第9話 取り残された想い
この世で救うことができないから、あの世でだったり、来世でだったりと、いかにも逃げにしか聞こえない言い訳である。
だから、そんな宗教に嫌気を差した人間が、死を意識すると、覚悟さえできれば、自殺をするなど、別に大したことではなく見えるのであろう。
それでも宗教の影響なのか、自殺をした人は、まわりから、
「逃げに走った」
と言われるのだろう。
「逃げに走ったというくらいだったら、その人が自殺する原因を取り除いて、助けてやればいいじゃないか」
と言いたくもなるが、しょせんは他人事、自殺した人間を軽視するような言い方をする人間は自分のことしか考えていないのだ。
たとえ、それが親であっても家族であっても同じなのかも知れない。
「肉親だから、気持ちはよく分かっている」
と口では言いながらも、
「肉親だから分かっている」
という理屈に頭が凝り固まって、本当の本人の気持ちを考えようとしないのが、正直罪ではないかと思う。
肉親に死なれて、初めて追い詰められているのが分かるというが、自殺した本人はかなりのSOS信号を出していたはずだ。
それが分からないというのは、本当に分からないわけではなく、
「家族だから何も言わなくても分かる」
などという押し付けに近い、おこがましさが現れている証拠であろう。
あまりここでいうと、傷口に塩を塗るようなマネになってしまうので、気を付けないといけないと思うが、それを敢えてとどめを刺すようなマネをするというのであれば、
「死んだ人は、もう戻ってこない」
という言葉を与えることで、死んだ人の苦しみを再度感じてもらえるといいのではないかと思う。
このような話に他のたとえはどうかと思うが、しいて類似の話をさせてもらうとすれば、離婚問題なども、このケースに似たところがあるのではないだろうか。
離婚問題にもいろいろあるが、それまで会話が絶えなかった夫婦間で、まったく会話が途絶えてしまうことがある。
夫の方とすれば、
「何も言わないのは、心配ない証拠」
と言って、これも逃げているのだろうが、何も言わなくなった妻は、その時、一番のクリシミを味わっているはずだ。
「今ならまだ、元に戻ることができるが、ここで元に戻って先があるというのか?」
などという思いが頭を巡っているのであろう。
確かに、夫婦が会話をしなくなったら、夫とすれば、相手が話をしてくれるのを待っているという人が多いカモ知れない。
しかし、それは男が女という動物を知らないからだ。
「女というのは、ギリギリまで我慢するけど、我慢できなくなったら、もう修復は不可能なのだ」
とよく言われる。
会話がなくなった時に、夫は様子を見ようとするのだが、それが遅すぎることに気付かない。
それは、
「結婚したのは、相手が自分に惚れてくれたからだ」
という思い上がりがあるからで、それがすっと永遠に続くのではないかと思えるところから来ているのだろう。
結婚した時の気持ちが、妻の方ではまったく変わっていないという思い込みなのだろうが、その普遍的な強欲な夫の気持ちに、妻が気付いたことで、それまで確かに愛していた相手だったが、許せなくなってしまったのだろう。
「可愛さ余って憎さ百倍」
という言葉もあるではないか。
妻の方で、
「どうして? なんで?」
などと考え始めると、女性の場合は、どんどん深みに嵌っていくという話も聞いたことがある。
唯一の相談相手が旦那だった奥さんだったとすれば、こうなってしまうと、もう後には引き下がれない。まさに自殺しようとしている人の気持ちが、そのまま表に現れているのだ。
――私がこんなに苦しんでいるのに、あの人はまるで私を見ようとしてくれない――
と感じる。
夫はそんなつもりではないのに、そう思っていると、本当に十万億土くらいの距離があるにも関わらず、二人ともまだすぐそばにいるような気がしているのだ。それは旦那だけではなく、奥さんにも言えることであろう。
しかし、先に気が付くのも奥さんだ。
「もう、この人とは、やっていけない」
そう思うと、後の行動は迅速であり、揺るぐことはない。
リビングのテーブルの上に自分の名前と捺印した離婚届を置いて、そこに手紙を添える形で、さっさと実家に帰ってしまっていた。夫からすれば、
「なんだよ。これは」
というべきであろう。
中の手紙を見ると、
「もうあなたとは一種にいることができません。離婚届を置いておきますので、あなたも署名捺印して、お手数ですが、役所に提出してください」
と書いてある。
そこに理由らしいことも書いてはいるが、夫としては容認できるものでもなく、身に覚えのない、まるで他人事のようなことが書かれている。浮気だとかそういうハッキリとした理由があるわけでもない。本当に他人事を思われるような内容なのだ。そんなもので納得しろというのは、実に虫が良すぎるというものだ。
「なんで、何も言わずに行っちゃうんだ?」
と思うのも当然のことだ。
夫婦なのだから、相談してくれなかったことを悔やむというよりも、怒りを覚えるくらいだ。さっそく次の日には妻の実家を訪れる。
「どういうことなんだ?」
と言って、本人は怒鳴りこんでいこうと思っているが、さすがに義父や義母がいるので、大人げないことはできない。
とにかく話し合いの場を設けることだけを目的に出かけた。
