第12話 礎静町の戦い ①
「…ぐす…ひぐ…ぇぅ…!」
さっきより人が増えた通りの真ん中で、麗は大粒の涙を流しながら歩いている。
その姿を不思議そうに見る者、少し心配している者、目をそらす者、煩わしそうに見る者、何も気にせずにすれ違う者、色々な反応があるが、誰一人として麗に話しかけようとはしない。
視界もボヤけまともに前も見えず、フラフラと歩き、いつの間にか街端の路地裏で膝を抱えて、壁に寄り掛かるように臀をつけて座り、顔を突っ伏して、変わらず静かに泣き続けた。
(…どうしたらいいんだろ…いくら千彩さんが強くても…数が多ければいずれ殺される…… でも私は戦えないし…親分も女将さんも諦めてる…辰之助は何処にいるかも分からないし……このままじゃ東おじさんが死んじゃう所か…親分も女将さんも……そうなったら本当に…一生この街は……どうしよう……何で私は戦えないんだろ…何の為に頑張って来たんだろ…)
もう声を出す元気も無くなった麗は誰にも気付かれないまま、拭いた傍から流れる涙を、何度も拭き続け、更なる自己嫌悪と絶望感に苛まれていく。
「……ぐす…! うぐ…!」
チリンチリン…
「!」
明るい鈴の音が路地裏の奥から響く。
咄嗟に視線を送ると、真っ黒で美しい猫が闇の中からふわりと現れ、トテトテと麗の元へ心配するかの様に近づき、傍でぺたりと座り、腰辺りをポンポンと優しげに叩いた。
「……えへへ、可愛い…」
少し涙目のまま、猫を撫でる。
人懐っこいのだろうか、逃げる気配も無く、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らしている。
「…ねぇ、もし…私が戦えるなら…この街を救えたのかな…皆を笑顔に戻せたのかな…」
猫が答える筈が無い、そう分かっているのに麗の口から独り言がポツリと零れた。
きっとなんでも良いから聞いて欲しかった。
憧れだった人の弱い部分を見て、どうする事も出来ない自分への怒りとかを、もうとにかく吐き出したかったんだと、そう自分の中で納得する。
その言葉を聞いた猫のゴロゴロ音が止まり、撫でていた手を柔らかい肉球の付いた前足で退ける。
「?」
その動きに麗は人と触れた様な違和感を感じるが、考える暇も与えずに慣れた動きで肩へと飛び乗ってきた。
「わわ…柔らかい…けど……クス…ちょっと重いね…!」
柔らかくて心地良いが、流石に成猫が肩に乗るのはしんどい。
モフモフとのお別れを惜しみながらも、両手で掴んで持ち上げると、猫がおもむろに伸ばした前足がおでこに当たる。
すると
『重いとは失礼な』
突然脳内に明るく妖しい女性の声が響いた。
「!?!?」
驚きのあまり思わず猫から手を離す、猫は華麗に着地を決めた後も変わらず麗の事を見つめている。
「何…今の…!」
頭に手を当て、怯えながら困惑している麗を黒猫は見ていたが、少し経つと突然ニャンと鳴きながら、再び路地奥の闇へと消えていった。
「着いてこい」
猫にそう言われている気がした麗は立ち上がり、恐る恐る奥へと入っていく。
大通りの光も届かない程の路地裏へと歩みを進めていく。
普段は怖くて入らないが、今日は不思議と怖くない。
何故か、と聞かれたら答える事は出来ない、それほど曖昧でふわふわした安心感が麗の心を埋めつくしていた。
チリン…
再び猫が着けている鈴の音が聞こえる。
次は地面からでは無い、少しだけ上の方から…
猫を探す為に辺りを見回しながら歩いていると、少し先に人影が居ることに気付かずにぶつかってしまう。
ドン!
「あだ!ご、ごめんなさい…!」
体格がよくしっかりとした硬さを感じた麗は、その相手が男であると理解した。
少し報復の恐怖を覚えながらも、さっと謝ってからさりげなく横を通ろうと少し避ける。
一連の流れを見ていた男は何も言わず、静かに動かず立ち続け、麗はその間も視線を感じ続けていた。
(い、いざとなれば…逃げよ…)
あとちょっとで路地を抜ける、周りの道には人が少なく、灯りも点いていないので路地裏より少し明るい程度の暗さ、相手がこの街に初めて来たなら土地勘があるから逃げられる、と自分に言い聞かせ、心の中では逃げる準備を整える。
だが、
「…おい」
「……っ…!!」
その声をきいた麗は雷に打たれたような衝撃を受け、足の動きが止まった。
低く鋭い、若さと荒々しさを感じる声は先程感じていた安心感と覚悟を容易に吹き飛ばす。
(…やばい…動けない…何で…)
「お前が…寿 麗か?」
(…私の事知ってる…!? もしかして紅重組の人…尚更逃げないと…殺され……いやきっとそれ以上に………や、やだ!動いてよ…!)
