の車のほうへ小走りに向かったのを確認すると、後ろに向けて声をかけた。

「行きましたよ」

「……クソ、狭い」

 キャリーケースが内側から開く。ユノキが悪態をつきながら、大きめの白い半袖Tシャツ姿の軽装で転がり出てきた。そのままリアシートを倒して平らに伸ばしたところへ腹這いになり、体の上に八幡の荷物や上着をかぶって埋もれるようにするのを、八幡は肩越しに眺めていた。身長170センチ程度のユノキはぱっと見の印象のわりに筋肉質だったので、大型とはいえキャリーケースに隠れるのはやや難航したのだが、それ以上に運搬する八幡が苦労したのは言うまでもない。

「最後に出庫するので、スタッフに見られないよう気をつけてください」

「ああ」

 ユノキがくぐもった声で答えるのに合わせ、八幡は車を発進させた。暗い船内から港に出ると、天幕のような白い雲の隙間から冷たい冬の光の帯が海面に降りている。この時間でも吹き付ける風は音を立てて車体を叩き、外気温は氷点下だ。埠頭を出て多賀城(たがじょう)市内を北へ進むにつれ、山からの風が強まった。暖房設定を強めて最大風量にしても、しばらくは車内で吐く息が白かった。

「どうしようかな……」

 八幡は片手をハンドルから離して顎の無精髭を擦りながらひとりごちた。ひとまず泉中央の自宅に向かうとして、ユノキを連れて帰るわけにはいかない。犯罪者かなにか、ユノキがうしろ暗い事情のある人間なのは明らかだし、不正乗船を手助けした自分も見つかれば罪に問われるだろう。八幡自身職場に戻れないのはもちろんだが、どうにかしてこの件を隠すか、あるいは自分から警察へ申し出てしまうほうが身のためか、と思案しながら仙台港北インターチェンジから高速道路に乗る。できるだけ短時間のルートをとるほうがよいと判断したためだった。それにしてもこの男の処遇はどうしたらいいのだろう。

「僕はいったん家まで帰りますけど、どこで降ろしましょう」

 背中越しに声をかけるが返事がない。無視しているのかもしれないが、高速の走行中には確認できない。多賀城インターチェンジで降りて県道へ入り、信号で停止した隙に後ろを振り返った八幡は、視界のユノキの様子に虚をつかれて小さく、あれ、とつぶやいた。

 八幡のダウンコートやリュック、車内用のブランケットに埋もれて、子供のように丸くなった姿勢でユノキは眠り込んでいた。自分の黒いショートコートを胸元にまとめて抱えるようにして、八幡が貸した半袖シャツに寝間着用の薄いスウェットパンツ姿のまま、規則的な寝息をたてている。長い前髪が束になって額と目の周りに張りついていたが、心なしその表情はやわらかい。

「うわ」

 思わずまじまじと見ていたところで後続車両からクラクションを鳴らされ、八幡は慌てて正面に向き直って車を発進させる。その衝撃でユノキの体が大きく進行方向に滑って、鈍い音と低い呻き声が上がった。助手席の背当てに頭をぶつけて目を覚ましたらしいユノキが起き上がるのが、ミラーに小さく映っていた。

「……痛え……、どこだここ……」

「泉中央駅です。近くで降ろしますか」

「帰るあてなんかない。これからのあんたと同じだ」

 当然のように言い捨てたユノキの声は、低く静かだが確かに脅しのニュアンスを響かせている。このまま自宅、かつて桐子とふたりで暮らしていたアパートへ、ユノキも伴って行くしかないと言いたいのだろう。

「あんたの家に着いたら荷物をまとめてすぐに出る。おれが逃げるのにあんたが、ヤハタが要る」

「食料やお金は多少融通します。でもその先は手伝えないですよ。僕だってこれ以上巻き込まれては困ります」

「見ててわかんないのか。一人だとまともに起きていられないんだよ。それがおれの……、体質だ」

 一瞬言い淀んだのは、自分のその性質をなんと表したものか悩んだのだろうか。八幡は昨夜のユノキの、甲板で眠り込んでいた最初の姿と、自室に匿っている間、仙台港に着くまでの時間のほぼ全てを眠り続けていた様子を思い出した。対する八幡自身は、桐子を看取った日以来まともに眠れた夜はなく、昨夜はユノキを同室に置いている緊張感もあってほとんど一睡もしていない。

「……そうですか」

 八幡はハンドルに吹きかけるように小さくため息をついた。この男をどこへなりと降ろして、急いで逃げてしまえばいい。刃物や格闘術を使ってくるような人間でも、車で逃げればどうということもないはずだ。冷静にそう判断するいっぽうで、頭の片隅では、この何かから逃げている孤独そうな身寄りのない男を放っておいていいのか、という声がしていた。

「わかりました。とりあえずうちへ」

 自分が危ない橋をわざわざ渡りに行こうとしているのはわかっている。それでも、二つの選択肢があるなら、より危険で負担が大きいほうを選ぶのが、八幡はこの四ヶ月ほどで習い性になってしまっていた。それが桐子への罪滅ぼしであり、自分への罰になるのだから。

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