4-2.優しい蔦

「戻りました」


 家のドアを開いて声を掛けると、返事より先にするすると細い枝がラーレに向かって伸びて来る。どこかに居るヘンリクに、ラーレの声が届いている証拠だ。枝は、ラーレの体に異常がないか確かめるようにふわりと腕に巻き付いて、子犬みたいに頬擦りする。彼の体から伸びる枝は変幻自在で、硬い時もあれば柔らかい時もある。ラーレに触れる枝は柔らかく、蔦そっくりに滑らかだ。

 コーブルクにも蔦が這う古い住宅があったことを、ラーレは思い出す。自分もあの家と同じで、やがてヘンリクの蔦に埋もれて幸せに立ち枯れてしまうのか。

 少しして、ヘンリク本人がやって来た。


「……おかえりなさい」


 出迎えてくれたからと言って、賑やかなお喋りが始まるわけでもない。背中を曲げてこちらを見ているヘンリクに、ラーレは何度か頷いてから買い物籠を持って歩き出す。すると、ヘンリクの長い蔦がラーレを抱き上げて、台所の調理台の前に置かれた踏み台にそっと立たせてくれた。もちろん、ラーレ用の踏み台はヘンリクのお手製だ。

 ヘンリクは、ラーレを蔦で踏み台に乗せるのが好きだった。本当はいつでもラーレを抱えていたいらしいけれど、流石にそれは断った。自分がお人形や愛玩動物になってしまう気がして。


「あの、ヘンリクさん」

「……ん?」

「手で触っても平気ですよ?」


 二人で自宅に居る時は、いつもどこかしらが触れ合っている。体ではなくて枝が。野イチゴを初めて食べさせてくれた時も、彼は枝を使っていた。台の上にラーレを乗せる時も同じ。柔らかな枝をそっと伸ばしてラーレに触れる。そんな回りくどいやり方より、ラーレの頭に手でも置いておけば魔力を効率よく吸収出来そうなのに。何の役にも立っていない上に、彼に気を遣わせているとしたら。そう考えるだけで、ラーレは息苦しくなる。

 ヘンリクを見上げると、彼は困ったような顔をしてラーレに視線を落とし、ぬ、と手を広げた。片手でラーレの頭など握り潰してしまえそうなほど大きな手。視界が遮られ、手の形の影が落ちて来る。思わずラーレは息を飲み、肩を竦めた。


「……ほら。怖いでしょ? ……だから、触らない」


 穏やかな口調だったけれど、ヘンリクの声は作業台に力なくぽとりと落ちてしまった。それからラーレは何も言えなくなってしまい、小さく「ごめんなさい」と呟いて、自分の部屋へ戻る。


 ヘンリクお手製の作業机で、ラーレは大きく深呼吸する。インクの香りと紙の香りが鼻から頭に入って来て、やっと呼吸が出来た気がした。ラーレは死者の物語を綴る。ここへ来る前に本屋から受け取っていた原稿を、少しずつ片付けて行く。仕事はいつか終わってしまう。もしもこれが終わってしまったら。

 すると、ドアの下の隙間からそろりそろりと枝がやって来た。遠慮がちな柔らかな枝は、ラーレの手元にちょこんとその先を乗せた。まるで原稿を覗いているみたいで可愛らしいけれど、残念ながら枝でものは見られないそうだ。彼は魔力を辿って、目の前に居ないラーレに枝を伸ばす。

 あんなに優しい人木種に、寂しい思いをさせてしまった。ラーレは手の甲に重なる枝を撫でた。


「……ごめんなさい」


 他人に謝りながら生き続けるのは嫌だ。申し訳ないと思いながら生きるのも。でも、このままではきっと、生きている限りラーレは謝り続ける。ヘンリクへの不満はない。不満がないからこそ、謝る言葉以外が思い当たらない。

 ペンを取り、物語を書き進める。インクの香りが鼻を撫でるこの時だけは。ペン先が紙を撫でるこの時だけは。この時だけは、誰にも謝らなくていい。申し訳ないと思わなくていい。紙の上に死者の姿を残す今だけは、自分が自分であると思い出せる。穏やかなルスヴァルトの生活の中で、この時だけは。



 ――あれは十五歳の頃。文句の一つも言いたくなるほどの晴天の日、ラーレの両親の葬儀が営まれた。参列者の中で、二人を送り出す家族はラーレだけ。堪えていた涙は、二人の棺が並んで土の中に埋まった時、堰を切ったように溢れ出した。声が出ないように奥歯を噛み締め、ラーレは静かに肩を震わせる。

 それでも、彼女の涙は参列客の目に触れた。彼らは一緒になってハンカチを涙で濡らしながら、口々に噂話に興じていた。そんな言葉はなぜだかやけにラーレの耳に大きく届き、頭の中に響いて行く。


「可哀想ねえ……。泣くとますます子どもみたいで不憫よ」

「娘さん、物語屋なんでしょう? 流石に、ご両親の物語は他の物語屋が書いたそうだけれど」

「本当に一人でやっていくのかしら。大人しくどこかへ嫁入りでもしたらいいのに」

「まあ、仕事はジョンブルックさんが工面してくれるんでしょ」

「ああ、あの本屋さんの。ご両親とお友達だったんですって?」

「子どもはいいわねえ。うちの旦那にも仕事を回して欲しいわ」


 人前で泣くと可哀想だと言われた。幼い子どもだと言われた。一人でやって行けるわけがないと言われた。だからラーレは人前で泣くのを止める。これからは、意地でも一人で生きて行かねばならない。


 決意を込めて天を睨む。頭上には、無言の便箋のように雲一つない青空が広がっていた。――

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