たった一人だけの社会

染谷市太郎

私は『非常識』なのか?

『常識を身につけろ』

 ことあるごとに父はそう怒る。


 家の片づけをしているとき。

 車の運転をしているとき。

 しゃべっているとき。


 日常生活の中で、父はことあるごとに怒る。


 では、常識とはなにか。

 父にとっては、社会人として、また集団の中で生きている合間に身に着けることができる、『暗黙の了解』とやらが『常識』らしい。


 そして、父の常識に従えば。

 掃除と称して他人のものを勝手に捨てることも。

 道路交通法を違反し、携帯をいじりながら高速道路を走ることも。

 他人がしゃべっているときに、話しを聞かないことも。

 全てが当然のことで、暗黙の了解。

 また、それに異を唱えることは『おかしな人間』で、あるらしい。


 お前のほうがおかしい。


 こんなおかしな人間が世の中に存在するのか。社会の中で生きていけるのか。

 私はそう疑問に思う。

 だが、現に社会の一員として生きているのだ。

 働いて金を貰っている。

 家に金は落とさないが。

 そして、むしろ生きづらさを感じているのは私のほう、という結果までついている。


 このようなおかしさに首をひねった人は、少なくはないのではないか。

 少なくとも私は首をひねって、考える。

 私の父のような『常識』を振りかざす人間の中で、どのようなことが起こっているのか。

 つまり、どのような思考をもって『自称常識人』は生まれてしまうのか。

 私は父が怒りをあらわにするとき、いつも考える。

 あくまで一個人の考えであり、心理学も齧っていないような人間の愚考ではあるが。


 私は思う。

 父の言う常識が通じる社会は”非常に狭い社会”なのではないかと。


 例えば、私の家は、現在私含め4名で構成されている。

 うちわけは、私、祖父母、父。

 現在、我が家は分断されており、『私、祖父母』と『父』の派閥(派閥というほど大きくもない)に別れている。

 父は私たちに対し、孤軍奮闘で常識というものを身につけろと躍起になっているわけだ。

 だが、考えてみて欲しい。

 『家』という集団は閉じた社会だ。

 家の中にいる私や祖父母にとって、家の中にいる限り、他の集団、例えば企業や学校、は存在しないに等しい。

 存在はしているが、他の集団は『家』に介入してこない。

 児童保護や虐待の事件がいい例だろう。『家』は非常に強固で、外部からの介入がしずらい集団だ。

 つまり、現在の『我が家』、その四名という集団の中で、父が言う常識に賛同する人間は父だけ。

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 この比は父が押し付けるような態度を取っている限り変えようもなく、私も祖父母も、父側の集団になることはない。

