第4章 類まれなる理想的な

10-1.頼みごと

「へえー! なかなかトンチキなことを始めたじゃありませんかァ!」

「トンチキ? そんなことないですよ。ちゃんと皆さんのお役に立ってます」

「そうですかそうですか! 面白い客は来ました? 宣伝に使える範囲で教えて下さいよ、診療所で盛大に吹聴しますから」


 ミルクパンは体温計を眺めている。移住しておよそ半年が経ったので、医者はラーレの経過を検診しにルスヴァルトにやって来た。

 ヴァレオはリビングで、彼女の血圧やら心拍数やらを調べている真っ最中だ。それを落ち着かない様子で窺っているのは、庭で木を削っているヘンリク。椅子作りの真っ最中なのに、ヴァレオがラーレに何をしているのかが心配らしく、手元はすっかり止まっている。


「遠くからいらした学校の先生の通知簿作りのお手伝いをしましたよ」

「へえ、通知簿! 手紙以外も代筆するんですねェ」

「はい。子どもの評価をずけずけ書きすぎたせいで、校長先生に見せたら叱られたそうです」

「ふうん。正直に言ってやった方が、子どものためになりそうなのに」


 ヴァレオは納得行かないといった調子で、カルテに数値を書き込んでいる。彼にとってカルテと通知簿は大差ないのだろう。具合の悪い箇所を記録して、どうやって対処したかを書き残す。彼らの世界で必要なのは、気遣いよりもわかりやすさだ。


「でも、工夫すれば前向きな言い方が出来ますよ。通知簿を読んだ子どもが、ちょっとだけ頑張ろうと思えることが大事ですから」

「あらまー、人相手の商売ってのは大変なんですねェ」

「ヴァレオさんだって、人相手の商売ですよ?」

「ああ、そうでしたそうでした!」


 医者はラーレの口を開かせて、舌の色を確かめる。それから摂取した唾液を何かの薬液が入った小瓶に落として、瓶をよく振ってテーブルの上に置いた。


「アナタはなんでも代筆するんですね?」

「もちろん。言葉に関するお悩みであればなんでもご一緒しますよ。ラブレターやお別れの手紙、通知簿、結婚相談所用の経歴文……」


 小瓶の中で、静かに薬液が青色に染まって行った。それが何を意味するのか、ラーレにはまだわからない。でも、多分悪い報せではないだろう。ヴァレオの指先が、つまらなそうに小瓶の縁を撫でたから。


「それじゃあ、一つ頼みごとをしてみましょうか」

「頼みごと?」

「アナタはなんでも代筆屋。普通のことを素敵に、素敵なことをもっと素敵に書くんでしょう?」


 妙な物言いにラーレが眉をひそめると、ヴァレオは小瓶を摘まみ上げ、診療鞄の中に放り込んでから続けた。


「ご存じないかもしれませんけど、ボクが世界で一番苦手なことですよ、それ」


 カンカンと、ヴァレオが指の関節でミルクパンを叩く音が響く。二人が、医者と患者から別のものになったと告げる鐘の音のように。予想だにしない来客に、ラーレはぽかんと目を丸くする。それから目の前の悩める客に向かって、満面の笑みを浮かべる。


「ご相談、ありがとうございます! どうぞこちらへ!」


 ぴょんと椅子から降りて、ラーレはヴァレオに手招きした。かつてラーレのためにヘンリクが壁から作ってくれた部屋。今ではそこが、真新しい代筆屋の相談室だ。

 では、ラーレの背丈に合わせたベッドは、箪笥は、本棚は、一体どこへ行ったのか? その答えは一組の夫婦だけが知っている。ヘンリクの部屋、大きなヘンリク用の家具と一緒に、ラーレの家具たちが並んでいる。二人みたいに寄り添って。


 相談室には、作業机と座り心地のいい椅子が二つ置かれている。窓は以前より大きくなり、日当たりが更によくなった。ここはラーレの職場であると同時に、ヘンリクの仕事を披露する場でもある。実際、ラーレの顧客からヘンリクに家具作りや改築の依頼が舞い込むことも少なくない。

 ヴァレオは椅子に腰かけて、組んだ上の足をぶらぶら揺らしていた。


「早速ですけど、ボクの顔について書いてもらえますか?」

「顔? そのミルクパンのことですか?」

「ええ、そうですよ」


 ラーレがこの医者に出会ったのは、ある季節の狭間に室内で倒れているのを発見された日のことだった。その時担ぎ込まれたのがヴァレオの診療所で、以来ずっとヴァレオはラーレの体質の謎を解こうと楽しそうにしていた。最悪の医者に巡り合ったと思っていたが、結果としてラーレは今に至る。


