帰り途
ゐゑはる(いえはる)
帰り途
「お先に失礼します」
快活な挨拶とは裏腹に、私はこの定型文に不快感を覚えていた。上から強制されたこの言葉は誰の心にも響きやしないのだ。私がその言葉を口にすると、反射的に「お疲れ様です」とだけ呼応して返ってくる。顔の向きも眼の焦点も、こちらには
「それが自然の
このビルは地上十七階の建物で、オフィスから下を覗けば足が
五十代くらいで白髪交じりの中肉中背、特にこれといった特徴のない男が乗り込んできた。彼の耳には白い物体が嵌っており、一瞬ヘンテコなピアスをしているのだと思ったが、激しく音漏れをしていたので、それが「イヤホンなのだ」と理解をするのにそれほど時間を要することはなかった。その男と私だけの三畳ほどの空間があったのは、ほんの数秒に過ぎなかったが妙に長く感じた。やっと一階に着き、私は自分が開閉ボタンの近くに立っていることに気が付いたので、その男を先に降ろしてやった。そもそも始めから期待などしていなかったが、その男は私に何の気遣いも見せず、そそくさとエレベーターを出て行った。私はその男を後ろから思い切り
外に出ると、
駅までの道のりは幹線道路を越え、くねくねと迂回していかなければならない。革靴はサイズが合っていないのか、時折、
横浜駅はあらゆるところで人の波が出来ていて、自分の意志が不安定であると簡単に流されてしまいそうな恐怖さえ感じる。私が乗りたいのは横須賀線だ。どちらかと言えば、「乗りたい」というより「帰りたい」という気持ちが大きいか。とにかくその強い意志を以て、横須賀線のホームへ向かう。
ここで、私は待機を余儀なくされる。「東京行き」へ乗ってはならないのだ。それに乗ってしまうと東京駅で降ろされてしまう。私の家は東京駅より東のベッドタウンにある。往復一時間半の通勤は身体に
やっと「久里浜行き」の電車がやってきた。いつの間にか先頭で並んでいた私の後ろには四、五人の行列ができていた。横浜駅で降りる人は多い。ハブステーションであるから当たり前か。私が降りる人を待っていると、後ろからするりするりと人の間を抜け車両に乗り込む者がいた。人が降りきる前に乗り込む人は何を考えているのだろうか。そこまでして席の端っこを死守したいのか。私はルールを守らない人間は論外として、マナーを守らない人間が大嫌いだ。外に出歩くたび、そんな不満が噴出してしまう。気にしないようにと思っていても、どうしても気になってしまう。一人で世直しできるほどの行動力もカリスマ性もない癖に、私は一人で悶々と不満をため続けてしまうのである。私は七人掛けの席の中央に座った。というよりもそこしか空いていなかった。
私は電車に乗っている時間に資格の勉強をしている。これは何も自分から取ろうと思ってやっているわけではない。会社の上司に「取っておいた方が良いよ」と言われたからやっているまでだ。動機付けとしては何とも
横須賀線は東京駅に着き、総武快速線に変わった。東京駅を過ぎ、新日本橋駅、馬喰町駅とくると何故だか安心感がある。私を迎え入れてくれる空気が東の空に広がっているのだ。この季節は六時を過ぎても日は沈み切っていない。七人掛けの席の真ん中に座る私は、反対側の車窓から蜜柑色の夕焼けを捉えた。落日の
私は最寄駅に着いた。夕日は既に沈み、辺りを群青色に染め上げようとしていた。駅から家までの道中は様々な匂いがする。私はイヤホンを耳から外し、五感を研ぎ澄ませるようにして歩いた。
「…ただいま」
帰り途 ゐゑはる(いえはる) @wyiwyeharu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます