9-1.はじめての言葉
コーブルクからの手紙が届いたのは、ジョンブルックが訪ねて来てから一週間と少しが過ぎた頃だった。
『注文書
ラーレ殿、ジョンブルック書店より
・木のカップ 三十個
・手紙の代筆業の紹介カード いくらでも
上記、納品お願いいたします。
追伸:
先日は突然お邪魔したにもかかわらず、わたしからの申し出を快く引き受けてくれてどうもありがとう。木のカップの売れ行きは極めて順調! 順調を通り越し、品切れでお客さんが泣いているよ。だから今回の納品分も、きっとすぐに売れてしまうだろう。(手紙の代筆業にも興味を持つ人が多いようだね。)
それと、君が手掛けた死者の物語は遺族の手に無事に渡ったよ。本屋での売れ行きはこちらも好調。今も昔も、本屋でも手に取ってくれる人が多いのは君が書いた物語だ。
もしかしたら君は、“今ここにある物語”を書くのが好きなのかもしれないね? 納品された死者の物語の出来が悪かったわけじゃない。ルスヴァルトでの君の顔を見て思ったことだ。体調を加味しても、ルスヴァルトでの君はとても輝いて見えたよ。子どもの頃から君を知っているわたしがそう言うのだから、信じてくれてもいいんじゃないかな?
それでは、これからもどうぞお幸せに。そしてこれからも、どうぞよろしく』
コーブルクの都会っ子たちにとって、森での暮らしはおとぎ話と同じだ。だから彼らはこぞって木のカップを買い求め、ひとときのおとぎ話に心を弾ませる。ラーレは街の人たちが飽きっぽいのを知っていたから、追加注文は寝耳に水の嬉しい誤算だった。
有難いことに、倉庫に置かれた木のカップはみるみるうちに減っていく。二人は倉庫で三十個の木のカップを見繕い、ジョンブルックに送るための箱に詰めていた。
「……ラーレさんのおかげ。ありがとう」
「ううん。ヘンリクさんが、私に星のお砂糖の話をしてくれたからですよ。……別に、売り物にしたいから言うんじゃありません。私、ヘンリクさんのお話聞くのが好きなんです。林檎の赤ちゃんの話も、星のお砂糖の話も。だからこれからも、いっぱいお話聞かせて下さい」
「……うん。……ラーレさんのお話もね」
しかしラーレには、ヘンリクに語って聞かせるような素敵な話が思い浮かばなかった。だから人の手紙を代筆する。ラーレは嬉々として、手紙の代筆業のカードをカップと一緒に何枚も箱に入れた。
木のカップの梱包がやっと終わった。隙間が出来始めた倉庫を眺めながら、ラーレはヘンリクの足にそっと身を寄せる。すると彼は長い足を折り曲げて、その場にしゃがんでくれた。これでやっと、二人の目の高さは無理のない位置に並ぶ。
ヘンリクは、少しだけ唇を開いたまま黙り込んだ。言葉を選んでいるらしい。彼は口数が多い方ではないけれど、何か言おうとした時にこうして言い淀むのは珍しい。ラーレは彼の言葉をじっと待った。
「……もし、街で暮らせる体になったらー……ラーレさんは、帰りたい?」
彼の薄い茶色の瞳は、なぜか悲しそうな視線をラーレに落とし続ける。ラーレの答えなんて聞かなくても、彼女の気持ちはわかっていると言いたそうに。それならば、下手に取り繕うのは返って彼への裏切りになる。ラーレは素直に答えた。
「それはー……。わかりません。でも私、ヘンリクさんと二人で暮らすのは楽しいんです」
「……一人で居ても、魔力が溜まらない体に……なったとしたら?」
ヘンリクの言葉を聞いて、ラーレは唐突に思い出した。どうして自分がここに居るのか。ラーレの中で喧しく喚いていた高炉を消したのは。森、野イチゴ、優しい人木種。
