第3話

 それからどうやって帰ったのか覚えていない。

「おかえり。遅かったわね」

 母はあまり気にしていないようだった。

「う、うん。公園で遊んできた」

 本当は何をしてきたのか、言うことはできなかった。

 見知らぬ大人にピアノを教わったなどと言うことはできず、かといって、あのピアノの音を忘れることはできなかった。それはいまから思えば恋心にも似ていた。あの美しくもつかみ所のない男に魅了されていたのである。

 それから篤志は学校の帰りに、何度もダーシーの家に潜り込んだ。

 ダーシーはそのたびに、篤志の腕前が上がったかどうかを聞きたがった。

「きみが使っていた教材はある?」

「あるけど……」

「じゃあ、それを片付けてしまおうか。戻ってから先生もびっくりするだろうよ」

「持ってこれるかな」

「一冊ずつならランドセルに隠して持って来られるんじゃないか?」

 そう言うダーシーは、まるで悪戯でもするように笑うのだ。

 ただの小学生と、正体も知らぬ大人。明らかに健全ではなかったと思う。しかしダーシーはそんな篤志に付き合ってくれていた。来るたびに歓迎し、もはや以前からそうであったかのようにピアノ部屋へと通すのだ。

 その頃になると家のピアノにもまた向き合うようになったせいで、母にも

「そういえば篤志、最近またピアノを弾くようになったのね」

「うん。なんとなくね」

 それだけ答えておいた。

「篤志ね、最近またピアノを弾くようになったのよ」

「へえ。もう帰ったらそのまま辞めちまうかと思ったけど」

「何か弾きたい曲でもできたんじゃない? 最近流行のアニメとか、あるでしょ」

 両親のそんな会話を聞いた気がする。

 彼らからすれば、また気まぐれにはじめたのだろうくらいしか思わなかったのだろう。

 そんな両親にも、ダーシーのことは言えなかった。どういうわけか、ダーシーとの事は隠しておかなければならないと、子供心にも理解していたのだろう。知られればきっと、止められるかもしれないから。

 だから篤志は注意を払って、ダーシーの館へと赴いた。ここはピアノでなくても関係無く、いつも涼しかった。クーラーも無いのに室内はいつも冷えていた。あまりに心地が良いのでぼんやりすることも多かった。あるときなど、蚊に刺された痕をかきながらぼうっとしていたことさえあった。

「ひっかくなよ」

 ダーシーは苦笑しながら言った。

「え?」

「腕。さっきからぼーっとしながらひっかいてたぞ」

「あー。学校の帰りに刺されたんだよ。さっきまで平気だったんだけど、痒くって」

「気をつけなよ。かきむしると血が出ることもあるんだから」

「うへぇ、そうなのか。でも、痒いんだよなぁ」

 ほとんど日常みたいな会話を繰り広げるほどに、篤志はダーシーとのやりとりに慣れてしまっていた。

 ダーシーがその手を止めるように、腕をとった。

「ほら。ひっかき傷になるぞ」

 そうして、腫れてしまった虫刺されの痕をまじまじと見つめた。ひっかいた部分がわずかに赤くなっている。赤い瞳が小さな痕を見つめる。湿らすように、舌先が小さく唇を舐めた。ただそれだけの行動だったのに、篤志はなぜか体が熱くなるのを感じた。ただでさえ暑いのに――この館は涼しくさえあるのに――頬が赤くなるのを隠せなかった。ダーシーはいま何を考えているんだろう、と固まってしまう。

 けれども篤志が何か言う前に、ダーシーは腕を離してにこりと笑った。

「氷、持ってこようか。ついでにジュースも。何がいい?」

「……ほんと? ラムネある?」

「あるある。一本あげよう。みんなには内緒にしてくれよ」

 ダーシーはにやりと笑って、キッチンがあるという方向へと歩いていった。

 その何気ないやりとりが、なによりも楽しい時間だった。

 ここがいちばん居心地のいい場所だった。ここにいると緩やかに時間が流れる気がした。実際のところはあっという間の出来事で、篤志は追い立てられるように夕暮れ前には帰された。

「持って帰りな」

 まるで秘密の宝物のように、ダーシーはラムネについていたビー玉を洗って渡してくれた。

 ビー玉なんか幾つも持っているのに、ダーシーから受け取ったそれは特別なもののように感じた。

 そんな日々も、永遠には続かなかった。

 最後の日はあっけなく訪れた。

 まだ引っ越しの準備すらしていない頃である。ただそれでも、引っ越しの日時は決まった。そんな頃。

 その日、具体的に何があったのか覚えていない。ただ、篤志はいつも通りにダーシーの元へ行き、ダーシーもいつも通りに出迎えてくれた。けえれども、帰り際にこう言われたことは覚えている。

 ダーシーは妙に真剣な顔をして、篤志と視線を合わせた。

「いいかい。今日の事は秘密だ。そして、もう二度とここへ来るんじゃないよ」

 彼は確かにそう言っていた。

 だが……。

 いったいなにが秘密だったのだろうか。

「これ以上は、きみを気に入ってしまいそうだからね」

 ダーシーは意味ありげに笑いながら、篤志を送り出した。

 そのとき……、そのとき何があったのだろうか。うまく思い出せない。

 何か、ひどく背徳的な事だった気がする。それとも、まったく健全であるからこそ覚えていないのだろうか。しかしそれでもいったい何を秘密にされ、どうして二度と来るなと言われたのだろう。あまりに子供すぎて、篤志自身も何をされたのかわからなかったのか。それでも記憶にない。ダーシーのことをこんなに覚えているのに。最後にどうなったのかだけ、覚えていない。もしかしてよからぬことをされたのではないかと、要らぬ心配をしてしまう。だが、どうしても思い出せない。これっぽっちもだ。自分の中で封印してしまったのか、それとも本当に覚えていないのかさえも。

「どうしたの、篤志?」

 母親にそう問われて、なんと言われたのだろう。

「ここに虫刺されできてるわよ」

 どうでもいい事ばかり覚えているのに、ダーシーと最後に何をしたのかだけ、記憶に無い。

 結局あの後、もう一度会うことなく篤志は再び故郷へと戻ることになった。それでもすぐに元の先生のところでピアノに戻ると、まったく衰えていないどころか上達していることを褒められた。きっとあの人とピアノを弾いたからだと思ったが、先生にすら言い出すことはできなかった。まるで古傷のように残るあの出会いと別れ。奇妙な後ろめたさとともにある思い出。出会ったことすら、忘れてしまおうとした。

 けれどもそこには、忘れたくても忘れられない、甘美な喜びがあった気がするのだ――。

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