第8話 十万億土

 鎌倉には、マスターが何を考えているのか、何となく分かった気がした。

 鎌倉に対して、

「この案件は引き受けない方が無難だ」

 と言っているのが分かったのだ。

 鎌倉もそんな気がしている。この事件を引き受けることが自分にとってどのようなことが待っているのか、分かる気がしていた。それは何かの危険に見舞われるというわけでもない。どちらかというと気持ちの上でのことであった。

「世の中には、真実がどこにあろうが、知らなくてもいいことはたくさんある」

 と言っているような気がする。

 知ることですべて前に進めるのであれば、誰も苦労はしない。知らなくてもいいことは知らない方が、どれほど幸せなのか、今までそんな事件をいくつ見てきたことだろう。

 鎌倉は、学生時代のことだったが、あの頃も実は探偵のようなことをしていた時期があった。

 もちろん学生デモあるし、プロでもないのだから、お金を貰って実際に捜査していたわけでもないし、捜査する権限もないので、ただの探偵ごっこだった。

 友達の彼女から、

「彼がどうも最近おかしいの。浮気でもしているのか、心配で心配で」

 という話を持ち掛けられたことがあった。

 その友達というのは、自分が知っている限り、浮気などするタイプではなく、

「考えすぎなんじゃないのかい?」

 と言ったほどの生真面目なやつだった。

 しかし彼女は、

「あの人が生真面目だから気になるの」

 というではないか。

 どうやら、彼に対してモーションを掛けてくる女の子がいるようで、彼女の知らないところで会っていることがあるというのだ。

 鎌倉は半信半疑で彼女の言葉を鵜呑みにはできないが、逆に裏体を晴らすという意味で少し調べてみると、彼女の言う通りだったのだ。

 そのことはおろか、自分が気になったから彼の様子を探ったといわず、黙って自分の胸に収めておくことにした。

 だが、だんだん気になって彼の様子を探っていると、その彼女も鎌倉が探っているのに気付いたようで、

「どうして彼を探っているの? 私がお願いした時は引き受けてはくださらなかったのに」

 と言って、鎌倉氏を責めた。

 一言も言い返せないまま、彼女とはそのまま話ができなくなり。結局彼女の考えすぎということで、二人の仲は元に戻ったのだが、鎌倉氏と彼女の仲がギクシャクし始めたので、友達と緒疎遠になってきた。自分の中途半端な考えのために、結局二人の友を失うことになったのだ。

 ただ、この彼の衝動には、

「事実と真実」

 の二つが別々に存在していたのだ。

 友達と彼女の関係は元に戻ったように見えていたが、実際にはそうではなかった。二人の間に見えない溝ができてきて、それがいつの間にか結界になっていた。

 最後はまったくお互いに感覚がマヒしたようになって、別れてしまったが、それを見て心の中で、

「俺が悪かったんじゃないんだ」

 と思わず鎌倉はほくそ笑んだ。

 今であれば自己嫌悪にでも陥りそうな感情であるが、その頃はまだ分かったというのか、そんな思いをした自分を責めることはできない。

 今でも、

「あれはあれでよかったんだ」

 と真剣に思っていて、もし、あの場面に自分も渦中の人であったら、人数が多いだけに、複雑な関係になっていたことだろう。

 そう思うと、鎌倉は、まったく嫌な気がするということはなかった。

「真実と事実なんて、そんなものさ」

 と、半ばやけくそ気味に感じていた。

 そんなことがあってから、小説の中で、似たような話を書いたことがあった。それは学生時代に書いたもので、最初あら公にしようと思っていたものではない。

 小説をアマチュアの気分で書いていると、何でも書けるような気がしていた、人の悪口や愚痴であっても、表に出さなければ何でもありだった。極端な話、放送禁止用語も使いたい放題であるし、

「呪いの藁人形」

 の代わりにだってできるのだ。

 実際に大学生の時に、嫌いな相手を小説の中で殺したこともあった。

「どうせ誰にも見せないんだ:

 という思いがあったからこそ、実名を使って、事実をそのままに書きまくった。

 書いているうちに、

「こんなにスラスラ書けるなんて」

と思ったものだ。

 基本的にノンフィクションは大嫌いだった。自分で描く作品はあくまでも架空の話であって、それが経験に寄ろものであっても、架空の話ということにしてしまえば、それはありなのだ。

