7-2.物語を売る
悲鳴はヘンリクのものではなかった。彼の姿は轟々と燃える山火事のように見えた。髪は天井を突き破る勢いで逆立ち先は鋭く尖り、指先の枝は伸びながら無数に分かれ禍々しい渦を巻く。まるで地獄の門番、いや、地獄の門そのもの。
ラーレは急いで駆け寄って、ヘンリクの後ろから外へ向かって顔を出した。怒れる木が立ちふさがるせいで、ドアの向こうには出してもらえない。目に飛び込んで来たのは、尻もちを突いて怯えている小太りな人人種、ジョンブルック。最後に顔を合わせた時と全く変わらないその姿に、ラーレは一度会釈してから空に向かって声を上げる。
「ヘンリクさん! この方は、私がとってもお世話になっている方ですよ! 本屋の店長さんで、私の両親が亡くなってからも一番気にかけて下さったんです!」
「……そうなの?」
「そうです!」
「……ラーレさんを、連れて帰るの?」
「連れて帰られたら、私、死んじゃいますよ! ねえ、ジョンブルックさん!」
なぜここにジョンブルックが居るのかはわからない。手紙を読んで馬鹿正直に連絡もなしに休暇を過ごしに来るほど、彼は軽率な紳士ではないから。そしてもちろん、ジョンブルックの用事は暇つぶしではなかった。彼は地べたに尻を突いたまま、何度も頷いてからやっと話し出す。
「わっ、わたしは、ラーレの手紙にあった木のカップを見たくなったんだよ。もちろん、ラーレの元気な様子もね」
「木のカップ?」
「ほら、君が手紙に書いてくれただろう?」
二人の会話を聞きながら、ヘンリクの逆立つ髪や刺々しく宙を刺す枝は静かに収まった。彼は元通りの物静かな人木種に戻り、座り込んだジョンブルックに大きな手を差し出す。
「……驚かせてすみません。……木のカップなら、いっぱいあります。……持ってくるので、好きなだけ見て下さい」
ジョンブルックは恐る恐るヘンリクの手を握る。そのまま都会の男をぐいと引き上げて、ヘンリクはそっと微笑んだ。
「……よかった。ラーレさんが……、帰っちゃうかと思った」
帰っちゃう。
その言葉にラーレの胸はぎしぎしと痛んだ。ヘンリクはまだ、ラーレの帰るべき場所はコーブルクだと思っている。
何かあるごとに思い出す街の景色、一緒に仕事をした人々の顔。それはラーレが心の奥に仕舞っては何度も眺めてしまう、小さな希望の欠片だ。
それでもヘンリクは、ラーレにしかわからないほど小さな笑みを浮かべる。そんな彼のささやかな笑顔に、ラーレはもう、気付けるようになってしまった。
リビングの大きな大きなテーブルの席に腰かけて、ジョンブルックはヘンリクが並べた木のカップをしげしげと眺めていた。どれも全部形は同じだが、よく見ると表面に浮かび上がる年輪の模様や色味が違う。枝の節があるところは茶色く、年輪が描く幅は所々違う。
ラーレも隣から覗き込む。カップの取っ手には棘もひび割れもなく、艶々した表面は加工し過ぎず元の木の面影を残している。この森のどこかにカップが生る木があって、ヘンリクはカップをもいで来たんだろうか? テーブルの上のカップの行列を眺めながら、ラーレは可愛らしい絵本の中のような景色を思い描く。
「見事なものだなあ! 全部、ラーレの旦那さんが作ったのか」
「ヘンリクさんは器用で力持ちなんですよ。だから硬い素材でも丁寧に加工して、色んなものに変えちゃうんです。この家も家具も手作りだし、私の部屋は壁からヘンリクさんが作ってくれて」
「ほおー……。それはなかなかの腕前だ」
ヘンリクが紅茶を淹れて、それを木のカップに注いだ。ジョンブルックはそろりそろりと木のカップに口を付け、静かに静かに香りを嗅ぎ、飲む。
「なんだか、普段よりもおいしく感じるなあ」
「鉄製のカップよりも冷たくないからですかね?」
「それもそうだけど、君の手紙を読んだからかもしれないね」
すると、ラーレの隣に腰かけながらヘンリクが首を傾げた。ラーレとジョンブルックの様子を計って、彼はジョンブルックへの警戒を解いたらしい。言葉数は少ないが、自分からジョンブルックに話しかける。
「……手紙?」
「ラーレがわたしに手紙をくれたんだよ。原稿のこと、この森のこと。優しい旦那さんの話を書いてね」
「……旦那さん?」
「ジョンブルックさん! 内容まで言わないでくださいよ、もーっ、恥ずかしい!」
ははは、と楽し気にジョンブルックは笑う。やっと緊張が解けたらしく、普段のジョンブルックの帰還をラーレは喜んだ。唯一手紙の中身を知らないヘンリクは、今度は反対側に首を傾けた。
「……どんなことを書いたの?」
「えっとー……。ここへ来てから体調がいいですとか、ヘンリクさんが優しいですとか、木のカップで夜に紅茶を飲むとか、そういう普通のことを」
高い所にあるヘンリクの顔で、薄い茶色の目がきょろりと動いた。彼が何度か瞬くと、毛先の芽がぽんっと一つだけ花になる。
ジョンブルックは花に気付いて「おお、咲いた!」と声を上げるなり、テーブルに封筒を引っ張り出した。ラーレには見覚えのある色味。彼女自身が出した手紙の封筒だった。
「ええっ、持って来たんですか! 私が書いた手紙……」
「そうそう。とてもよかったから、肌身離さず持ってるんだ」
「もう、困ったおじ様! 手紙っていうのは、出したら差出人のところへは戻って来ないものなのに」
「いいからいいから。ほら、この部分を読んでわたしはピンと来たんだ。
『木のカップに入れた紅茶の表面に星空を浮かべて飲むと、少しだけ甘くなるそうです。彼は「星のお砂糖」と言っていました』
……そんなことを考えながら紅茶を飲むなんて、街にはない風習だろう? だから、それと一緒に木のカップを売ったら、売れるんじゃないかと思ってね。街で暮らしていた君は、旦那さんの話に心惹かれたから手紙に書いてくれたんだろう? わたしだって、この話に魅力を感じてここへ足を運んだんだ。きっとたくさんの人が、この“木のカップの物語”を好きになる」
一組の夫婦は顔を見合わせた。妻は顎を上げて、夫は首を曲げて。そうして目の前の小太りの男に、そっくりな仕草で首を傾げる。先に口を開いたのはラーレ。頷いたのは夫。
「本屋さんで木のカップを売るんですか? 随分と畑違いなような気がしますけれど……」
「おやおや、ラーレ。忘れたのかい? わたしの店で売るのは本じゃない、物語だよ」
ジョンブルックは木のカップを十個買い、ラーレが手渡した手紙の代筆業のカードも快く受け取ってくれた。店のどこかに置くよと言いながら。
二人きりになった家で夫婦はぽかんとしていたけれど、ようやく、自分たちの身に起きた出来事が喜ばしいことだと実感が湧いて来た。
「木のカップ、色んな人に使ってもらえるといいですね」
「……うん。そうだね」
小太りの人人種を見送るラーレの肩に、穏やかなヘンリクの枝がそっと伸びた。
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