後ろからじわじわと足音が聞こえる、心臓が麻痺しそうな程に重たく、雷鳴の様な気配と共に、歴戦を潜り抜けてきたであろう男の足音が近づく。
千彩に近い…いやそれ以上の威圧感と強さを感じさせながら、一歩一歩、着実に麗の恐怖心を煽る。
「はぁっ………はぁっ………っ…!」
その圧だけで麗は息を荒らげ、脂汗を流し、足が竦む。
もうどうする事も出来ないことを悟り、祈る様に目を瞑ったその時。
チリン
後ろの方の少し高い位置から猫の鈴の音が聞こえる。
その音を聞いた瞬間、金縛りが解けた様に体が動き、咄嗟に振り返ってその男を見た。
男の左肩には先程の黒猫が乗り、少し妖しげな笑みを浮かべて見下す様な目をしているのが見える。
「その…色々と聞きたいんだが…良いか?」
「ッ!! はへぇぇ…」ペタン
その姿を見た麗は、さっきの安心感が再び心を埋めつくし、その場にへたり込む。
「おいおい、大丈夫か?」
少し呆れ気味に笑いながら、腰を曲げて少し麗に顔を近づける。
どこか少年ぽさの残る大きなツリ目に入った赤い瞳、そして紺色の短めな髪の毛。
背丈は大体、六尺程度…辰之助よりは縦横、共に少し大きく、着崩した着物の上から少し色あせて灰色っぽくなった、薄肌色の羽織を、袖を通さず肩に掛けるようにして纏っている。
そしてその背中から少し沿った細長い棒の様な物が右肩から僅かに顔を覗かせているのが見えていた。
「…ごめんなしゃい、腰抜けた」
「何でだよ…まぁいいや…ちょっとばかり話を聞かせてほし……ん?」
背筋を伸ばし、強引に話を進めようと男は口を開くが、その男の頬を肩に乗った黒猫がポニポニと突いて、話を遮る。
「……本当に良いのか?」
男の疑問に猫がコクリと頷く。
猫は完全に人の言葉を理解しており、男と当たり前の様に会話をしているその姿に麗は呆気に取られている。
「…あー、先に自己紹介しとけってよ」
「…えぁ、はい!ど、どうぞ!」
「……俺の名前は
猫の方を指さして名前を言おうとした晃次郎の口を猫が防ぐ。
「っんだよ!お前は言わなくていいのか!?言っとけよ…そういうのは先に…はぁ? …ったく…何が違うんだか…」
最初は驚きが勝っていたが少し落ち着いてから見ていると、猫と楽しげに会話している晃次郎の事を、麗は変な人を見る目で見始めていた
話し終わったのか、麗の方へと顔を向け、少し面倒くさそうに目を瞑って、ため息を零しながら後頭部を右手で軽く掻きながら、残った左手が親指で黒猫を雑に指す。
「…こいつは
黒猫の青色の瞳が麗の方を向き、優しく微笑む。
「…二人…ん?一人と一匹?」
「二人で良い」
「……何者なの…?」
「あれ?俺さっき言ってなかったか?」
晃次郎が少し間抜けな声を上げながら、猫へと顔を向けて、猫はその疑問に呆れたような顔でこくりと頷く。
「…ま…何となく察しはついてると思うが俺達は討魔隊だ、千彩の後から任務を受けてさっきこの街に着いたんだ」
「あれ?でも援軍は来ないって」
「あー?そりゃあ、あの頑固猪女の早とちりだ」
「頑固猪」の辺りで虚がペちんと晃次郎の頬を叩く。
「昔からそういう奴なんだ、弱え癖に無茶ばっかしやがる」
「…千彩さんは弱くない」
その強さの一端を見た麗は少しムッとして反射的に言い返す。
「いやあいつは弱い、少なくとも討魔隊の隊長の器じゃない」
晃次郎は麗の言葉に少しの猶予も無く、当たり前かの如くバッサリと答える。
そしてまた虚に頬をペチペチされている。
「千彩さんは強いよ!私達を守ろうと、今も一人で戦って…!」
「勝てない相手に一人で
「…っ…」
「それで勝てるんなら文句は無ぇ、だが千彩にそんな力は無い、だからこそ他の誰かを頼るべきだが…まともに戦えない奴らにそんな事は望むのは酷だわな」
「……」
「まぁ、そこまで馬鹿じゃねぇし、別に考え無しって訳でも無いだろうが…かなり無茶な賭けはしてるだろう、あいつはその賭けを制する、いわば"ツキ"が絶妙に足りてねぇ奴だ、俺達が来なきゃ死んでたろうな」
「…そう、なんだ……そうだよね…戦えないんだから…当たり前か…」
「……何でお前が落ち込んでんだ?戦えないなら守ってもらうのは当たり前だろ、少なくともあいつはその為に戦ってんだ」
「…………」
「…あぁ、これは要らねぇ事だったな……ともかく、俺はあいつが何処にいるか知りてぇ、知ってたら教えろ、てかそのまま案内しろ」
麗はへたり込んた姿勢のまま、下を向いて何も喋らなくなってしまう。
「おい、聞いてるか?虚が連れて来たから信用してるんだ、答えてくれないと困る」
「……」
晃次郎は片膝を着いて、下を向いている麗の顔を覗き込むように語りかけている。
その動きが少し視界に写り、麗は目だけを晃次郎の方に向けると、垂れた髪の隙間から、彼の腰辺りに差し込まれた脇差の柄が、羽織に隠れつつも僅かに見えた。
(……刀…)
チリン
晃次郎がしゃがむと同時に虚も彼の肩から降りて麗の横へと腰を落とし、大きく欠伸をして体を伸ばしている。
「…おい、こいつ本当に大丈夫なのか?」
ニャン!!