それでも、何を言えば相手に伝わるのか分かったものではない。夫は何も考えずに出かけているのだ。頭はパニックになっていて、何をどう説得すればいいのかなど、分かるはずもない。
当然のことながら、訪ねていけばまず出てくるのは、義母であろう。
「いきなり離婚届をおいて、実家に帰ってしまったんですが」
というと、
「そうですか。あの子は何も言わずに部屋に閉じこもっていて、離婚すると言っただけなんですよ。娘とはいえ、嫁に出したんですから、本当は追い出してもいいんでしょうが、さすがに娘を追い出すわけにもと思い、それでも何もいうこともできずに、今は話もしていません」
と言って、向こうも困っているようだった。
「会わせてくれますか?」
というと、母親は娘の部屋の前で自ブが来たことを知らせる。
どうも出てくる様子はないようだが、とにかく事情を両親に説明した。
「とにかく、いきなりだったので、僕もどうしていいのか分からないところなんですよ。そして取るものもとりあえず、やってきたというわけです」
「そうですか。これは娘がとんだことをいたしまして」
と義父はそう言って腕を組んでいるので、旦那は両親が自分の味方になってくれるのではないかと思い、少し安心した、
だが、世の中はそんなに甘くはない。
父親が、申し訳ないと思っているのは、騒がせたということであり、娘の行動の突飛さにだけそう感じているだけで、娘の真意が分からないうちは、どちらの味方というわけでもなかった。
結局その日は会うことができず、数回訪れてやっと顔を出してくれた。
その頃には旦那の気持ちは少し落ち着いていたが、久しぶりに見た奥さんの顔に愕然としてしまったのだ。
――なんだ、この顔は? まるで鬼の形相じゃないか?
と感じた。
鬼の形相というt古馬がこれほど似合う女だったのかと思うと、恐ろしくなってしまった。今までは、
「これほどまでに、話しやすい相手はいない」
と感じていたのに、今は逆に、
「これほど話すのが怖いと思う相手だったとは」
という思いに完全に変わっていた。
「あなたに話すことはもうありません。あの手紙に書いたことのそれ以上でもそれ以下でもありません。私はずっと悩んできました。でも、あなたはそんな悩んでいる私を見てみぬふりをしていました。それが悔しいんです。だから今あなたがやってきたって、私にとっては、何をいまさらなんですよ。もうあなたは私にとって他人以外の何者でもありません。どうぞお引きとりください」
という歴然とした態度を取られてしまえば、もう、どうすることもできない。
奥さんは、いうや否や、また自室に引きこもる。
取り残された両親と夫、長考の時間が続く。
「もう、ダメなんだろうね」
とお義父さんが話し始めた。
それを聞いてお義母さんも頷いている。
「君もウスウス分かっているだろうが、あの子はこうと思えばもうすでにダメなんだ。自分が悩んでいる時は一人だけで苦しんで、人に助けを求めない。そしてさっさと結論を出して、それをまわりに押し付ける。悩んでいる時に誰も助けてくれなかったという思いまで背負ってしまうから始末に悪い。今のような話になってしまうんだろうね。ただ、これはあの子の性格でもある、酷なことをいうようだが、君もそれを分かって結婚したんだろう? もし、分かっていなかったとすれば、それは分からなかった君が悪い。まわりは、君が何もかも承知で結婚したとしか思っていないよ」
と、淡々と話をしていたが、胸に突き刺さる言葉の痛みは、これ以上ないというほどに胸に突き刺さった。
結局、二人はその後、離婚調停という形で結婚生活に幕を下ろすことになった。
離婚調停というのも、実に冷たいもので、自分は被告だという。二人は裁判所で聴取を受けることになるが、お互いに遭うことはない。調停委員が二人ほどいて、その二人から伝言という形で伝えられるだけだ。
「あなたはまだ若いんだから、早く決着をつけて、次を目指せばいい」
その言葉が決定的になった。
もちろん、次に期待したわけではなく、調停委員が仲を取り持って修復に動いてくれるなどと一縷であっても望んだ自分が情けないくらいだった。
考えてみれば自分が被告なのだ。相手が容赦などするはずもない、
「ダメならダメで、早急に切り上げて、気持ちを切り替えれば、それでいいはないかね?」
と言われるだけで、一巻の終わりだった。
鎌倉氏は、小説家をしている時、このような内容の小説を書いたことがあった。
結婚したこともなく、当然離婚経験などのない鎌倉氏にここまでリアルな話を書けたのかというのは、自分でもよく分かっていない。
鎌倉氏というのは、急に何かを閃くことがある、ほとんどはフィクションであっても、自分の想像できる範囲でしか書けないという意識を持っているのだが、こんなリアルな離婚話は自分の想定外であるということは分かっているはずだ。それなのに書けたということは、何か自分に小説の神様のようなものが降臨してきたとでもいうべきか、
「いや、神様なんかじゃないな。悪魔なのかも知れない」
書いている時、何とも嫌な気分にさせられた。
これが経験から書いているものであれば、ここまで嫌な気分になることはなかったのではないだろうか。
それを想うと、
――小説を書けている時の自分が、ここまで惨めな感情を抱くなどというのは、やはり小説の神様ではなく、あれは悪魔なのではないだろうか?
