第4話
篤志がはっと目を覚ましたとき、薄暗い室内にいると気付いた。
「……あ、ここは……?」
見覚えの無い、しかしどことなく見覚えのある天井。暗い色調の家の中。天幕のついた大きなベッドの上に、篤志は横になっていた。思わず勢いよく起き上がると、クラクラと目眩がした。思わずもう一度ベッドに横になる。白いシーツが妙に映える。視界もなんだか悪い気がした。いったい何が起きたのだろう。
でも、ここの事は知らないが、それでもよく知っている。ここは、ダーシーの館の中だ。
なんとか見回すと、荷物がサイドテーブルの上に置かれていた。いったい何が起きたというのか。そのときだった。突然、なんの前触れもなくガチャリと扉が開いたかと思うと、聞き覚えのある声が飛び込んできた。
「おっ。起きてる。大丈夫かい?」
「あ……」
声は明確に耳から脳を刺激した。記憶の底を揺らし、忘れ去られた泉が再び湧き上がってくる。
「外で倒れていたから心配したよ。熱中症というやつだと思う」
アルビノの髪が、揺れた。
「やあ、久しぶり。佐野篤志君」
「……、ダーシー……」
彼はどんな年の取り方をしているのだろう。いろいろと想像したはずだった。
なんとかダーシーの顔を見ようとする。
白いシャツも、首元で結んだリボンタイもそのままだった。だけれど、まだぼんやりしている。
「まだちょっとダメそうだな。無理もないか。きみ、外でぶっ倒れてたんだぜ。熱中症ってやつだと思う」
「え……、あ」
ようやく、理解が追いついてきた。
つまり自分はあの長い坂を登ることと、館を見つけたことに安堵して、じりじりと照りつける太陽に気がつかなかったのだ。そして結果的に外で倒れ、気付いたダーシーに館の中に運び込まれた……、そんなところだろう。いったい何をやっているのかと、少しだけ恥ずかしくなる。そんな篤志の心情を知ってか知らずか、ダーシーは持ってきたトレイをサイドテーブルに置いた。からんという涼しげな音を立てる、氷の入ったコップがひとつ。そして、たっぷりと水の入った透明なジャグがひとつ。
ダーシーはジャグを手にとると、コップの中におもむろに水を注いだ。
あっという間にコップの中が水で満たされ、向こう側の風景が歪んだ。
「起き上がったら飲みなよ。ゆっくりでいい。起き上がれないのなら、容器も用意しよう」
「……す、すみません……、起きられると思います。ありがとう」
「いいんだよ」
彼はあの頃と変わらぬ口調で言った。今度はゆっくりと体を起こす。
ダーシーだ。やっぱりダーシーは実在していた。あの白い髪も、そのままだ。
コップに手をかける。ひんやりと冷たい硝子の感触がした。口元につけると、喉元を冷たい水が潤していく。美味しい。水が甘いような気さえした。なんとか水分を補給したあと、今度こそはと思って、篤志はダーシーを見上げた。十何年も経っているのだ。半分は外国人だという彼はいま、どんな姿になっているのだろう。暗い室内を、視線を巡らす。
暗い光に包まれたダーシーは、記憶と寸分違わぬ容姿で笑っていた。
ダーシーは椅子を引きずってくると、ベッドの隣に置いて座り込んだ。足を組む様子も、やや尊大に思える態度も、当時のままだ。整った顔には皺一つ無い。白い髪は相変わらずきらめいて、耳を隠すほどに長い。いまなら中性的であるとも思える容姿も、口調も、何もかも記憶のままだ。
「しかし、きみはいつからそんなに悪い子になってしまったんだ。覚えてないのかい?」
ダーシーはあの頃と変わらぬ顔で尋ねた。
「悪い子って?」
「もう二度と来ちゃいけないよと言ったのに」
悪戯っぽいその笑顔も変わらない。
「もう、子なんて年齢じゃないよ。でも本当に久しぶり、ダーシー」
「年齢なんて関係ないよ。二度と来てはいけないという年上からの言いつけを破るのに、年齢は関係無いさ」
まるで言葉を遮るように、ダーシーは少しだけ厳しい口調になった。冗談なのかそうでないのか、肩を竦めている。
「いちおう聞いておくけど、どうしてここに来たんだ?」
「それは……」
どうしてと言われると、困ってしまった。
妙に喉が渇く気がした。軽度の熱中症だったせいだろうか。篤志は手に持ったコップから水を少しだけ飲んだ。
「ダーシーが……現実ではなかったような気がして」
困った末にそう答えると、ダーシーは一瞬ぽかんとしたようだったが、次第に口角をあげて笑い出した。
「ははははっ! そうかそうか、僕がねぇ」
それでも彼は記憶の中のそのままだ。
あの日に別れたすぐあと、年月を感じさせない。錯覚を起こしそうになる。
「そんなことなら、どうせ僕が二度と来るなと言った理由だって覚えてないんだろう? だからここへ来た。違うかい?」
どきりとした。
まさか向こうの方から、核心に迫るようなことを言ってくるとは思わなかったからだ。あまりの急展開で、心の準備すら出来ていない。
「覚えていないのかい? 僕らは食事をしただけだよ」
「食事を?」
「そう。けれど、知らない大人からそもそも食べ物なんか貰っちゃいけないものだよ」
