5.気の毒な物語屋

「……移動図書館? うん、……知ってるよ?」

「今日、来るんですよね? 行ってみてもいいですか?」

「……うん。いいけれどー……。移動図書館で何をするの?」

「何って……本を読むんです」

「……そっか。うん、わかった」


 ラーレは、移動図書館が広場にやって来る日を指折り数えて待っていた。一人だけで行こうと思っていたがヘンリクも着いて来ることになり、二人は初めて連れ立って広場へ向かった。なぜか今まで、ラーレとヘンリクは二人揃って外出したことがなかった。

 それが途方もない身長差のせいだと気付いたのは、歩き始めてすぐのことだ。歩幅がまるで違う。ラーレは小走りしないとヘンリクに追いつけないし、ヘンリクは足元からラーレに話しかけられても聞き取れない。ヘンリクの歩幅は人人種のそれとは比べ物にならないし、彼の耳元ではラーレより先に風がお喋りしている。

 ヘンリクは枝でラーレを抱えて歩こうとしてくれたが、今度こそ丁重に断った。そんなところを誰かに見られたら、“甘えん坊で何も出来ないお嬢さん”だと笑われてしまう。もしここがコーブルクなら、ラーレには物語屋という仕事があった。街中を自分の足で歩き、新しい本だって好きなだけ読めた。それなのに。


 二人は黙って広場まで歩いて、馬と荷台が停まっているのを見つけた。それが移動図書館とわかるや否や、ラーレは一人で駆け出す。荷台に群がる子どもたちの中に、何の躊躇いもなく加わった。

 そうして気付く。


「……あれ?」


 荷台に並んでいる本は、どれもこれも全部、子ども向けの絵本だった。周りを見渡せば、荷台の踏み台に乗っているのは子どもばかり。大人はそれを遠巻きに眺めているか、そもそもここにはもう居ない。

 ラーレの向かいに居た人狐種じんこしゅの子どもが声を上げた。視線はラーレなど居ないかのように彼女を突き抜ける。


「あ! ヘンリクだ!」

「ヘンリクだ!」

「ヘンリク! ヘンリク!」


 子どもたちは囃し立てるように彼の名を呼び、中には踏み台から飛び降りてヘンリクに向かって駆け出す者も居た。あっという間にヘンリクの足元には子どもの団子が出来上がり、彼は枝を伸ばして子どもたちの頭をそっと撫でる。ヘンリクがその場に座り込むと、待ってましたとばかりに子どもたちが声を上げる。


「ヘンリク、何しに来たの? 買い物? お散歩?」

「お話は? お話してくれる?」

「これ読んでヘンリク! エメラルドの王子様の話!」


 子ども団子の中に埋もれて行くヘンリクを、ラーレは荷台のそばで眺めている。すると、子どもの保護者らしき人石種じんせきしゅの男性が団子のそばにやって来て、ヘンリクから一人ずつ子どもを引き剥がして行った。


「こらこら、順番順番! やあ、ヘンリク。この前は、手すりの件ありがとう。助かったよ」

「……こんにちは。ちゃんと使えてるなら、……よかったです」

「そうだ、隣の奥さんが困ってるって言ってたな……。あ、居た居た。おーい! ヘンリクが来たぞ! 今朝言ってたあれ、頼んでみたらどうだ!」


 人石種の大声に、人花種じんかしゅの女性が大きく手を振った。近づいて来た彼女の顔は、睫毛が花びらで出来ていた。瞬きする度、紫を帯びた長い白の花びらがぱちぱちと揺れる。彼女をきっかけに、今度は大人たちまでヘンリクを取り囲み始めた。

 おかげで、移動図書館に群がる子どもはまばらになった。ラーレは荷台に並ぶ絵本を目で舐めるように凝視する。見覚えのある背表紙がいくつもこちらを向いていた。

 懐かしい。でも、今縋りたい本は違う。ページいっぱいにぎっしりと文字が詰め込まれた、ラーレの本棚にないまだ見ぬ世界へ連れ出してくれる本。活字で作った繭の中、現実を遠ざけてくれる本。

 ラーレは奥歯を噛み締める。背中に響く子どもの声、大人の声が喧しい。この村はどうしてこんなにうるさいんだろう。朝から晩まで何かの音でいっぱいだ。


「お姉さん、見かけない顔ですね」


 目尻に湧いた熱が溢れる寸前、声が聞こえてラーレは顔を上げた。声の主は人人種の男性で、子ども用の踏み台に腰かけ、足元には革のブーツを履いている。彼は馬に荷台を運ばせて来た御者、移動図書館の職員だと言った。


「私、一か月前くらいにこの村に来たんです。前はコーブルクに居ました」

「へえ……。そんな都会からここへ? 随分と思い切りましたね」

「体調が悪化して、街で暮らせなくなっちゃったんです」

「なるほど。そういう事情なら、ルスヴァルトは最高でしょうね。ここは空気が綺麗だ」


 すんなりと職員は納得したようで、ラーレが背を向けた方角をぼんやりと眺めている。子ども団子か大人の群れか。その中心に居るヘンリクは、今何をしているだろう。ラーレは思いが溢れそうなのを堪えて口を開いた。


