3.星のお砂糖

「ということがあって、私たち結婚したんです」

「あらまあ……。こんな田舎に人人種が嫁入りなんて珍しいと思ったら、そんな事情だったの」

「はい。それで急いで引っ越して来て、今日で二日目です」

「じゃあ、ヘンリクに会って一週間でルスヴァルトに? 思い切ったのねえ……」


 ラーレは深い深い緑の森の中に居た。たどたどしく野イチゴを摘みながら、ご近所の人熊種じんゆうしゅの奥さんとお喋りする。彼女はゾルデと言い、ラーレより少し年上で落ち着きがある。既に子どもが三人居るからこその腹の座り方なのかもしれないが。

 

「ほら、ヘンリクって大人しいでしょう? あんな子がどういう風の吹き回しで、突然こんな可愛らしい女の子をお嫁さんに出来たんだか不思議だったのよ」

「かっ……! 可愛らしいなんて、そんな! 私、子どもじゃありません。十七歳だし、自分で仕事もしています!」

「大丈夫。ヘンリクなら、お嫁さんが何もしてなくたって怒らないわよ」


 ゾルデは必死に答えるラーレをくすくす笑いながら、人と同じ形の指先で器用に野イチゴを摘み籠へ入れて行く。

 森で暮らし始めてから、ラーレはコーブルクで愛用していたワンピースとハイヒールを全部仕舞い込んだ。村の女性たちの服装を参考に、シャツとロングスカートにブーツを合わせる。彼女たちの格好が似通っているのは、動きやすく汚れたらこまめに着替えられる服装を考え抜いた結果だろう。もちろん、ゾルデも御多分に洩れず。


「あたしたちからすると、人人種は実年齢より子どもっぽく見えるのよ。ヘンリクと比べたら余計に。まだ二十一だってのに、ただの木みたいに静かで花の一つも咲かないんだから。若々しさの欠片も……。やだ、よその旦那を悪く言うのは野暮ね」


 口に手を当ててゾルデは笑う。そうして、今日の分の収集が終わったらしく手を振って立ち去った。熊の頭は森の景色によく似合う。

 瑞々しい緑が命の根を張る青い森。見上げればまっすぐ伸びる木の幹が空に向かって突き進み、空を覆うほどの葉を広げている。ラーレはゾルデを見送って、慣れない野イチゴ摘みで赤く染まった指先をハンカチで拭う。


「帰りたいなあ……」


 そんな言葉が口を突くけれど、ラーレにはもうこの森しか居場所がない。すっかり熱も倦怠感も引いた体が、何よりそれを一番わかっていた。

 ヘンリクと暮らすようになって、ラーレの体調は目を見張る勢いで回復した。散々喚いていた高炉は消え失せ、空腹を覚えるようになり、太陽の下で野イチゴを摘めるほど体力は戻った。人生で一番体が軽い。


「……つまんない」


 これならいくらでも芝居を観劇出来るし、馴染みのカフェで読書会の仲間と夜通し語り合えるし、ダンスホールで朝が来るまで踊れるのに。思い描くどれもこれも全てが、今はもう遥か彼方遠くにある。



 その晩、ラーレは夜の中でむくりと起き上がった。この寝室は、ヘンリクが用意してくれたものだ。元々はリビングだったところを、壁から作り直して小さな個室にしてくれた。

 ベッド、作業机、箪笥、本棚……。全て同じ種類の木材で出来た家具は、ラーレの身長に合わせて作られている。それだけではなく、窓の高さやドアの大きさ、ドアノブの位置も。全部ヘンリクの手作りだ。一週間で準備したとは思えないほど、何もかもが丁寧で優しい作りをしている。

 初めてこの部屋を見た時、ラーレは嬉しくて子どもみたいに大はしゃぎしてしまった。ヘンリクが隣に居るのをすっかり忘れて。


「すごい音……」


 窓の外を眺める。月は爪の先のようにほっそりしていて、夜はインク瓶を零した時の絶望みたいに真っ黒だった。こんなに暗い夜をラーレは知らない。森の夜が暗いことは、本で読んで知っていたけれど。でも、人口が少ない村の夜ならば、埃が散る音さえ響くほど静かなものだと思っていた。


「蛙……? ……虫?」


 森の夜はうるさい。とにかく喧しい。姿の見えない何かが、声で草木を揺らして遊んでいるんだろうか。夜の空気を埋め尽くすような、蛙や虫の大合唱。遠くの山で唐突に叫ぶ狼の群れの咆哮。ちょっとした風が吹くだけでかさかさ鳴る枝葉……。

 コーブルクの夜だって活気はあった。だけどそれは繁華街の話で、一本路地を入れば途端に街は眠りにつく。散々街を闊歩していた住民たちはどこへ行ったのやら、石畳の道路には動く物の影など見当たらず、空気はしんと静まり返る。そうして朝日が差し込むまで、しばしの沈黙が訪れる。