と感じた証拠であろう。
そんな小説も、本になり本屋に並んだことがあったが、さすがに売れなかった。
――ひょっとして、小説家として下り坂をハッキリ意識したのは、この作品だったかも知れない――
とも思えた。
「やはり、自分で書いていても気分の悪い作品は、他人には容認されるはずもないんだな」
ということなのであろう。
しかも、どうして今そんな昔のことを、まわりに人がいるにも関わらず思い出してしまったのか、自分に探偵の依頼に来た目の前にいる高橋楓という女の見えない魔力のようなものがあるのだと感じた。
楓の顔を見ていると、鎌倉氏はその小説を書いていた時の自分を思い出してしまっていたのだが、なぜ思い出すことになったのか、すぐには分からなかった。
――そうか、山口豊という男が飛び降り自殺をしたことで、楓は小説を書いた自分のあの時と同じ感覚を味わったのではないだろうか?
と感じた。
何かに悩んでいるのであれば、どうして自分に相談してくれなかったのか? もちろん、自分が何かをできるという保証などどこにもないが、一緒に悩んであげることくらいはできるのではないか?
だが、それを感じた鎌倉氏は、少し違うとも思った。
動物というのは、自分の死が近づいてきたことを悟ると、まわりから姿を消すものだそうだ。
自分の近しい、特に人間には自分の死んだ姿を見せたくないという思いが働くというではないか。
それを鎌倉氏は思い出し、山口豊の気持ちも分かる気がした。
しかし、小説を書いた時に感じた。
「取り残された方の人間の想い」
それを思い出すと、鎌倉はやるせない気持ちにならないわけにはいかなかったのだ。
――どうすればいいんだ?
と鎌倉氏は思った。
この依頼を引き受ければいいのか? それとも断ればいいのか、どちらにしても、何かのしこりが残りそうな気がした、そして、引き受けるにしても断るにしても、その理由は同じ次元には存在しないのではないかという思いが鎌倉氏の頭の中を巡った。
それがどういう次元の違いなのかは分からない。そこには十万億土の距離があるというのか、だが、どちらにしても、十万億土と呼ばれる極楽浄土などありえないとしか思えなかった。
鎌倉氏はマスターを見た。マスターもその視線を感じたのか、鎌倉氏に対して何かを言いたいようだったが、その雰囲気はまだその答えを見つけていないかのようだった。
ただ、もしマスターが鎌倉氏の立場であれば、断っているかも知れない。
なぜなら、相手はまだ恋人という関係であり、婚姻は成立していない。遺族というわけでもないので、遺族でもない人から、何年も経ってから調査依頼を受けるというのは、少し疑問に感じる部分もある。
本来であれば、吹っ切れていてもいい時期なのに、いまさらのように依頼してくることに、マスt-なら疑問を先に感じるだろう。
だが、鎌倉氏は違った。
どちらかというと、この時期だから依頼してきたとも言えるのではないかと考えたのだった。
なぜなら、
「彼女は必死で彼のことを忘れようとするが、忘れることができない。理由としては、一度ある程度まで忘れてくると、また思いがこみ上げてきて、堂々巡りを繰り返す。夢で彼のことを見たりすると、そういうことを繰り返してしまうのだろう。そういう人はそんなに少ないわけでもないことは探偵をしていると、よく聞いたりする。彼女もそういう人間なのかも知れない。そうなるとここまで来てしまった自分もさすがに吹っ切らなけれなならないと思うだろう。そのためにはハッキリさせておかなければいけないことがある。それが彼の自殺のことであった。そうしなければ、自分はまた堂々巡りを繰り返してしまい、抜けられなくなるということを誰よりも感じているということではないか」
という理屈を鎌倉氏は考えていた。
――僕の考えは無理があるんだろうか?
