9-2.二人で居るのは

 夕食の時間になって、ヘンリクが山積みの豆と根菜の煮物をテーブルに並べてくれた。ラーレはパンを温め、それぞれの席に置かれた皿に乗せる。食事に使うのはもちろん、ヘンリクの手作りの木皿。なんとなく大きい方の皿を、いつもヘンリクはラーレの席に置く。彼の中で、ラーレは今でも小さな食いしん坊だ。

 ラーレが席に着くと、ヘンリクはもじもじと作業台の辺りに立ったまま口を開いた。


「……ラーレさんの仕事って、……とても綺麗な仕事だね」

「綺麗?」

「……うん。綺麗だよ」

「この家みたいに、綺麗ですか?」

「……そうだね」


 ヘンリクの笑顔は、ふにゃりと溶ける樹液に似ていた。「どうしたんですか?」とラーレが首を傾げると、細長い体は彼女の隣にやって来てしゃがみ込む。小さな小さなラーレを、静かな視線がそっと撫でた。


「……返事、してない」

「返事?」

「……ラーレさん、倉庫で僕に言ってくれたでしょ? ……僕のことが、好きだって」

「あ……は、はい」


 だいぶ昔のことみたいに思えたけれど、あれは今日の出来事だ。ビイノの記憶の向こうから、倉庫の景色が急に顔を覗かせる。淡い少年少女の恋とは違う。この気持ちの名前はわからない。それでもラーレは、顔に熱が滲むのに気付いた。


「わ、私が、突然そう思っただけですよっ! 別に、返事が聞きたいとか、そういうのじゃ……」

「……でも、返事がしたくなったから。……ご飯の前に、してもいい?」

「い、あ、は、はい……」

「……じゃあ、目、閉じて」


 突然のことに驚きながら、それでもラーレは目を閉じた。ヘンリクが考えていることはわからない。それは顔が見えていようが暗闇の中だろうが変わらない。だからいいやと思って、瞼の色も透けない暗闇の中でじっとする。


「……ヘンリクさん?」


 何の動きもない黒に呼び掛ける。すると、沈黙の空気が誰にも気付かれないように動き、わずかな体温がラーレの周りに広がった。木の香り、花の香り。森に包み込まれる穏やかなぬくもり。

 ヘンリクの手だ。腕だ。彼は今、初めてラーレに自分の手で触れた。その気になれば、ラーレの頭なんて簡単に片手で潰せてしまう人木種。彼はそれでも、ラーレを抱き締めた。


「……目を閉じてれば、怖くない?」

「い……嫌です、ヘンリクさん。こんなのやだ」

「……ごめん。離れるね」

「違います! 見せて、私にも見せてよ!」


 大声に驚いたのか、ヘンリクはびくりと肩を跳ねさせラーレから離れた。二人の視線は交わっている。しっかりと逸れることなく、ラーレは目を見開いた。自分の視界が全部人木種の男に埋め尽くされる。彼の顔に、瞳に、鼻筋に。


「ちゃんと見せて、ちゃんと見て。目を合わせて、抱き締めて下さい。そうじゃなきゃやだ、寂しいよ!」

「……でも、怖いでしょ?」

「怖くない! 怖くないです! だからほら、ちゃんとして!」


 ラーレは両腕を広げた。目頭がなぜか熱くなる。高炉はどこにもないのに勝手に燃える。目尻がヒリヒリ痛んでいる。大きな人木種が、恐れていた小さな人人種を抱き締めてくれた。怖がる理由はもう、どこにもない。


「私は一人じゃ生きられないんです! ヘンリクさんが居なかったら、心も体も死んじゃうの!」


 大きな手が背中に回る。指先がそっとラーレの頭を撫でて、すぐそばに近づいて来る茶色の瞳は鏡みたいに澄んでいた。


「……ラーレさん、ごめんね。ありがとう」

「いいんです、もう怖くないから。ヘンリクさんも、怖がらないで」

「……だけど、……こういう時は、目を閉じるものでしょ?」


 風が起きるように、眼前の瞼が下りる。ラーレもつられて目を閉じると、唇にほんのりと柔らかな熱が重なった。一組の夫婦にとって、初めての。

 どんな種族でも変わらない。唇はぽかぽかと温まり、柔らかな体に鼓動が響く。体中を巡る魔力が二人を生かし、そばに居るだけで確かめ合える。ラーレの魔力がヘンリクを生かし、ヘンリクが居るからラーレは生きる。

 永遠のような一瞬が通り過ぎて、二人は重なる唇を離し目を開ける。ラーレの視界は歪んでいた。熱がぼろりと頬を伝うと、それを追いかけるヘンリクの口付けが頬に落ちる。

 ラーレは泣いていた。あまりの衝撃に、急に呼吸がひっくり返る。喉の奥が塩辛い。


「……ラーレさん、やっぱり……怖かった?」

「違います、私……私、嬉しくて。でも、人前で泣くなんて、みっともないから、こんな」

「……生きてることは、みっともなくないよ」


 もう一度、ヘンリクは両手でラーレを抱き寄せる。空気を抱くように長い腕は余っているし、力はちっとも入っていない。ラーレは彼を抱き返す。どれだけ力を入れたって、多分気持ちは伝えきれない。

 それでもいいと、ラーレは思った。今までの全てが涙に変わる。両親を亡くした寂しさ、物語屋としての誇り、泣くのを堪えていた虚勢、一人で大丈夫だと信じていた傲慢、全てが崩れ落ちた絶望。だけど涙の中に、いつまでも輝く星空が見えた。

 どれだけ泣いても、もう大丈夫。


「……好きだよ、ラーレさん。僕の大事なお嫁さん。いっぱい書いて、誰かを幸せにして。……それで、僕のそばでいっぱい泣いて、いっぱい食べて、……いっぱい、笑って」


 ああ、だから私たちは二人で居るんだ。

 暖かなヘンリクの腕の中で、ラーレは溢れる涙と一緒になって頷いた。




***




 散々悩んで、ラーレは看板に書き込む言葉を決めた。それをヘンリクに伝えれば、彼は「綺麗だね」と小さく微笑む。ラーレの魔力を込めたペンキが、ヘンリクが形を整えた木の看板に言葉を紡ぐ。


『ラーレのなんでも代筆屋

 普通のことを素敵に、素敵なことをもっと素敵に書きます』


 野暮ったいのは仕方ない。だけど格好付けても歯が浮くようだ。ドアの上に掲げた看板を見上げると、青空に乗ってペンキの香りが鼻を撫でた。

 今までずっと、ラーレは死者の物語を書いて来た。彼らの物語は過去にある。全てが始まり、もう終わった。多分これからも、ラーレは死者の物語を書くことがあるだろう。やがて終わる命の声を、その家族の声を聞きながら。過去に思いを馳せるだろう。

 それでもラーレのペン先は、ほんの少しだけ違う方へ向かって進み出す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る