「そっか……。最初は、私の魔力を吸ってくれるからヘンリクさんと一緒に居ようって話だったんですもんね。忘れてました」
「……忘れてた?」
「だって私、ただヘンリクさんのことが好きだから一緒に……」
自分が人人種で本当によかったと、心の底からラーレは思う。だって人木種だったら、きっと今頃。目の前で膝に顔をうずめるヘンリクみたいに、ラーレの頭でピンク色の花が咲き乱れていたことだろうから。
「あっ! 今のなし、なし! 聞かなかったことにして下さい!」
その時、ドアをノックする音が二人だけの空気に響いた。一緒に聞こえて来たのは少年の声。ドアはいつでも助け舟の訪問を教えてくれる。
「すみませーん! ラーレさんいらっしゃいますかー?」
「あっ! は、はいっ!」
慌てて声がひっくり返る。ラーレは倉庫から立ち去るより前に、ヘンリクの体に腕を回した。全然抱えきれないけれど、一度だけぎゅっと抱き締める。咲いたばかりの花の香りは瑞々しく、ラーレが初めて口にした言葉まで色付くようだ。
「ヘンリクさん、大好きです」
そうして照れ隠しのつもりで、ばたばたと玄関へ向かって走る。ドアの向こうに居たのは、初めて見る人鉄種の少年だった。
「ラーレさんですか?」
「はい、ラーレです。何か御用ですか?」
「初めまして! オレ、ビイノって言います!」
「ビイノさん。初めまして」
少年の顔はピカピカのフライパンだ。ヴァレオと同じ人鉄種だけど、金属成分はヴァレオのそれとはまるで違うものだろう。その眩しい銀色の表面に、きらきらと太陽の光が落ちてはしゃいでいる。彼は落ち着きなく辺りを見渡して、誰にも聞こえないくらい小さな声でこそこそ言う。
「父ちゃんがヘンリクからもらったカード、見ました。手紙を代わりに書いてくれるってほんとですか?」
「はい、出来ますよ」
「俺、お小遣いこれしかないんだけどお願いしたくって」
ポケットから小袋を差し出して、ビイノは真っ直ぐラーレを見つめる。小銭がこすれ合う音がした。中身がいくらかはわからない。
「もちろんお引き受けします。内緒の話ですよね? それなら私の部屋でお話を伺うので、どうぞ」
すると彼は袋とは逆の手のひらをぱっとラーレに突き出した。何かを拒むような、少し芝居じみた堂々とした仕草で。
「オレ、心に決めた女の子が居るんで。だから、その子以外の部屋には行きません」
「わあ……。それは素敵な心がけですね。じゃあ、庭はどうですか? ヘンリクさんはしばらく別のところに居てもらうので」
「あ! もしよかったら、ヘンリクも一緒に!」
「ヘンリクさんも?」
ビイノは大きく頷いて、顔を太陽よりもさらに明るく輝かせた。
「夫婦円満の秘訣を教えて欲しいからです!」
随分とませた男の子だ。ラーレはまだ倉庫でうずくまっている満開のヘンリクに声を掛け、二人で庭へ足を運ぶ。先に待っていたビイノが、両手を上げて「うわあ!」と叫んだ。
「大変だ! ヘンリクの頭、花がいっぱい咲いてる!」
「……花は、咲くよ」
「だってオレ、ヘンリクの頭がこんなんなってるの初めて見たよ! 何があったの? 林檎が生りそうとか?」
「……違うよ。……咲く時が来れば、花は、咲くんだ」
ビイノとヘンリクは前々から交流があるようで、お互いに気を許し合っている気配があった。それでいて、少年はヘンリクの花を見るのが初めてだったらしい。珍しそうにしげしげと、しゃがみ込むヘンリクの頭を眺めては、指先でそっと花に触れる。
ラーレはふと、森の中でゾルデから聞いた話を思い出した。
二十一だってのに、ただの木みたいに静かで花の一つも咲かないんだから。若々しさの欠片もありゃしない……。