 そして私たち以外の他者が、父側につくということも、家は閉じられているのだ、ありえない。

 ”一般”という言葉が”マジョリティ”と共するのであれば、我が家の中で父の考えはマイノリティ、少数派だ。

 集団内での暗黙の了解を常識と呼ぶのであれば、父の常識は私たちの常識でもなければならない。

 だが、父の言う常識は、『我が家』という集団/社会の中で、まったくもって了解されていない非常識。

 父の言う常識は『父の中』、つまり『父のみで構成される社会』の常識ということだ。

 父は頑張って、家の中の非常識をどうにかこうにか常識にしようとしている。

 別にそうしなければ誰かが死んでしまうとか、権利が侵害されるだとか、そんなわけでもないのに。

 父個人の中の考えだというのに、それを私たち(私と祖父母)に押し付けるから、問題が起きている。

 我が父は、父という構成人数1の集団内での常識を、私たちという他集団に無理やり敷こうとしているのだ。


 なぜこのような行動をするのか。

 観察してきた経験からは、父は集団という線引き、そして個人という線引きがまったくもってないのだ。と私は思う。

 父は、自分の常識が、父と言う少数の中の常識、ということを理解していない。それどころか、自分が社会の代表のような顔までしている。

 お前のような社会の代表があってたまるか。

 そして、我が父は、他者が自分とは異なる考えを持つ、ということを全く、想像もできていないのだ。

 だから、父は自分が考える『常識』に異を唱えられると、驚き、怒り、その感情を私たちにぶつける。

 はた迷惑な話である。


 これを父に言えば、父は「そんなものはわかっている!」と怒るだろう。

 知識としては知っているのだ。

 他人が自分と異なる個体であり、考えを持つことは。

 だが、それを十分に理解せず、実行できていない時点で、真に知っているとは言えない。


 このように、他人/他集団が異なる考え、常識を持つことを知識として知りつつもなぜ実行できないのだろうか。

 答えは単純。

 異なる考えとの衝突の機会がまったくないからだ。


 若いうちは(私も20代なのでまだ若い)、自分の考えに対し多くの批判をいただける。

 卒業論文だってそうだろう。

 やれ「素人質問ですが」や「専門外ですが」という恐れられた質問たち。

 それらは「その研究項目に関し専門的ではないが、科学的な一般教養を身に着けた身として持たれた疑問、あるいは批判」が含まれていると思われる。

 発表は発表者の考えであり、若い身であるとそこに容赦なく疑問、批判を飛ばされる。

 この容赦なく、というあたりが非常に貴重なのだと私は思う。


 だが、年齢を重ねるにつれ、立場が上がれば批判する人間が減る。

 単に年齢が上がっただけでも、そもそも若者と異なり教える必要がないのだから、誰も批判はしなくなる。

 そして、他者と衝突の機会はめっきり減る。

 しかも衝突しても「自分が正しいのだ」という自己暗示によって、自分の考えを考え直すという行動を全く起こさない。


 知識は知っただけでなく行動を伴わなければ、腐敗することは存知のとおり。

 他人が自分とは異なるという、”知”はインプットされている。

 では次は、他者との衝突、という”行動”でアウトプットしなければ。

 そうしなければ知識は腐敗する。

 知識の腐敗は思考の堕落につながる。

 知と行動は両立させなければ、なんかそんなことを言っていた人がいたような気がする。すぐに引用できないが。


 勘違いしてほしくないのだが。私は積極的に批判しろだとか。多くの批判という石を投げられることはよいことだとか。そのような争いごとの種を蒔こうとしているわけではない。

 だいたい、現在ネット上で行われている批判、議論は、大半が議論と呼べるものではないだろう。

 議論は言葉という道具で互いを思考高みにもっていく共同作業であって、互いを尊重しない、論破だとかなんだとかの争いではない。

 当然勝ち負けも存在しない。

 議論で生まれるのは、新たな考えだ。結果だ。


 話がそれたが、私は積極的に他者の考えに触れ、自身の考えを疑うことで、柔軟な思考を身につけられると言いたい。

 柔軟な思考が何に役立つのか。それは当然集団内で生きることだ。

 柔軟な思考を持つことができれば、他人が何を考えているのか、想像し、共感することができる。

 「お前の考えはわかった」、だなんてことも軽々しく言えなくなる。

 わかられてたまるものか。


 個人主義が横行した現代だが、結局共同体が必要であることはすでにわかりきっている。

 少なくとも、我が父は家族と言う共同体内に住みながら、個人主義を押し通そうとしているのでおかしな摩擦が起きている。


 集団内で常識を語るのならば、他者を知り、自身を疑うところから始めなければならない。

 私はそう思う。


 もちろん、私は年齢を重ねたわけではないので、あくまで若輩者の愚考だ。

 しかし我が父を見る限り、そのような流れがあって、他者に常識を強いる非常識人が生まれるのではとも思う。


 やはり、我が父のような人間と暮らしていると、あんな情けない人間にはなりたくないと私は思う。

 狭量な人物にならないため。

 さてひとまず、私は今語った考えが誤りではないか、と考え直すべきだろう。

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たった一人だけの社会 染谷市太郎 @someyaititarou

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