そうだっただろうか。
ラムネを貰った記憶も、小さな菓子を貰った記憶もある。
何度もそんなことを繰り返したというのに。
「あなたはもう知らない大人じゃなかっただろう」
「知らない大人だよ。例え互いに名前を知っていたとしてもね。それに、きみだって引っ越しが近かったんだ。あれ以上一緒にいたら……」
続きを促すように、篤志はダーシーを見つめた。
「……離れがたくなるだろう?」
「ダーシーもそう思ってくれていたのなら、そりゃあ嬉しいけど」
篤志は笑ったが、ダーシーは微妙な顔をしていた。
自分が思っていることと、ダーシーが考えていることは違うのだろうか。
「僕としては……、はっきり言って、きみがもう一度目の前に現れたことにも困惑しているよ」
どういう意味なのか今度こそわからないでいると、ダーシーは赤い瞳でじっと篤志を見つめた。
「まあでも、いまなら熱中症の患者を緊急に手当しただけということにもできるんだよ」
「どういう意味だ?」
「まだきみを帰してやれるってこと」
「ダーシー。何度も言ってるけど、俺はもう子供じゃないんだから。自分の友人くらいは自分で選べるよ」
ダーシーはぽんと肩に手を置いた。
「いまならまだ、戻れる」
人外のごとき秀麗な顔が近づいた。ささやくような声に、びくりと肩が跳ねる。
細い指先が、トン、と小さく肩を弾く。ピアノの鍵盤に触れるような手つきで、それでいて艶めかしい。
「すべては幼い郷愁であり、美しい思い出であったと結論付けることも」
ぴんと張り詰めた糸を、指先が弾くようだった。トン、と触れては離れる指先。
「子供のように、お尻を叩かれて追い立てられることも」
指先が肩をピアノのように跳ねるたびに、体が熱くなるようだった。手にしたままの硝子の冷たさに縋る。手の中に包み込むと、その冷たさはとっくに水玉となって硝子の表面に張り付き、指先からぽたりと滴になって落ちていく。
「まだ選べる……、今ならね」
指先とともに、ささやきが遠のいていった。ただ離れただけだというのに、ひどく遠ざかったように思えた。たったこれだけの距離が。
心臓が高鳴る。音を確かめるように鳴らされた楽器のようだった。
ぽたりと膝に落ちたのは、汗だろうか。それともぴくりとも動かない手を伝っていく水滴だろうか。
ひどく高揚した。夏の蒸し暑さに逆らうように涼しいこの館の中で、かつていったい何が起きたのだろう。思い出せない。本当に食事をしただけだったのだろうか。
「まあいいさ。少し館で休憩するくらいだったらね。僕だって、病人をおいそれと追い出すことはしない」
ダーシーはそう言うと立ち上がった。
「ラムネを飲むかい? 気分が悪い時は意外に炭酸がいいんだ。いや、熱中症の時は違ったかな……」
ぶつくさ言いながら扉に向かって歩き出し、その姿は廊下の闇の中に消えていった。
篤志は手の中のコップをテーブルに戻した。手はすっかり濡れてしまっていた。一度自分の手を見てから、自分の服で拭き取った。
――彼は、変わらないな……。
あの日の続きのようだ。
彼は相変わらずこの館に住んでいたし、ラムネなんてもう何年も飲んでいないのに変わらず好きだったように感じる。この館で目覚めた時から僅かに感じている、この疼きはなんだろう。何かが頭の中で警報を鳴らしている。それでいて、抗えないほどの疼きを感じていた。
ダーシーはすぐに戻ってきた。あの頃のように、嬉しそうにラムネを両手に持ったまま。
「まだピアノは弾いてる?」
ダーシーはぷるぷると震えながら、ラムネの瓶にビー玉を落とした。それから一気に立ち上ってくる泡に口をつけて、少し慌てたように泡を飲み干す。
「いや……、本職にしようと思ってたんだけど、諦めてドイツから戻ってきた」
篤志はといえば、まだラムネを手にしたまま開けてすらいない。
「諦めるなんてもったいない! きみのピアノは……あー、まあ、それなりだったよ」
「酷いな」
はっきりとそう言われてしまうと、笑うしかない。
「でも、まだ弾けるんだろう?」
「……ああ。まあね」
そういえばここに来た理由を少しだけ思い出す。
唯一の心残りであり、引っかかり。篤志のピアノに存在すると言われた、一夜の恋のような何か。
目の前の男に恋い焦がれていたとでもいうのだろうか。そんなバカな事があるはずがないのに。
「『月光』は弾ける? きみが弾くとどうなるか、聞いてみたい」
「俺の?」
「同じ曲でも、オーケストラの指揮者によってまったく違う曲になるみたいに……、個人の演奏もそうだからね」
「言えてる」
「体調が戻ってきたのなら、永遠に別れる前に一度くらいは聞いてみたいものだよ」
篤志はすぐには答えなかった。
ダーシーはまだ、自分を引き剥がそうとしているようだった。それでもひとまずは、ラムネを飲み干してからピアノの部屋へと移動するつもりでいた。篤志はカコンッという涼しげな音とともに、ラムネの中にビー玉を落とした。
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