と鎌倉氏は悩んでいた。
悩んでいる間に思い出したのが、かつて書いた離婚の小説だったのだが、それを今思い出すというのは、やはり、
「思い出すべくして思い出した」
ということであり、そこには何か運命めいたものがあるのではないかという思いがこみ上げてくるのだった。
そう思っていると、マスターは、もう反対という表情はしていない。鎌倉氏が何か自分で結論を見つけようとしているのに気付いたのだろう。
もうここまでくれば、自分が口を出す場面ではない。マスターとすれば、
「もし、自分だったら」
という目で見ているだけであり、やはり徹底した他人事を貫いているのだった。
これは鎌倉氏とマスターの間の暗黙の了解、阿吽の呼吸であり、まるでテレパシーのようなもので繋がっているのではないかと思えることであった。
実際に依頼に来た楓はというと、その表情には先ほどまでの熱い視線は感じられず、一人で思い込んでいるかのように見えた。一人で顔をうずめるかのように下を向いたままで、この重苦しい空気に耐えているかのようにも見えた。
――今一番苦しんでいるのは、彼女なのかも知れないな――
と鎌倉氏は感じていた。
だからと言って、何かできるわけではない。もし、彼女の話に載って山口の過去を調べようとすれば、どうなるのだろう?
ひょっとすると、山口は楓に心配を掛けまいとして、一人で死んでいったのかも知れない。もし、彼女に害が及ぶようなことがあれば、自分もろとも彼女が死んでしまうようなことがあれば、二人とも犬死だというようなことを考えたのだとすれば、鎌倉は自分から動くことをしない方がいいと思うのだった。
彼の死は、何が原因なのか分からないが、バックに何かの組織がいることは分かっている。鎌倉氏は、自分が書いた小説を思い出してみて、あの時は離婚だったが、今回は自殺である。
自殺するにはどのような理由があるのかというと、自殺する人間は、まず追い詰められていることが必須である。
追い詰められているといっても、何に追い詰めあれているのかということであるが、彼が追い詰められているとしても、それは過去のことであった。今はすでに彼はこの世にいない。確かに彼女の思いはひしひしと伝わってくるのだが、それを鵜呑みにしてしまい、こちらまで動いてしまうと、せっかくの彼の行為が無に帰してしまうことになりかねない。
「何が真実で、何が事実なのかということを見極める必要がある」
真実を追い求めると、事実が交差している瞬間、眩しさから大切なものを見失ってしまうのではないだろうか。
鎌倉氏が描いた離婚夫婦の場合は、奥さんは、自分の気持ちが固まるまでは一切自分から口を開こうとはしなかった。旦那の方は、そんな奥さんに甘えて、自分から話しかけようとはしなかった。きっと奥さんは、待っていたのではないかと思いながら書いていたが、その気持ちに間違いはないだろう。
では、山口の場合はどうであろうか?
自分が何かの原因で巻き込まれてしまった事件に、彼女を引っ張りこみたくないという思いから、自ら何も言わずに、一人で苦しんでいたのだろう。彼女はそんな彼の気持ちを思い図っているつもりで、見殺しにしていたのではないかと、今では思っている。
確かに彼女は、
「まさか、彼が自殺などしようなんて考えているなんて、思ってもみませんでした」
と口では言っているが、本当のところはどうだったのだろう?