「あの、移動図書館には絵本しかないんですか? 大人向けの小説とか評論文なんかは」

「ああー……。考えたことなかったな。移動図書館って、託児所みたいなモンですからね」

「た、託児所?」

「はい。田舎の大人は本なんか読んじゃ居られないんですよ、忙しいんで。薪割って、店開いて、掃除して、家の周りの草を抜いて、料理を作って……。だからここへ子どもを預けて、その間に仕事を済ませるわけです」


 ラーレはハッとする。ヘンリクが不思議そうにしていたのは。彼が言った「移動図書館で何をするの?」は、つまりはこういうことだった。


「大人は移動図書館で本なんか読まない」

「仰る通り。いやあ、お姉さんが走って来た時はびっくりしましたよ。近所のおちびさんに絵本を読んでとせがまれたんですか?」

 

 答えたら、全部目元から流れ落ちてしまいそうだった。ラーレは返事が出来ないまま、荷台から身を離す。子ども団子の喧騒の真ん中から、静かな声がそっと聞こえる。


「……『これは、ついさっき起きた出来事です』……『ある国に、それはそれは美しいエメラルドの顔をした王子様が居ました』……」


 ヘンリクが絵本を読んでいた。もしかしたら彼は、夜の庭でラーレに言って来たように、子どもを足の上に乗せているかもしれない。枝を伸ばして、何人かを抱き上げているかもしれない。でも、何も見たくなかった。こっそり帰ってしまおうと思ったのに。


「あらあ! ラーレじゃない。元気?」

「あっ……。こ、こんにちは、ゾルデさん」


 人熊種の奥さんの大きな声が響き、彼女は立ち去ろうとしていたラーレに笑顔で手を振った。彼女も子どもを移動図書館に連れて来たらしく、足元にはよく似た熊の顔が二つと、人の顔が一つ並ぶ。近寄って来たゾルデは、あからさまな疑問符を顔に浮かべていた。


「ラーレ、移動図書館に来たの?」

「あ、はい……。どういうものか見てみたくて」

「そうだったのね。期待外れだったでしょう」


 そんな会話は職員の耳に届いたらしく、彼は「手厳しいなあ」なんてこちらに苦笑いを浮かべている。するとゾルデは手を横に振って、「違う違う」と言い返した。


「だってこの子、コーブルクの物語屋よ? こんな田舎で腐らせちゃ勿体ないわ」

「でも奥さん、物語屋は都会の仕事ですよ。ここじゃあ、お互いのことはみんな嫌と言うほど知ってるんですから。物語屋なんかいりませんって」

「気の毒だと思うなら、あなた、ちょっと何か仕事を回してあげて頂戴な」

「はいはい。期待せずに待ってて下さいよ」


 ゾルデは子どもたちを解き放ち、ラーレに「それじゃあね」と手を振って去ってしまった。田舎の大人は忙しい。彼女は今日も野イチゴを摘んだり、物を売ったり、薪を集めたりして過ごすのだろう。それで満たされる彼女が羨ましい。いや、満たされなかったとしても、その生活を当たり前だと思えることが。

 顔に影が落ちて来た。心の中の影が外に溢れ出して来たのかと思うほどに。でも、それはすぐそばにヘンリクが現れたせいで出来た、太陽の影だった。彼は絵本を手に持ち子どもたちを周りにくっつけたまま、ラーレのそばに立っていた。腕に伸びて来た枝は、なぜか、どこへ帰ればいいのかわからない迷子のように見えた。


「ど……どうしたんですか? ヘンリクさん」

「……もう、本はいいの?」

「あ、は、はい! 急ぎの仕事があるので」


 嘘だ。本当に急ぎの物語は、泣く泣くコーブルクに置いて来た。今ラーレの手元にあるのは、比較的余裕がある日程のものか、すぐに仕上がる原稿ばかり。大体、こんな嘘をついたところでヘンリクには気付かれてしまうだろう。ここに来たいと言ったのは、他でもなくラーレなのだから。


「……そっか。……この後、メッケンさんちのテーブルと屋根を直しに……行くことになったんだけど、一緒に……」

「気を付けて行って来てくださいね。私は一人で大丈夫ですから!」


 するりと枝を腕から離し、ラーレは広場から逃げ出した。逃げ出すみたいに駆け出した、なんて生ぬるい。逃げたい、逃げたい。ここから逃げてしまいたい。そう思いながら必死に走る。

 一人で大丈夫、私は一人で大丈夫。

 逃げ場でもなんでもないヘンリクとラーレの家に飛び込んで、ヘンリクが作ったドアを開けベッドに飛び込んだ。急に喉が痛くなり、目元が熱く燃え上がる。痛い、熱い。苦しい。ラーレは大声を上げながら泣いていた。枕に涙と声が吸い込まれ、窓の外では小鳥が鳴いた。それはそれは綺麗な透き通った声で、青空を祝うように鳴いていた。


 ラーレは絶対に、誰の前でも泣かない。一瞬でも涙を見せたら言われてしまう。可哀想な子ども、一人で生きられない子ども。泣かなくたって言われる。気の毒な物語屋。

 だから枕から顔を上げ、彼女は机の上に置かれたペンを握り締める。

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