10-2.鍵を探して

 ラーレの喉から飛び出した声に驚く様子もなく、ヴァレオは相変わらず組んだ上の方の足をゆらゆら揺らしていた。ここがもし彼の診療所だったなら、今すぐにミルクパンで紅茶でも淹れ始めそうな様子だ。


「だってアナタ、コーブルクに未練たらたらだったじゃありませんか。ボク、覚えてますよ? 最初にこの村へ向かう馬車の中で、アナタ、熱にうなされながら『今週の読書会が』だの『美術館の展示がもうすぐ終わっちゃう』だのずっと話してたんですから」

「そうだったんだ……」

「なのに、今じゃすっかりルスヴァルトに根を張ってる! なんですか、これ。体調の回復は火を見るよりも明らかですけど、それ以上に重心が下がって落ち着きましたよね」

「重心?」


 ヴァレオはミルクパンを縦に振ると話を続けた。


「アナタの変化は興味深いですよ。コーブルクでのアナタは、ずっと重心が高い所にあってフラフラしてました。ああ、熱で朦朧としてたのとは違う意味合いで。そこら中を駆け回っているくせに、どこにもアナタは居ないような。両足で必死に地面にしがみついてるのに、風が吹けばあっさり転がる。上部に砂が詰まってもがいてる砂時計そっくりでした」

「……じゃあ、今は違うんですか?」


 大袈裟に両手を宙に挙げ、ミルクパンは高らかに言った。さっきからこの相談室は彼の劇場だ。役者と客の一対一、人生が芝居というのは言い得て妙だ。


「そうですよ! ボク、さっきドアを開けてヘンリクの隣に居るアナタを見た時、もう帰ろうかなと思ったくらいです。重心が下がって、ちゃんとここに立っている。診察なんかしなくても、疑うことなく心身共に医者要らず!」

「そ、そんなに……?」

「ええ。アナタにとって、コーブルクは唯一の世界だったはずです。でも、もう違う。アナタはコーブルクのことを覚えていて、その上でここに根を張った。アナタの世界は広がった。今じゃ、よく馴染んだ靴を履いてルスヴァルトで呑気に散歩してるじゃないですか」


 ヴァレオはミルクパンを外すと、取っ手を手にして底を反対の手のひらで撫でた。人人種に置き換えると、これはどんな仕草なんだろう。顎に手を置くとか、頬に手を置くとか? でも表情も目線も顔色もない彼のことは、いまだにラーレにはわからない。


「だから確かめたくなったんです。もしボクが昔の顔を覚えていたら、世界はどう見えたんだろう。世界はどう変わったんだろうってね!」


 ラーレは呆気に取られてしばらく黙ったままヴァレオを見ていた。彼が自分の膝に四回ミルクパンの底を当てるのも。次第にヴァレオが気まずそうに肩を竦め、ラーレの顔の前で手をヒラヒラ揺らしてようやく、ハッと我に返る。


「もしもし? どうしました?」

「何と言うか、その……。ヴァレオさんも、人に影響を受けることがあるんですね」

「アナタねェ、ボクを何だと思ってるんです? ボクは人鉄種のガラクタですけど、鉄屑じゃありません。血がかよってます。ただ、何をどう記録したらいいかわからないだけで」


 昔の自分の顔を覚えていない男。たった一言しか書き残さない男。珍しい症例が大好きで、患者のことなど二の次の医者。


「……それでは、今ヴァレオさんが仰った“顔を詳しく書き残したくなった理由”も含めて、記録する内容を固めましょう。次に顔を作り替えた時、万が一今考えていることまで忘れてしまったら、二十六歳のあなたがきっと怒り出しますから」

「ああ! そうでしょうねきっと! いきなり記録の粒度が変わり過ぎだって、この手帳をビリビリに破くかもしれません」


 ヴァレオはラーレの手元から手帳を引き抜いた。まるで最初から何も持ち出していないとでも言いたげな雰囲気で、彼は手のひらを揺らす。ラーレは瞼の裏にくっついたままの彼の走り書きの記憶に、ふと思いを馳せる。


「……ヘンリクさんは、スプーンの時のヴァレオさんを知ってるんですね」

「ええ。イヤになっちゃいますよ、他人ばっかりボクの昔の顔を覚えてるなんて」


 本当に彼は、自分の顔だけを綺麗さっぱり忘れてしまうらしい。自分の歴代の顔を得意気に語る肉屋のバステオとはまるで違う。ヘンリクとの初対面のことは覚えているのに、スプーンだった自分を誇りたくても誇れない。