 その時感じていたのが、

「事実と真実の違い」

 であった。

「真実というものはどんなにフィクションだと言っても、架空ではないので、書くことはできないが、事実は捻じ曲げて書くことができるので、経験したことであっても、フィクションとして書くことは可能である:

 という印象があった。

 普通考えれば逆のように思うが、鎌倉の中では、

「真実というのは、事実に加えて信念が入っているので、自分の中で架空だと思っても、曲げることはできないが、事実は事実でしかなく、信念の伴わないものなので、曲げることは可能だ」

 という発想である。

 考えてみれば、小説で書かれたノンフィクションであっても、そべてが事実だと言えるであろうか。

 どんなに取材を重ねても、どんなに事実を羅列したとしても、犯人が考えていたことを他人である小説家が書くことなんてできないのだ。

 鎌倉氏が、

「自分はノンフィクションは書けない」

 というのは、自分だけではなく、書ける人間などいないという理屈を、自分が公表することを避けているだけのことだった。

 これは、ひょっとすると小説家と言われる人であれば、誰にでも分かることなのかも知れない。それを口にしないということは、

「言ってはならないタブーが含まれているんだ」

ということになるんだろう。

「ノンフィクションなど、簡単すぎて書けない」

 とずっと自分に言い聞かせてきたは、実際にはそうではないのだ。

「まった逆の発想は、やはり逆転の発想からしか生まれてくるものではなく、そのうえで生まれてきた発想は、意外と自分でも気づかないものである」

 と言えるのではないだろうか。

 自分の書きたい小説を、しがらみを外して書いてみると、本当にノンフィクションのようになってしまう。そう思うと普段書いている小説とはまったく違って、言葉で誰かに諭しているような感覚になるのだった。

「教授などと言われている偉い先生の論文など、同じような発想から生まれているとすれば、これほど面白い発想もないものだ」

 と言えるのではないだろうか。

 小説の中でのフィクションとノンフィクション、どちらかが事実を描いていて。どちらかが真実を描いているのだとすれば、きっと真実がノンフィクションなのかも知れない。

 自分では認めたくない感覚であった。この感覚を悟った時、自分が大きなジレンマに襲われていることを感じた。

――このままでは書けなくなるかも知れない――

 と思ったが。その思いは次第に強くなってきた。

 あれだけ小説家に憧れて小説を書けるようになったのに、あっさりと諦めることができたのは、このジレンマを知ったからではないだろうか。

 そんなこともあったと、実際に小説家を諦める時にそのジレンマを思い出すのは、あくまでも小説家を辞める時だった。それまでは、ジレンマを感じてはいたが、それは小説を書くということが、精神的に追い詰められることであり、その辛さ苦しさが、小説家への憧れに結び付けるものだと感じていたのだろう。

 大学生の時に書いた小説では、一体何人殺したのだろうか。ちょうどむしゃくしゃしていた時期でもあり、自分が何に対して憤りを感じていたのかということすら分かっていなかった。

 ただ、世の中の理不尽さだけは感じていたのは確かで、普通の人であれば、別に気にすることもなく、

「大人としての対応」

 などという言葉で、ひょっとすると、イライラしている自分を隠して、ニッコリと微笑んでいるのかも知れない。

 しかし、鎌倉氏にはそれができなかった。

 時に大学時代というと、無性に、

「正義」

 という言葉に敏感だった頃だ。

「モラル違反は法律違反ではない」

 という理屈が分からなかった時期だ。

 まだ、その頃はやっと禁煙が世の中に浸透してきた頃で、一部の人間(今でもいるが、それよりもはるかに多く緒連中)が、咥えタバコなどをして、平気で歩いていた時期であった。