頭の上から晃次郎の不安そうな声と、隣からは虚の自信満々な鳴き声が聞こえるが、麗は何も言わず、晃次郎の脇差を見続けている。
(短いけど…あれがあれば…私も…)
その瞬間、意図せず脇差へと腕が伸びる。
すると…
シュバ!
「……え?」
自身も見た事のない程の速さで体が動き、気が付いた時には既に鞘から抜かれた刀身が麗の眼下に輝いていた。
「…は? え?」
全く意味が分からない、完全に無意識のうちに体が動いていた…というのはよくあるがこれは異常だと自身の行動に恐怖を感じている。
(やばい…こんなのやばい…何してるの…殺されるよ…今までとは違う…私よりもずぅっと強い人なのに…!)
頭の中で混乱と恐怖が渦巻き、持っている脇差の刀身を震えながらどうすることも出来ずにただ見ている。
「てめぇ…!」
その声を聞き、僅かに正気に戻った麗が晃次郎の方を向くと腰に差されたままの鞘を左手で握り、それを引っ張った後のような体制になりながら、僅かに敵意の籠った目で睨んでいる。
「…かなり早ぇな、何者だ?」
晃次郎が背中にかけている棒状の影を右手で握り、臨戦態勢を取る。
僅かにその右腕を上に伸ばすと、棒に窪みが現れ、中から麗の持つ脇差と同じ色の鈍い輝きがほんのりと月に照らされ、闇を微かに照らしていた。
「…っ…!」
「答えねぇか」
(殺される…!?逃げないと…)
目に映る鈍色の冷たい光が徐々に細く、長くなって行き、それと比例して麗の本能が鳴らす警鐘が心臓の鼓動となってどんどん大きな音で全身を揺らす。
「……ま、それなら…」シャキン…
長刀が引き抜かれた瞬間、麗の視界を青色の閃光が覆い尽くす。
(死…!)
麗は再び祈る様に目を瞑り、来たる数瞬後の確実な死に備え、息を飲んだ。
バチィィ!!
雷が落ちた様な輝きと何かが切り裂かれる音が聞こえる。
目を開けた麗の前には晃次郎は居らず、雷光の残穢の様な光が一瞬見えた事と、自身の首が繋がっている事を確認して再びへたり込む。
ニャンと虚が鳴いて、麗の方に優しそうな視線を向けながら悠々と横を通り過ぎ、路地の出口へと向かう。
麗はその姿を放心状態になりながら目で追い、後ろへと視界が動いていく。
そして後ろの光景を見た瞬間
「…え?」
彼女は目を疑った。
ギ………ギギ…
夥しい数の能蜂の残骸と、その先に佇む晃次郎の後ろ姿が月の光に照らされている。
落ちている首の数は、最低でも五体分はあるが、既に何体かは消えているので恐らくもっと多かったのだろう。
一体一体の手か足がもげ、胴体と首が両断されていた。
「………おい…」
「!!」
呆気に取られている麗の目の前に、いつの間にか戻って来ていた晃次郎が話しかける。
持っている刀に鍔は無く、それでいて長さは五尺近くはある程の大太刀。
その峰側を右肩へ担ぐように置き、時折トントンと煽るように当てては離すを繰り返しながら、ニカッと笑い麗に話しかける。
「手伝え!」
「え!?はい!………あ…え………何を?」
「だから、お前は戦えそうだから手伝え」
「え!?いや、私は戦えな…!」
「戦える、俺から刀を奪ったんだ、ちょっとは自信持て、ついでにそれもやるから戦え」
「そんな…急に…!」
頑なに断る麗を見て、晃次郎は困ったように頬を書いて、しばらくしてから大声で虚を呼んだ。
「……虚!俺に説得は無理だ!頼んだ!」
「はい!?」
突然の情けない言葉に戸惑う麗の顔目掛けて、虚が跳びかかってくる。
「もごぉ!?」
一瞬にして顔が柔らかいものに襲われ、それがすぐさま頭の上へと移動し、プニプニの両前足をそれぞれこめかみに当てる。
「あ、柔らか…じゃなくて何を…!」
『麗様、聞いて下さい』
「!!」
また再び、頭の中に声が直接送られてくる。
優しく、どこか妖しさと明るさを感じる綺麗な女性の声。
驚きと困惑が頭の中を埋め尽くすが、不思議と心地よく、不快感は微塵も感じない。
『まず、辰之助様と千彩様は共に金菊邸へと潜入し、交戦を始めています、私は先程そのお手伝いをしました』
「…!知ってたのに言わなかったの!?」
『名前は伝えました、だけど場所を言う前に麗様に出会ってそのまま場所を聞こうと…』
「……」
麗がなんとも言えない表情で晃次郎を見る。
「どうした?」
(この人も、大概…猪なんじゃ?)
