6-2.食卓の野イチゴ
夕食の席で、ヘンリクはマリッサのことをごく自然に聞いて来た。だからラーレは肉屋の一件を説明し、物語屋に興味を持った彼女が仕事をくれたのだと話した。もちろん、内容がラブレターだとは言わないで。
「普通のことを、素敵に書いて欲しいっていうご相談でした」
「……ラーレさんは、そういうことが得意なんだね」
「あ……。そっか、コーブルクに居た頃の話はあまりしたことがなかったですね。ごめんなさい」
「……ううん。いいんだ。今、……聞けたから」
今日の食後のデザートは野イチゴだった。正面に腰かけているヘンリクは、いつも野イチゴをラーレに一粒ずつ食べさせてくれる。ヘンリクの魔力が入った野イチゴは、今ではラーレの大好物だ。
「あの、ヘンリクさん。ちょっとお願いしたいことがあるんですが」
「……ん?」
「もしヘンリクさんのお客さんに会うことがあったら、これを渡してもらいたいんです」
ラーレは、直筆のカードを何枚かヘンリクに差し出した。カード自体は白いただの紙だけど、ラーレの魔力を足したインクでこんなことが書き込まれている。
『手紙の代筆承ります
大切な人に伝えたい思いがある方、手紙を書くことに苦手意識のある方、ご相談下さい。あなたの心が届く手紙を、現役の物語屋が代筆します。(秘密厳守)』
テーブルに置かれたそれを眺めながら、ヘンリクは小さく頷いた。丁寧にカードをまとめると、乾いたインクの上を一度撫でる。インクに込められた魔力に、気が付いたのだろうか。
「……面白いね。手紙の代筆なんて……初めて聞いた」
「本当ですか? じゃあ、この話を知ったら気にかけてもらえるかも。マリッサさんも、あったらいいなと思ってたそうなんです」
「……そっか」
ヘンリクは微笑むと、野イチゴに枝を伸ばした。こちらにやって来た真っ赤な実に、ラーレはそっと唇を寄せる。まるでひな鳥になった気分。ラーレが自分の枝から野イチゴを食む様子を、ヘンリクは高いところから蕩ける目元で眺めている。
「……ラーレさん、……とっても嬉しそう」
「そうですね、嬉しいです。私でも、この村で誰かの役に立てるような気がして」
唇に野イチゴの雫が残ると、枝はそっと拭ってくれる。柔らかな唇が、少しだけ枝の形に凹む。
よく考えれば、ラーレはまだヘンリクと一度も唇を重ねたことがない。子どもが云々言う前に、乗り越えなければならないことはたくさんあった。だいたい、彼にはそうした願望があるんだろうか?
遠くにある美しいヘンリクの顔は、どうしても現実味がない。彼はどんな気持ちでラーレと暮らしているんだろう。やっぱり、小さな愛玩動物を与えられた気分だろうか。
まあいいかと、ラーレは気持ちを切り替える。無体を働かれるよりずっといい。それに彼の答えを知ったところで、ラーレにはもうどこにも居場所がない。なんとかここで生きるしかない。
不意に、ヘンリクが口を開いた。
「……僕も、……お願いしてみたい」
「何をですか?」
「……野イチゴ」
「野イチゴ?」
「……この野イチゴも、素敵に……書ける?」
ヘンリクからの頼みごとはいつもささやかだった。ラーレを抱き上げて歩きたい、いつもそうやって過ごしたい。それなのにラーレは断ってばかり。だから、せめてこれくらいは彼に応えたかった。
目の前の景色を眺めながら、自分の心の中を見渡す。夕食の席、テーブルには野イチゴ、すぐそばにヘンリク。いつもの食卓で心を研ぎ澄ませる。奥の方で黙り込んでいる自分を呼び起こし、目で、耳で、鼻で、肌触りで景色をじっと見つめる。ねえ、あなたは今何を感じてる?
言葉が、唇を撫でた。
「静かな夜闇が広がる森で、私は優しい枝から野イチゴを受け取る。甘い香りが私を満たし、酸味が心を躍らせる。唇を撫でる枝が運ぶのは、あなたと私だけの味。あなたは私のゆりかご、今日も私を生かす場所。あなたへの想いが躍る時、寂しさも苦しみも……あれ?」
野イチゴから顔を上げると、ヘンリクは大きな手で自分の顔を覆っていた。うねうねと木の枝が何本も宙に曲線を描き、行き場のない枝の先が漂っている。ヘンリクは頭をふるふると横に何度も振り、小さな声がくぐもって聞こえた。
「……もう、いいよ。……恥ずかしい」
「ごめんなさい、私、嫌なこと言いましたか?」
「……嫌じゃないよ。もっと、聞いていたい、けど……。……でも」
ヘンリクの片手の人差し指がパッと上がり、彼は自分の頭を指差した。視線の先の光景に、思わずラーレは自分の口を覆ってしまう。だけど声は飛び出した。
「わあっ! ヘンリクさん、満開ですよ!」
「……でしょ? だから、もういいんだ……。……ありがとう」
こげ茶色の髪に、たくさんのピンク色の花が咲き乱れていた。初対面のプロポーズよりもたくさんの花、花、花。ヘンリクにだけ春がやって来たような、満開の花。
「あ、あの、お花が一気にたくさん咲いても大丈夫なんですか? 苦しかったり痛かったりしますか?」
「……大丈夫だよ。ただ……、いっぱい、花が咲いて……恥ずかしい、だけ」
部屋に漂うのは、野イチゴの甘酸っぱさか。それともヘンリクの頭に咲く花の香りか。次第にうねうねと伸びていた枝はヘンリクの体に収まって行く。
人木種はラーレから見れば不思議な種族だ。背は高く、ついさっきまで指だと思っていたところがいきなり枝に変わり、赤ん坊は林檎の中。亡くなった人は木に変わり、息子はそれで家を建てる。
だけど今は、自分も人木種だったらいいなとラーレは思う。ヘンリクと同じくらいの背丈があれば、彼の頭を優しく撫でてその髪に口付けられたから。
ひらひらといくつかの花が宙を舞う。鼻をくすぐる甘い香りの中を泳ぐように。そうして花はラーレの元へ降り立った。顔を覆ったままのヘンリクが、ラーレに贈った花束だった。
「……たくさん咲いたから、……どうぞ」
「あ……。ありがとうございます、ヘンリクさん」
手元に咲いた花をラーレはそっと撫でる。今までに、何度か花束を贈られたことがある。読書会の仲間との誕生日会、仕事相手からの謝礼の一つ、友人の結婚祝いへのお返し……。だけどこんな風に、心から咲いた花を受け取ったのは生まれて初めてのことだった。
「あの、ヘンリクさん」
「……ん?」
「恥ずかしいってことは、その……。喜んでもらえましたか?」
まだまだ残っている花を頭に咲かせたまま、背の高い人木種は何度も何度も頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。