帰り途

ゐゑはる(いえはる)

帰り途

 「お先に失礼します」

 快活な挨拶とは裏腹に、私はこの定型文に不快感を覚えていた。上から強制されたこの言葉は誰の心にも響きやしないのだ。私がその言葉を口にすると、反射的に「お疲れ様です」とだけ呼応して返ってくる。顔の向きも眼の焦点も、こちらには一瞥いちべつもせずに。

 「それが自然のことわりなのだ」と自分に言い聞かせるように、私はこの季節にしてはいやに冷たいドアノブを捻って、息苦しい酸素の薄い空間を後にした。


 このビルは地上十七階の建物で、オフィスから下を覗けば足がすくむほどである。エレベーターは六台もあり、あまり待ち時間を気にしたことはない。いつも通り虚ろな表情で、やってきたエレベーターに私は乗り込む。そのまま一階のエントランスまでじかに着けば良いが、そう上手くはいかない。このビルの四階にはコンビニがあり、そこで停められる確率が非常に高い。今日もそれが当たる日だった。

 五十代くらいで白髪交じりの中肉中背、特にこれといった特徴のない男が乗り込んできた。彼の耳には白い物体が嵌っており、一瞬ヘンテコなピアスをしているのだと思ったが、激しく音漏れをしていたので、それが「イヤホンなのだ」と理解をするのにそれほど時間を要することはなかった。その男と私だけの三畳ほどの空間があったのは、ほんの数秒に過ぎなかったが妙に長く感じた。やっと一階に着き、私は自分が開閉ボタンの近くに立っていることに気が付いたので、その男を先に降ろしてやった。そもそも始めから期待などしていなかったが、その男は私に何の気遣いも見せず、そそくさとエレベーターを出て行った。私はその男を後ろから思い切りめ付けてやったが、それに気が付くわけもなく入館証を機械にかざし、男は遥か彼方へと消えていった。


 外に出ると、生温なまぬるい風が全身を撫でた。横浜の風はいつだって強過ぎる。私のありとあらゆる全ての悩みも吹き飛ばしてくれたら良いのに、その悩みだけ残して他は連れ去ってしまう。「夕方になって雨が降る」という天気予報を聞いて長い傘を持ってきたというのに、オフィスに忘れてきてしまった。今さら取りに戻るのも面倒だ。このまま駅までは十数分だから、そこまでは大丈夫だろう。

 駅までの道のりは幹線道路を越え、くねくねと迂回していかなければならない。革靴はサイズが合っていないのか、時折、かかとが浮いて歩きにくい。その足で階段を二つ、三つ越えていかなければならないと考えるとそれも面倒だ。私は外界の音を遮断するように耳にイヤホンを装着した。特に何を聴くわけでもなく、五感の一つをにぶらせることによりストレス軽減を図っている。この街の音を好きになれたら、果たして私の生活に良い兆しは現れるのだろうか。そんな淡い期待を捨てられずにいるのは何故だろうか。そういった自問自答をしているうちに駅が見えてきた。

 横浜駅はあらゆるところで人の波が出来ていて、自分の意志が不安定であると簡単に流されてしまいそうな恐怖さえ感じる。私が乗りたいのは横須賀線だ。どちらかと言えば、「乗りたい」というより「帰りたい」という気持ちが大きいか。とにかくその強い意志を以て、横須賀線のホームへ向かう。


 ここで、私は待機を余儀なくされる。「東京行き」へ乗ってはならないのだ。それに乗ってしまうと東京駅で降ろされてしまう。私の家は東京駅より東のベッドタウンにある。往復一時間半の通勤は身体にこたえる。だが、その選択をしたのは紛れもなく私だ。ろくに就職活動もせず、最後の方に焦って採用してもらった会社に勤めている。その会社に「恩を返す」などという気はさらさらない。早く他の会社に転職をして今の状況を打破したい。そういう気持ちが同僚や上司にも伝わっているのだろう、あまり友好な関係は築けていない。いや、築くつもりがない。私にそのつもりがないから相手もそれに合わせてくれているのだ。


 やっと「久里浜行き」の電車がやってきた。いつの間にか先頭で並んでいた私の後ろには四、五人の行列ができていた。横浜駅で降りる人は多い。ハブステーションであるから当たり前か。私が降りる人を待っていると、後ろからするりするりと人の間を抜け車両に乗り込む者がいた。人が降りきる前に乗り込む人は何を考えているのだろうか。そこまでして席の端っこを死守したいのか。私はルールを守らない人間は論外として、マナーを守らない人間が大嫌いだ。外に出歩くたび、そんな不満が噴出してしまう。気にしないようにと思っていても、どうしても気になってしまう。一人で世直しできるほどの行動力もカリスマ性もない癖に、私は一人で悶々と不満をため続けてしまうのである。私は七人掛けの席の中央に座った。というよりもそこしか空いていなかった。


 私は電車に乗っている時間に資格の勉強をしている。これは何も自分から取ろうと思ってやっているわけではない。会社の上司に「取っておいた方が良いよ」と言われたからやっているまでだ。動機付けとしては何とも心許こころもとない。どうも「おすすめされている」と捉えることが出来ず、「強制されている」という強迫観念でやっている節がある。実際にやっていて楽しくはないし、理解もできない。決して無駄な時間だとは思わないが、有意義な時間だとも思わない。ただ、スキマ時間を埋めるためのツールとして用いているだけだ。私は、自分で決められるものは何もない、何も持たない人間だと自分を評している。暗く閉ざされた部屋から脱却するすべも意志もない。自分を卑下する言葉なら淀みなく出てくるが、称賛する言葉などうの昔に枯れてしまった。私は今、目の奥に光がない状態で生きている。


 横須賀線は東京駅に着き、総武快速線に変わった。東京駅を過ぎ、新日本橋駅、馬喰町駅とくると何故だか安心感がある。私を迎え入れてくれる空気が東の空に広がっているのだ。この季節は六時を過ぎても日は沈み切っていない。七人掛けの席の真ん中に座る私は、反対側の車窓から蜜柑色の夕焼けを捉えた。落日のはかなさと美しさに、少し目が、雨の日のネオンの街のように滲んだ。


 私は最寄駅に着いた。夕日は既に沈み、辺りを群青色に染め上げようとしていた。駅から家までの道中は様々な匂いがする。私はイヤホンを耳から外し、五感を研ぎ澄ませるようにして歩いた。紫煙しえんくゆらせる柄の悪い金髪の男や、異様に短いスカートで誰を待つでもない手持ち無沙汰な若い女などが蔓延はびこる裏通りを抜け、住宅街へと出た。ここまで来てしまえば、もう何も邪魔するものはない。夕餉ゆうげの匂いがそこら中から漂ってくる。その中に一つ、取り分け私の好きなピラフの匂いがするではないか。どうやらそれは、私の家から流れ出たもののようだった。私は定型文の如しその言葉を嫌っていたが、今日は、今日だけは思わず口に出さずにはいられなかった。

 「…ただいま」

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