「当時の顔のことを、ヘンリクさんに聞いてみてもいいですか?」

「彼になら、本件について好きに情報共有して構いませんよ。ヘンリクはアナタよりボクに詳しいですから。でも、昔の顔のことなんか聞いてどうするんです?」

「聞いてみないことには何とも。でも、ヘンリクさんが覚えているヴァレオさんの様子から、今回の記録で何を残すのか判断する鍵が見つかるかもしれないので」

「そうですか。それじゃあお願いしますよ、代筆屋さん!」


 ヴァレオは景気よく両手を叩いた。窓の外が飛んで行かないのが不思議なくらい、大きな音を立てて。




『二十三歳からの顔:ミルクパン

 容量は一リットル、全長三十センチ。

 色は艶々した黒で、毎日手入れしているおかげで目立った傷や汚れはない。薬を調合する、ミルクを温める、水を入れる、紅茶を作るといった場面で、容量が十分あるので使い勝手がいい』


 ラーレは相談室の作業机の席で大きく伸びをした。あれこれと話をしてみたが、ヴァレオが残したいと考えていた今の顔についての情報はそれほど多くなかった。彼が挙げた要素に沿って書いた文章は、随分と簡素なものだ。後は、彼が今回代筆屋を雇ってまで記録を残した理由を書き上げればいいのだが。今のところの内容なら、ヴァレオだけでも書けただろう。

 彼が意識していない大切な何かを書き残したい。紙の上に浮かび上がった瞬間に、ああ本当はこれを探していたんだと思えるような、何かを。


 ドアがノックされて、ヘンリクが紅茶を運んで来てくれた。もう寝るのかと思ったけれど、木のカップを二つ持っていたから、彼もまだ起きているつもりらしい。


「……どうぞ」

「ありがとうございます」


 最初、ヘンリクは庭に代筆屋専用の小屋を建てようしてくれた。だけどラーレはそれを断り、自分の部屋を代筆屋の相談室にして、彼と部屋を共有させてほしいと頼んだ。以来二人は大きさの違うベッドを並べ、柔い枝と小指を繋いで眠っている。おかげで、ラーレはもう苦しい夢を見なくなった。


「……ヴァレオの仕事?」

「はい。ちょっと行き詰ってて……」


 数時間前までヴァレオが腰かけていた椅子に、背の高い人木種が座っている。明らかに椅子とヘンリクの足の長さはちぐはぐで、彼の姿勢は床にしゃがんでいるのと大して変わらない。それでも、ヘンリクはまだここに居る心積もりらしい。それならばと、ラーレはヘンリクに話を聞くことにした。


「ヘンリクさんとヴァレオさんって、三年前に初めて会ったんですよね? まだ、ヴァレオさんがスプーンの顔だった頃に」

「……そうだよ」

「その時のこと、教えてもらえませんか?」

「……ヴァレオ、忘れちゃったの?」


 ヘンリクはヴァレオの体質のことを知っていたらしい。たったそれだけで、ヘンリクがヴァレオお墨付きの協力者であることに納得が行った。彼に隠し立ては不要だ。ラーレは素直に口を開く。


「いえ、その時の記憶はあるんです。ただ、ヴァレオさんがわざわざ口にしない無意識の中に、書き残すべき大事なことが隠れているかもしれないと思って」


 そうして、ラーレは書き途中の“顔の記録”をヘンリクに見せた。枝を伸ばして手帳を引き寄せたヘンリクは、しばらくじっとラーレが書いた文章を見つめている。読むのがのんびりしているのか思案しているのか、ラーレにはわからない。

 ただ、ヘンリクはふと顔を上げると、ほんのりと困ったような表情を浮かべた。


「……僕が覚えてることに意味があるかは、……わからないけど。……でも、話してみる」

「ありがとうございます。私、ヘンリクさんのお話聞くの好きなんで、嬉しいです」


 ヘンリクの蕩ける目元が微笑んだ。彼は自覚していないようだけれど、ヘンリクが物語を語る声は陽だまりみたいに暖かく心地いい。移動図書館で子どもたちがお話や読み聞かせを強請ったのも、今のラーレにはよくわかる。次に移動図書館が来たなら、ラーレは子どもたちに混ざってヘンリクの読み聞かせに耳を傾けるだろう。

 こうして、二人きりのお話会が幕を開けた。

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