「アナタに言ったことありました? ボク、前にどんな顔をしていたのか覚えてないって」

「はい、聞いたことあります」

「あれって、別に人鉄種の特徴じゃないんです。ご存知でした?」


 ヴァレオは手をひらひらさせる。診察の仕草にもよく似ていた。これではどちらが客かわからない。まるで彼の診察を受けている気分だ。それだけで、ラーレはかつての高炉のことを思い出してしまう。曖昧な記憶の中で、赤く燃える嫌な熱の塊。


「金属成分の劣化を防ぐために、人鉄種は定期的に、顔を作り替えるんです。子どものうちは五年から七年おき、それが次第に三年おきになり、一年おきになり……。まあ、そういう生き物なんです。ボクたちは」

「それで、前の顔を忘れてしまうのが、人鉄種の特徴じゃないっていうのは」

「ボクの厄介な体質なんです。体質。アナタと同じで、ボクも稀有な体質の持ち主です」


 医者の人差し指が、ラーレとヴァレオを指して何度か揺れた。彼は諦めたように両肩を竦める。


「だからボクは、珍しい体質の患者を診るのが大好きなんですよ。いいじゃありませんか、そういうの。形の違う色んなガラクタを集めて並べる遊びは、いくつになっても楽しいものです」

「ガラクタ?」

「あー……。細かいことはいいですから。本当に、アナタ方のこだわりって不思議ですね」


 ガラクタ。

 もし何も知らなければ、ラーレは自分を蔑まれたと思っただろう。しかし今のヴァレオはそうではない。彼は他でもない自分のことを、ガラクタと呼んだ。

 知りたい。ラーレは思う。このミルクパン頭の男のことを、もっと知りたい。


「いくらボクが前の顔を忘れるとは言っても、顔を作り替えないわけにはいきませんから。もうすぐその時期が来るんです」

「前の顔を忘れると、他のことも思い出せなくなるんですか?」

「幸いなことに、忘れるのは自分の顔についての記憶だけです。精神科にもかかってみたんですが、診断結果は同じでした。ちなみに、金属成分の配合は昔から変わっていないそうです」


 ミルクパンは、もう一度自分の顔を指の関節でカンカンと叩いた。何かの始まりを告げるようで、終わりを知る鐘の音。


「で、物心ついた時からボクは、顔を作り替える前にその時の顔についてメモを残しておいたんです。ほら、せっかくなら毎回違う形を試したいでしょう? ただ、そのメモがまあわかりやすくてわかりにくい」


 呆れ声で言いながら、ヴァレオはジャケットの胸ポケットから縦長の小さな手帳を取り出した。表紙にはただ一言“顔の記録”と書かれている。

 

「ボクがこれまでに顔を作ったのは、十歳、十七歳、二十歳、二十三歳。今が二十五歳で、二十六歳になったら作り替えます」

「十歳の時から書き残してたんですか?」

「実際に書き始めたのは十一の時です。それまでボクは、前の顔を忘れるのは当たり前だと思っていたので」


 何の躊躇いもなく、ヴァレオはラーレに手帳を差し出した。好きに見ろとでも言いたげに、ミルクパンの顎をしゃくる。開かれたページには、カルテに書きなぐるよりは多少読みやすい文字が流れている。


『十歳からの顔:焼き網

 十七歳からの顔:おたま

 二十歳からの顔:スプーン(特大)

 二十三歳からの顔:ミルクパン』


 どうやら、十一歳のヴァレオが書いたのを真似して、十七歳のヴァレオは記録を残したらしい。そうして、二十歳の彼も二十三歳の彼もそれに倣う。インクの色褪せ方と文字の書き方で、この愛想のない文字列が時間をかけて紡がれて来たことがわかる。

 ラーレが手帳から顔を上げると、記録の主は肩を竦めて呆れたように両手をひらひらさせた。思わずラーレは呟く。


「わかりやすくてわかりにくい……」

「まあ、これ以上何を書くんだって話ですけれどね。金属成分の配合は変わらないので、色は今と同じなんでしょう。でも、どうしてその形にしただとか、自分でその顔を気に入っていたかとか、ボクしか知らないことが何も書いてない! 過去のボクの筆不精ぶりが憎たらしい!」


 だけど、この書き方はラーレが知る限り極めてヴァレオらしかった。むしろ、それ以外のことをまめまめしく彼が書き残している姿は想像が出来ない。この人鉄種は、そういう男だと思っていた。少なくとも、ついさっきまでは。


「ヴァレオさん、どうして今回は今の顔を記録したいんですか?」

「アナタを見ていて興味が湧いたんです」

「ええっ! きょっ、興味?」

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