「何だよ、その目…」
『気持ちは分かりますがそれは後で、先程金菊邸の方から異様な「音」が聞こえ、そこから幾人かが突如先程の化け物へと変わりました、既に晃次郎が多数を斬りましたがまだまだ数は居そうです』
「千彩さんと辰之助は無事なの!?」
『……そこまでは…』
「早く街の皆を…でも二人も助けないと…!」
『落ち着いて下さい、街の皆様に関して不思議な事が起こっています』
「不思議な事…?」
『はい、悲鳴もありますが、それよりも多い数の雄叫びの様な物が…』
「……雄叫び…大人数……誰か戦ってる?」
『恐らく』
「…でも…! この街でそんな戦える人…なん…て………っ!」
『…麗様?』
「…まさか…!」
キシャァァ!!
麗が何かを閃いた瞬間、突如真上から能蜂が爪を振り下ろす。
『!!』
「ふん!!」
ズバァ!
「移動する!!」ガシ!!
すかさず反応した晃次郎が叩き斬り、二人を掴んで屋根へと登った。
「話、終わったか!?」
麗の頭に乗ったままの虚は首を横に振る。
「なら早く済ませろ! 俺は金菊邸を探して先に…!」
「待って!」
『…麗様?』
「金菊邸には…私が行く」
「…やれんのか?」
「やってみせる、二人は皆…うぅん、この町を守って…っ…」
決意した麗の頬を一筋の涙が伝う。
「…お前、何で泣いてんだよ…」
「だって…嬉しくて…」
町中で聞こえる不快な羽音がこの街が地獄になり始めている何よりの証拠、であるはず。
だが、先程の虚が言ったように悲鳴は聞こえない、聞こえるのは戦いの音と老若男女を含めた奮起の叫び。
ーーこの町を守れ
全ての任侠が武器を持ち、その刃を能蜂へと振り下ろす。
いくら強い"個"であろうと、何倍もの人数差には流石に分が悪いのか、ほんの少しずつとはいえ、着実に能蜂の数が減っている。
傷付き、倒れながらも、愛したこの町を守る為、女王蜂から取り戻す為、命を捨てる覚悟で戦い続けている。
「…私達の"礎静町"が帰ってきたんだ、やっと…!」
「…よく分からねぇけど、まだ泣くんじゃねぇ、勝ってから泣け」
「…うん!」
「さてと、じゃあ…!」
晃次郎の長刀と羽織が青い雷を纏い、辺りにばら撒くようにバチバチと弾けている。
「全部叩っ斬ってやるか!!」
本物の稲光の様に爆発する様な輝きを放ち、能蜂がいる場所へと駆けていく。
「虚さんは!?」
『私は戦えないので、同じく戦えない人達を上手く誘導して少しでも安全な所に連れて行きます』
「猫なのに?」
『任せて下さい、こう見えても人の心が分かっていますので』
「わかった!」
憑き物が落ちたかの様な爽やかな声と表情で金菊邸へと視線を向ける。
「行ってくる!!」
その瞬間、麗も夜の街へと駆け出していく。
盗人の時とは比較にならない程に軽やかで靱やか、一切の怯え無く豪快に屋根の上を飛び移る。
舞うように、飛ぶように麗は走り続ける。
戦うことを決意した麗の心はかつて無い程に硬く高揚し、同時に確信していた。
この戦いの果てにきっと、自身の運命を決める岐路に立たされる事を。
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