元々彼は、いくら恋人とはいえ、自分の領域を侵されることを嫌がっていたという。
「私、本当は彼と結婚までしようとは思っていなかったような気がするんです。彼に死なれて、少しの間放心状態だったんですが、その時、自分は彼との結婚を望んでいたという妄想が膨らんできたんです。どうして結婚なんて考えたんでしょう? 私は結婚はしばらくするつもりなんかないと思っていたし、彼にもそのことは伝えてあったんです。それなのに、彼は『分かった。君のしたいようにすればいい』なんていうものだから、私もムキになって、彼と結婚したいと思っていたと思い込んでいたのかも知れないです」
と、楓はいった。
「あなたが、彼のことを今まで知っているようで知らなかった。だから、このままの中途半半端な気持ちでは自分から吹っ切ることはできない。だから、私に調査してもらって、自分が吹っ切れる報告を受けたところで、スッキリしたいち思っているんじゃありませんか?」
と、かなりの辛辣な言葉になったが、これくら言わないと、彼女が自分の考えに気付かないと思ったからだ。
――彼女は、事実よりも真実の方が知りたいのかも知れないな――
と感じたが、実際に探偵として調べられるのは、あくまでも事実である。
ひょっとすると事実を突きつけ荒れたことで、そこから真実を手繰り寄せようとする態度が、彼女の仲で自分を納得させるために力になると思っているのかも知れない。
そんな風に考えていると、次第に彼女が悪い女であるかのようなイメージが湧いてきた。
そういえば、彼女を見ていて、最初からどんなイメージなのかが分かりづらいところがあった。いつもであれば、もっとすぐに分かってくるはずのことが分からないのだ。最初は、
――僕が彼女に惚れているので、前がまともに見えなくなっているのではないだろうか――
と感じられたが。実はそうではない。
どちらかというと、自分の方から分かってしまうことが怖かったというイメージが強かった。
かつて書いた離婚の小説を思い出したのは、
「女というのは、最初は自分だけで突っ走って、有無を言わさぬ状況に追い込んでから、初めて自分の意見をいう」
それもすべてが手遅れな状態に追い込んでからである。
それを強調して思い出したのは、彼女が、その小説を書いている時に感じた自分と同じ思いを抱いていると感じたからだった。
鎌倉は、この事件の捜査は、
「してはいけないものだ」
と感じた。
彼女の話を聞きながら、どれほど自分の中で感じている嫌なものを思い出すに至ったか。そしてマスターという人間まで、どこか嫌な人間に見えてくるような、そんな感情が鎌倉を憂鬱にさせるのだ。
自分が探偵であるということが、これほどまでに気分の悪い思いをさせるなど、思ってもいなかった。
彼女の依頼を誰が引き受けるものかと思っていると、自分が探偵になった時のことを思い出すようだった。
あの時も確か、自分が嵌められそうになったのではなかったか。それを思い出していると、もう、誰からも騙されるのだけは避けなければならないと思った。
今度騙されることになると、将来において、自分が探偵としてやっていく自信がなくなってくるだろう。
だが、彼女の依頼を無碍に断ることも、今の鎌倉にはできないというジレンマがあった。かといって引き受けるわけにはいかない。
「そうですか。やはりお引き受けしていただけないんですね?」
と彼女は、鎌倉の返事を待つこともなく返事をして、そのまま立ち去ろうとした。
「どうして、私の返事が分かったんですか?」
「私は、これまでにも何人かの探偵さんのところに行って依頼したことがあったんですのよ。その時に、同じように、そう、今の鎌倉さんとまったく同じような態度を取られた方がおられたんですよ」
「それは誰だったんですか?」
「それは、坂下さんという探偵さんで、その人がちょうどその時奥さんと離婚の調停中だったということを、他の誰かに聞いたような気がします。確か、足立さんという方でしかでしょうか?」
と言われて鎌倉氏はビックリした。
坂下というのは、自分がかつて書いた、ちょうどさっき思い出していた離婚をした男性の生である、足立というのは、その中に出てくる離婚調停員の名前であった。
しかし、面白いものである。鎌倉が自部の小説のことを思い出すことがあっても、登場人物の名前まで思い出すことはなかったような気がした。
「あっ、そういえば、楓さんとおっしゃいましたね?」
と何かを思い出した鎌倉氏が、
「確か、旧姓は、掛橋さんでは?」
と聞くと、
「ええ、そうです。今は結婚して高橋です」
というではないか。
――棚橋楓、この名前は、自分の小説で、旦那に最後通常を渡し、離婚していったあのオンナ、その人ではなかったか――
なぜ、彼女が架空の世界から現実世界に出てきたのか、そして、自分に何を言いに来たのか、よく分からなかった。しかし、
「今まで感じていたフィクションとノンフィクションの考えが、微妙に入り混じって、今までとは違い考えを生み出し、事実と真実という考えをジレンマとして引き起こしてしまったのではないか」
と思うのだった……。
本屋で一つの本を一緒に取ったあの時、あれは本当に偶然だったのだろうか? とにかくやる気を一切失ってしまった鎌倉氏であった。
( 完 )
やる気のない鎌倉探偵 森本 晃次 @kakku
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