 結婚しなければよかった? ラーレはベッドから降りリビングへ向かいながら考えを巡らせる。不思議なことに、そうは思わなかった。美しい人木種がいつでも真心を尽くしてくれるのは、ラーレの部屋を見れば嫌でもわかる。彼はラーレの蔵書量を見て、本を捨てろなんて言わずに本棚を大きくしてくれた。

 でも、もしも願いが叶うなら。そっと庭に出てうずくまる。どれだけ待っても、この暗闇の中からラーレが願うものは何も出て来ない。じわりと目尻が熱くなる。消えたはずの高炉が顔を覗かせるように。


「……眠れない?」

「わあっ!」


 突然背後から聞こえた声に、ラーレは声を上げ背を跳ねさせた。叫び声は賑やかな森に吸い込まれ、振り返ればそこにはヘンリクらしき足が見えた。夜闇が深いせいで、頭上の顔は全く見えない。

 彼はラーレの隣にしゃがみこむと、ラーレには少し大きく思える木のカップを差し出した。彼用のカップだ。中には、淹れたての紅茶が入っている。


「……飲む?」

「あ……。ありがとうございます」


 ラーレは有難くそれを両手で受け取って、恐る恐る口先で飲んだ。夜のせいで色が見えない、正体不明の闇を口に含む。すると、隣で膝を抱えるヘンリクが紅茶を覗き込んで来た。


「……ほら、星のお砂糖が入ってる」

「星のお砂糖?」


 そう言われて、ラーレもヘンリクに倣って紅茶に視線を落とした。凪いだ黒い水面に、きらきら輝く星空が映り込んでいた。紅茶から夜空へと視線を上げる。ラーレは今まで気付かなかった。快晴の夜空に、数多の星が瞬いていることに。


「わあ……。綺麗……」

「……星のお砂糖が入った紅茶は、ちょっぴり甘いんだ。……どう?」


 自分の膝に顎を置いて、ヘンリクはこてんと首を傾げていた。言葉に導かれたラーレは、もう一度紅茶を口に含む。豊かな茶葉の香りが舌から鼻をくすぐって、ヘンリクに似たぬくもりが喉を撫でながら腹に落ちていく。

 甘いのかな。それは正直わからない。でも、味ではない甘さが、紅茶の中にあるような気がした。


「……ほんとだ。少しだけ、甘いですね」

「……うん。……僕は好きだよ、星のお砂糖」


 頭上には数えきれないほどの星空。じっと目を凝らせば凝らすほど、星は次々にじんわりと夜空に浮かび上がる。このままずっと眺めていたら、いつか濃紺の空は消えて、星の瞬きで満ちてしまいそうだ。視界の全てが星空になる、こんなのは生まれて初めてのことだった。

 この光の全てが砂糖だったら、世界はどれだけ甘いだろう。


「……ラーレさん、寒くない? 体は、平気?」

「はい。大丈夫ですよ」

「……椅子にする?」

「え?」


 何事かと、ラーレはヘンリクの方を向く。彼の薄い茶色の瞳にも、たくさんの星が散っている。ヘンリクはどこまでも続く足を伸ばすと、自分の腿をぽんぽんと叩いた。ここに座ってもいいと言っているらしい。


「いやっ、そんな、それは、ちょっと……」

「……怖い?」

「怖いと言うか、その……。単純に、悪いかなと……」


 いくら夫婦とは言え、出会って間もない他人を椅子代わりに使うなんて。ラーレは暗闇の中でもよく見えるように、首を何度も横に振る。ヘンリクは「そっか」とだけ呟いて、長い足を折り畳んで両腕で抱えた。


「……座りたくなったら、……いつでもどうぞ」

「あ、ありがとうございます」


 二人は並んで星空を眺める。気付けば隣からするすると柔らかな枝が伸びて来て、ラーレの片腕にそっと絡んでいた。

 ヘンリクは過剰な人由来魔力のそばに居るだけで魔力を吸収出来る。だけど体が触れ合っている方が、より効率的に魔力を……と早口で語ったのはヴァレオ。ヘンリクの言い方に変えると、それは「くっついてる方が、いっぱい魔力がもらえていいんだ」ということだった。

 自分の魔力が気に入られたのは幸いだった。多少は彼の役に立てている。ラーレはそう思いながら、黙り込むと木なのか人なのか闇なのかわからなくなってしまう人木種の男を横目で窺う。大きなカップは、彼の手の中にあるとだまし絵のように小さく見える。

 幸い、彼は木でも闇でもなかった。ヘンリクは星のお砂糖を混ぜながら、暖かな紅茶を飲んでいる。


 ラーレは誰にも聞けない。だから自分に問いかける。

 ねえ。私、本当にここに居ていいの?

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