 中には、いやほとんどの人間がと言ってもいいのだろうが、吸い終わったタバコを道に吐き捨てる。そんな連中にモラルと言う言葉などない。

「自分さえよければそれでいい」

 という考えだ。

 確かに法律では、咥えタバコを禁止してはいない。各県の条例の中には罰金を処しているところもあるかも知れないが、あくまでも条例の範囲である。

 今でこそ、

「室内全面禁止」

 という法律になっているが、それでも、そんな法律の弊害として、路上タバコが増えたのも事実である。

 だが、これは今も昔も言えることであるが、嫌煙者の中には、キチンとルールを守って吸っている人もいるのに、そんな不心得者がいるために、

「たった一部の不心得者のために、俺たち喫煙者全員が、路上タバコを吸っているかのように見られるのは心外だ」

 と思っていることだろう。

 つまり、不心得者たちは、禁煙車だけではなく、喫煙者まで敵に回したのだ。要するに

「四面楚歌」

 を自分たちで演出しているのだ。

 それでもやつらは咥えタバコをやめようとはしない。

「法律で裁けないのであれば、俺が裁いてやる」

 とばかりに、咥えタバコをしている連中を連続殺人で殺してみたり、咥えタバコが当たって、それが子供で、その子が後遺症を持ち、一生をその子のために犠牲にしなければいけなくなり、人生をそこで終わってしまったという話を書くのは実に爽快なものであった。

 別に悪いことをしているわけでもないし、自分ではストレス解消にもなる。

「一度、ネットで公開してもいいな」

 と思ったこともあったが、

「小説家を目指しているために小説を書いている」

 という自負がある以上、ストレス解消のために書いた小説を公開することはさすがに憚られた。

 これが趣味で書いている小説であれば、別にいくらでも公開してもいいだろう。)それは、作者の気持ちでもあるもで、そのあたりはあしからずというところであろうか)

 ただ、路上喫煙や、咥えタバコのようなものは、

「この世の悪」

 に対しての戒めの小説なので、自分個人のストレス解消というには、少し言い訳の利いた、

「言い過ぎ小説」

 であったかも知れない。

 そう思うと、本当の意味でのストレス解消を書いてみたいち思うようになった。それは、完全に自分だけのわがままで書く小説である。

 学生の頃、一番嫌だったのは、子供の声だった。

 大人になると、そこまで気になることはなかったが、勉強をしている時など、近くの公園から子供の喚き声が聞こえてくる。

 保護者という名の大人たちは、ママ友同士の会話で手一杯で、子供のことなど見てもいない。そのくせ、子供が怪我をすると、一緒にいた子供が悪いなどと喚き散らすやつもいて、

「自分のことは棚に上げて」

 というのは、まさにこのことであろう。

 そんな大人に育てられた子供なのだから、それはまったくまわりのことを考えてもいないだろう。そもそも、

「子供なんだから、うるさいのは当たり前」

 などと言っている親は、一体どんな育てられ方をしたのかと言いたい。

 うるさくしていたら、

「まわりの人に迷惑でしょう」

 と言われて育ったはずではなかったのか。

 それを思うと、親がちゃんと教えていないから、子供もロクな教育を受けていないことになるのだろうが、やはり、それでも子供が悪いということには変わりはない。

 大人になってから、その子供たちが例えば警察官や政治家にでもなったとして、まわりを考えない、自分たちだけのことしか考えようとしない大人になったとすれば、それを、

「大人がちゃんと教育してこなかったから」

 という理由で片づけていいものなのdろうか。

 特に政治家などという人種は、自分たちのことしか考えていない人が多いという印象なので、そんな強雨行くしか受けていないということを裏付けているということになるのであろう。

 そうなってしまうと、その時の大人の責任は重大であったと言えるだろう。

「誰も口にしないのなら、俺が小説に書いてやる」

 と意気込んで小説に書いてみた。

 こればかりは、さすがに個人攻撃でもないし、たいていの人が感じていることだろうからと思いネットにアップもした、

 ほとんど誰もコメントを寄せる人もいない。

「ひどいことを書いてるな」

 と思っている人も多いのだろうが、それよりも、

「君子危うきに近寄らず」

 とでもいおうか、下手にこのような爆弾的な話に突っ込んでしまって、爆破に巻き込まれでもしたら嫌だと思うことだろう。

 それを思うと鎌倉氏は、

「将来、俺は正義の味方になるかも知れないな」

 と、実際に漠然とではあったが、感じていた。

 それはあくまでも小説家でという意味で、どこまで世間の理不尽さに突っ込んでいけるかということを目指してみたが、結局は敗退することになったのだが、それが同じ、

「正義の味方」

 という意味で、探偵になるなどと、大学時代には思ってもいなかったことであった。

「一体、何が正義の味方だというのだろう」

 正義というのがどういうものなのかも分からず、大学時代にはストレス感傷のために小説を利用したという経緯があるが、それを自分では悪いことだとは思っていない。

 小説家など、別に読者に感動を与えるために書いているわけではない。確かに自分の書いた小説で、何かを感じてくれれば嬉しいが、自分は聖人君子でもなければ、神様でもない。

