8-2.その理由

 ヘンリクが帰宅したのは、空が夜に染まりきった頃だった。ラーレがキノコと豆のスープを煮込んでいると、遠慮がちにドアが開いた。それから彼は、大きく息を吸い込む。


「……美味しそうな匂い」

「ヘンリクさん、前に好きだって言ってたから作ってみました」

「……ありがとう。……覚えてて、くれ」

「もちろんです。……あ」


 穏やかなヘンリクの語尾をかき消す自分の声を聞いて、ラーレは我に返る。彼ののんびりした話し方に戸惑う自分が居た。コーブルクの人たちによく似た調子のアーベルトと、長い時間話していたせいだろう。

 ヘンリクの方は気にする素振りも見せず、帰宅後の身支度を整え彼なりにいそいそと食卓の準備に合流した。パンを焼き紅茶を淹れ、やっぱりラーレの前に少し大きな皿を置く。向かい合って座る景色を暖かく思えたことに安堵して、ラーレは口を開いた。


「今日、アーベルトさんがいらっしゃいましたよ」

「……ラーレさんのカードを、……この前、渡したんだ」

「ありがとうございます。新しい種類のお仕事だから、わくわくしてます」

「……そっか。よかった」


 パンをスープに浸しながら、ヘンリクの目がとろりと笑う。その穏やかな笑顔を浴びて、ようやくラーレの心はルスヴァルトに戻って来る。彼の静かな空気が心地いい。もしラーレの指先が伸びたなら、今この瞬間にヘンリクの頬に触れていただろう。

 それはラーレの想像のはずだったのに、ヘンリクは本当に頬を撫でられたみたいに微笑んだ。


「……僕、初めてラーレさんの役に立てた気がして、……嬉しいな」

「え? は、初めて? 何言ってるんですか!」


 思わずラーレの声が強くなる。ヘンリクは不思議そうに目を丸くして、首を横に傾げた。ラーレの心臓が急に震え出したのには、まるで気付いていないように。


「……だって、ラーレさんはいつも、……僕がすることはだいたい、喜んでくれるでしょ? ……でも、ずっと悲しそう。……だから、本当は何が好きなのか、どんなことをしたいのかが……あんまりわからなかったんだ」

「そ……そんな風に思ってたんですか?」

「……うん。だからラーレさんに、カードをお客さんに渡してって……頼まれた時、……お客さんにカードを渡した時、嬉しかったんだ。……初めて二人で、一緒に何かをした……気がして」


 少しの曇りもなく微笑むヘンリクを前に、ラーレは手元からスプーンが落ちそうなくらい呆然としていた。口を開いたら心臓が飛び出しそうだし、だからと言って黙っているわけにも行かない。


「そんな……。ヘンリクさんは、いつも私のこと大事にしてくれて……。とっても、とっても……」

「……でも、ラーレさん、一人で大丈夫だと思ってるでしょ?」


 優しい声と一緒に、木の枝がラーレの心の中まで入って来たようだった。一人で大丈夫、確かにラーレはヘンリクに言ったことがある。期待外れの移動図書館、子どもと大人に囲まれ頼りにされるヘンリク。その場から逃げ出したのは自分だ。大丈夫だと声高に叫んで。


「……子ども作りだけが、“一人で出来ないこと”じゃないよ。……僕らは多分、一人でも生きて行ける。……でも、一人より二人の方が楽しくて、嬉しくて、明日が来て欲しくなるから……、一緒に居るんじゃないかな」


 木の枝が伸びて来る。柔らかな枝が、ラーレの手のひらにそっと重なる。くるくると枝は手を巡って巻き付いて、痛くない強さでぎゅっと握った。


「……僕らが結婚したきっかけは……体質だったと思うけど。……でも、一緒に居る理由は、いくらでも二人で……見つけられる」


 ラーレは崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。少しでも気を抜いたら、粉々に消えてしまいそうだ。だから必死に奥歯を食いしばる。

 でもラーレは結局、力を込めた奥歯を諦めた。目の前の人木種の瞳があんまりにも暖かくて、ラーレの心を溶かしてしまったから。


「私……。ここに居て、いいんですか?」

「……変なこと言うね、ラーレさん」


 ヘンリクは、ラーレが作ったキノコと豆のスープを口に含んで、しっかり味わってから続けた。


「……ラーレさんは、ここに居るでしょ?」



 その夜、ラーレはルスヴァルトに来て初めて夢を見た。

 夢の中のラーレはコーブルクに居て、熱で茹だる体を抱えながらペンを握って机にしがみ付いていた。季節の狭間は物語屋にとって書き入れ時だ。天候の変化で、体の弱い人たちが死にやすい。

 体の中の高炉が湧いていた。高炉の中に収まり切らない熱が溢れ出て、ラーレの中を駆け巡る。体はこんなに熱いのに、手元はかじかみペン先が震えた。外出するにも体に力が入らず、ここ一週間ほどは乾いたパンの端だけを食べてやり過ごしていた。

 熱い、寒い、熱い、熱い。

 ラーレは奥歯を噛みしめて、すっかり冷え切ったコーヒーを飲み干す。それでもペンを離せない。ベッドに身を投げることも出来ない。

 ペンは命綱だ。手放さない限りは、生きていられると思った。

 この仕事が終わって眠りに落ちる瞬間は、さぞかし気持ちがいいだろう。寝て目覚めれば、少しは熱が下がっているはずだ。そしたらカフェで淹れたてのコーヒーをお供に本好きな仲間と語り合って、芝居のチケットを買って観劇して、それから……。すぐそばにある街の輝きが、今はこんなに遠くぼやけている。

 ラーレはどさりと床に転がった。身動きが取れない自分を、どこか遠くで眺めていた。どこか遠くのはずなのに、床に積もった埃がよく見えた。すっかり冷え切った床の上で、ラーレはしばらく泣いていた。それでも、一人で大丈夫だと信じていた。


 夢を見ているラーレは、後ろから手を伸ばす。横たわったままのラーレを抱き上げて、そのままぎゅっと両腕で包んだ。体が燃えるように熱いラーレは、ぼんやりとどこかを見つめている。ここがラーレの夢の中であることにも、きっと彼女は気付いていない。

 ラーレの腕を、高炉に燃やし尽くされるラーレは振りほどく。彼女は起き上がってペンを握り締める。

 物語は、都会で暮らす孤独な住民のためのもの。孤独な読み手と、孤独な物語屋のためのもの。


 インクの香りが、鼻先を撫でた。

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