第5話
ピアノの部屋は、あの頃のままだった。
日の光は窓の外だけにあって、室内は暗い空間が広がっている。その中にある黒塗りのピアノは、いまにも闇に沈んでしまいそうだった。懐かしげにピアノに触れる。ダーシーの白い髪も白い肌も、闇の中に浮かび上がるようだった。ピアノの蓋を開けると、白い鍵盤がたちまちに現れてくる。
篤志は椅子に座ると、少し感触を確かめるように指を乗せた。ピアノはしっかりと調律がされていた。そういえば子供の頃はダーシーとピアノ談義をしていたと思い込んでいたが、いま思うとダーシーにピアノを教えてもらっていただけだ。ずいぶんと生意気な子供だったと思う。
何度か弾いてから手を止め、最初の音に指先を乗せた。
ダーシーがいつも弾いていた曲。月光の名を持つピアノソナタが、暗い部屋に響きだした。真昼の月が、まぼろしのように立ち現れてくる。ダーシーは横で曲を聴いていた。いつも自分が弾いている曲を、他人が弾くのをどんな気持ちで聞いているのだろう。どうしてダーシーはこの曲を気に入っているのだろう。物悲しく憂いのあるような、あるいは夜闇に潜む心を癒すようなこの曲を。いつもどんな気持ちで弾いていたのだろう。
妙に長く感じた六分と少しの時間を終えると、ダーシーは静かに拍手をした。
「どうだった?」
「あの頃よりは上達したかな」
そして、相変わらずの感想を述べた。
せめてもう少しくらいは凝った事を言ってくれても良いのに。
「もっと他の曲もいろいろやったんだぜ」
「へええ。それじゃあ聞かせてみせてくれよ、その宿題を」
ダーシーはにんまりと笑ってみせた。
「いいぞ。これでもピアニストの端くれだったんだ」
そう言うと、篤志は再びピアノに向かった。
指先が、いつも以上に動く気がした。何かが吹っ切れたような気がする。やっぱりここに来て良かったと、そう思っていた。暗い部屋の中に、時に明るく、時に悠然とピアノの音が響く。
――ここにあった。やっぱり、ここにあったんだ。
日本に置いてけぼりにした忘れ物は、やはりここにあったのだ。
公演でもなく自分のためでもない、他でもないダーシーのためだけの演奏会。それはどんな公演よりも緊張したし、軽やかだった。ドイツの音楽学校で学んだどんなことよりも、自分を羽ばたかせていける気がした。
そうしてどれほどの曲を弾いただろう。
ずいぶんと長い間、続いていた気がする。
「さて、そろそろ時間じゃないか」
それでも外の光が次第にオレンジ色になりかけてくると、ダーシーは名残惜しそうに外を見た。
眩しそうに、あるいは忌避するように。
「夕暮れ時だ。子供は帰る時間だ。そしてもう、二度と来るんじゃないよ」
「ダーシー。何度も言ってるけど、俺はもう子供じゃない」
それに、まだ聞きたかった事を聞いていない。
「俺は知りたい。あの日、本当は何があったんだ。きみが俺に二度と来るなと言った日のことだ」
「……」
ダーシーは見るからに黙り込んだ。
やっぱり、何かあったのだ。
「……言ったじゃないか。食事をしただけだって」
「あんなにジュースやお菓子で釣っておいて、いまさら食事をしただけで追い出したなんて、信じられるか?」
「信じればいいんだよ。物語というのは案外あっけないものさ」
ダーシーはそこまで言ってから、少しだけ首を振ってから続けた。
「篤志。悪い子供がどうして戒められるのか、知らないはずないだろうに。……悪い大人に騙されるからさ。悪い子供は、悪い大人の餌食になってしまう」
ぐん、とその整った顔がもう一度近づいてきた。いつもピアノに向けられていた指先が、顎を小さく撫でていく。けれど、何すんだ、と振り払うことができなかった。何かが、内側からこみ上げてくる。忘れようもない感情と、抗いようのない何かを求めている。
「悪い子にならないでくれ。それを知ったら、もう戻れないんだ。僕も、きみも。二度目は無いんだ」
ダーシーも?
そう口にしてしまいたかったが、どういうわけか言葉が出ない。
「扉は開いてる。きみのやるべきことは、『介抱してくれてありがとう、見知らぬ人』と言って、申し訳なさそうに出ていくことだけだ」
「しらばっくれないでくれ」
「頼むよ。僕がきみをどれだけの思いで手放したのか、知りもしないくせに」
夕暮れはやがて沈み、夜の帳が降りようとしている。
「……やっぱりただの食事なんかじゃなかったんだな?」
「……本当に。本当に、きみは……」
室内の闇が深まった気がした。
「二度目は無いんだよ。ああ、やっぱり追い立ててやれば良かった。無理にでも追い出してやればよかったんだ。これできみは、もう二度と……」
赤い瞳の瞳孔が、縦に細くなった気がした。
「ダーシー……?」
そういえば、と思い出す。
あの日、帰ったとき。確か母に言われたのだ。
――『首筋のところ、どうしたの。赤い点みたいになって。虫刺されができてるわよ』
そんな言葉を思い出し、ふと気付いたときには、ダーシーがすぐ目の前にいた。
「夜が来る。そうなれば、もう戻ることはできない」
「構わない」
篤志はそう言っていた。
ああ、この人のことを。
「……きみが選んだことだぞ。後悔はもうできない。もう何もかも遅い」
首筋へと向けられた顎が静かに噛みついた。
伸びた牙がぷつりと肌を突き抜ける。
「あっ、くぅっ……」
思わず顔を顰める。小さな痛みだった。
その痛みも一瞬のことで、たちまちに甘い痺れに取って代わられた。蕩けるような感覚に脳がふわふわと揺らぐ。微かな熱い吐息が震え、もはやなすすべもなかった。目の前には、長くぴんと伸びた耳がある。白い髪はアルビノなんかではなかった。血が吸われるとともに内側からこみあげる多幸感。背中に添えられた手がその身を這うと、そのたびに調律されるピアノのように体が小さく跳ねた気がした。
――ああ、そうだ。そうだった。
あのときもこうして、血を吸われたのだ。崩れ落ちそうな体を、華奢な割に強い力で押しとどめられる。記憶は忘れ去られても、体は覚えていた。まだ幼いあの日にはじめて与えられた、胸が震えるようなこの悦びを。
一度だけならまだ間に合う。だけど二度目は……。
糸をひきながら、そのあぎとが離れた。
「きみはもう僕のものだ」
牙がもう一度、今度は強く首筋へと噛みつく。篤志は嬌声にも似た声をあげた。血を吸われる痛みと快感に過剰反応した体は、もはやその甘い悦楽の中に堕ちていくしかなかった。何もかもが手遅れだった。真昼の月は沈み、暗闇の中で赤い瞳が月のように輝く。脳の奥で、ピアノの音がする。その腕はもう人のためではなく、ただ一人のために捧げられることになる。ダーシーのためならそれで構わなかった。もう二度と真昼の世界には戻れなくても、それでいい。
これから何度でもこの悦びを与えられるのなら、悪くないと思った。
永遠の闇のゆりかごの中で。
真昼の月に沈む【全5話】 冬野ゆな @unknown_winter
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