 逆に筆一本で、神様にもなれれば、悪魔にもなれるのだ。

 そんな小説家が、ジレンマによって小説家を諦めて、一人の人生を裏表、そして悲哀を見るために探偵になったというのは、実に皮肉なことではないだろうか。

 小説を書くことで培われた発想力と、想像力、そして何かを創造するという気持ち、この三つを持っていることが、鎌倉氏が小説家を辞めても、探偵として生きていくことにスムーズな移行ができたというのも、すべからく無理のないことだったように思う。

 世間の理不尽さを、正面から怒りを持って表現することができた学生時代があったから、探偵になっても、人の裏表を見ることができ、その裏付けがどこにあるのかも、他の人とは違って、見つけることができたのかも知れない。

 人が自殺をしようと思い込むのは、よく、

「逃げに走ったからだ」

 という人がいるが、果たしてそうなのだろうか?

 死後の世界というものが、どんな世界なのか。十万億土と言われている世界があるが、果たしてどんな世界なのだろう。極楽浄土のことだとされているが、果たしてそんな世界は存在するのだろうか。

 そういえば、ある探偵小説を読んでいて、邪教に立ち向かった犯人が、言っていた言葉に衝撃を受けたことがあった。確か、

「天国と地獄という言葉があるが、天国はあの世に行かなければ見ることはできないが、地獄の正体はこの世にあるのだ」

 と言っていた。

 天国だと思っているこの世に存在するものはすべてが幻で、誰かが天国を創造しようとするならば、必ず誰かが地獄を見ることになる。そして、結果自分にもその地獄が回ってくるのだ。

 それは、天国と地獄という架空の世界を通じて、現世の中で繰り返させるもので、輪廻のようなものだと言えるのではないだろうか。

 人間が極楽浄土に至るまでには、無数にある仏土を超えなければならない。これが十万億土という言葉の由来だというが、非常に離れているという言葉でも使われるのだ。

 やはり、この世に極楽などありはしない。あるとすれば、それは幻であって、錯覚にすぎないだけである。

 考えてみれば、十万に置くが絡んでいるのだ。

「これでもか」

 と言わんばかりに数を重ねているではないか。

 そんな世界に行き着いてしまうまでに、どれほどの時間が掛かるというのか、一人の人間が生まれてからシム迄を何度繰り返す必要があるというのか、

「そんなものは存在しない」

 と言い切ってしまった方がどれだけ気が楽な者であろうか。

 それを想うと、鎌倉氏は自分が世の中に何をもたらしてきたのか、そんなことを考えることすらおこがましいと言えるのではないだろうか。

 自殺をしようとしている人には何が見えるというのだろう。十万億土が見えるというのか、それとも、今よりは少しはマシな地獄が見えるというのだろうか。

 とにかく、何かから逃げ出したいという気持ちを持っての覚悟の自殺。

「人を救うと言って、宗教は何もしてくれない。自殺しようとしている人を止めることもできないじゃないか」

 という人もいるが、

「自殺というのは、宗教では禁止されている。特にキリスト教では自殺をした人間が天国にいけるということはない」

 とも言われ、ほとんどの宗教は自殺を禁じている。

 それは、まるで天命に逆らう行動だから神様が許さないのか、まるでギリシャ神話や、聖書のような話ではないか。

 しかし、それならば、皆が皆天寿を全うするわけではない。特に戦争などが起こると、人間はまるで虫けらのように殺されていく。まさに、

「この世の地獄絵図」

 である。

 しかも戦争というものの半分以上は、

「宗教がらみ」

 ではないか。

 宗教が人の間で争い、しかも殺し合いを引き起こす。元々宗教というのは、

「人をこの世の苦しみから解放するもの」

 ではなかったのか。

 それを、

「この世では報われなくても、来世で報われる。死んでから行くあの世は、天国なのだから」

 というのが、一般的な宗教の言われていることなのだろうが、どうも胡散臭くしか聞こえない。

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