そう言えば、マリッサもヘンリクに花が咲いたのを驚いていた。ヘンリクの花を目にしたことがある住民は、きっとラーレが初めてなのだろう。それは嬉しいことなのか悲しいことなのか、ラーレにはわからない。
「へえー……。ヘンリクもちゃんと花が咲くんだなあ! ラーレさんが来てくれてよかったね!」
ビイノの声にヘンリクは黙って頷きながら、また新しい花をいくつか咲かせた。その瞬間まで見られたと、ビイノは嬉しそうに声を上げる。
彼の興奮が落ち着いた頃に、ラーレはビイノに紅茶を出しながら話を切り出した。
「ビイノさん、お手紙の話を聞いてもいいですか?」
「はい! さっき言った心に決めた女の子に、手紙を書きたいんです!」
「素敵ですね。では早速、相手のことや伝えたいことを教えてもらってもいいですか?」
人鉄種はどこから世界を見ているのだろう。どこを見つめ返せば視線が合うんだろう。ラーレは彼らに接する度に思うけれど、接する度に諦める。だからその代わりしっかり目を開く。ビイノが言葉に出来ない気持ちまで、手紙に書き残せるように。
「オレの友達の女の子です。いっつもオレたち、会うとすぐに遊んじゃって全然そんな雰囲気にならないんだけどー……。……オレ、あの子の真っ黒でまん丸な目を見るのが大好きなんです」
あれ? もしかして……?
ラーレの中にあるランタンに、ちり、と明るい光が点る。それは高炉とは違う光で、心が躍る前に世界を照らしてくれる。
「あの子の黄色と黒のくちばしもすっごく綺麗で、真っ白な羽根だってたくさん撫でたくなるのを我慢して、それでー……」
少年はぎゅっと拳を握る。自分を奮い立たせる。ただの恋が決意に変わる。まだ小さなきらめきだったとしても、それはやがて誰かを照らす。
「それで、その子がオレに手紙をくれたんです。だからオレも返事がしたい。もう友達じゃいられないから、恋人になりたい。一緒に滝壺で石拾いして、その後は世界一旨い川魚のソテーを作ってあげたいんです!」
ランタンが一気に点る。心の中にあるたくさんのランタンが!
思わずラーレは、隣に居るヘンリクに抱き着いた。ちっとも腕は回らないけれど、木の香りがする暖かな人木種に身を寄せて、声にならない歓喜の声を上げる。
「すごい! すごいですよ、ヘンリクさん!」
「……どうしたの?」
「おーい、ラーレさん? いきなりいちゃいちゃしないで下さいよー」
「だって! だって!」
ラーレは今、初めて知った。これがジョンブルックが言っていた、今ここにある物語。誰も結末を知らなくて、だけど確かにここにある。誰かの想像の中じゃなく、崇高な過去の中じゃなく、目の前にある。今、ここに。
「ビイノさん! とびっきり素敵な手紙にしましょうね。それでその女の子と、世界で一番綺麗な石を見つけて下さい! 美味しい川魚のソテーも!」
「はい! もちろんです! オレ、マリッサと絶対幸せになります!」
ヘンリクの頭から更に花が溢れ出し、庭にはピンク色の花の香りが漂った。それは甘酸っぱくて少しだけ野イチゴに似ていて、他でもないヘンリクだけの心安らぐ香りだった。
その後、ラーレとヘンリクはビイノから見えるマリッサの姿を何度も眺めた。羽ばたく羽根の色、石を見つけてくちばしに挟んだ時の明るい笑顔、別れ際に時々聞こえる「ちょっとだけ遠回りして帰らない?」と呟く小さな声……。
ビイノが庭を去る頃には、まるでラーレまでマリッサに恋をしているような気持ちになった。手帳に踊るインクの文字からは、ビイノの張りのある声が聞こえて来る。
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