第2話

 篤志がこの町に居たのは、本当に一年だけだった。

 小学校五年の秋から六年の夏にかけてだから、正確に言えば一年も居なかったかもしれない。

 中途半端な期間だが、父親の転勤について行かねばならなかった。そうしてこの小さな町へとやってきたものの、篤志は微妙な気分を隠しきれなかった。子供というのはそういうのに敏感だ。最初のうちは転校生ということでいろいろ聞かれていたが、あっという間に取るに足らない何者かになってしまった。どうせ元の地域に戻るだけの関係だ。向こうも興味を無くしていたし、別にイジメというわけではなかったけれど、家にあがりこむほど親しくもならなかった。

 そのうえ、ピアノを弾くこともままならなかった。篤志はピアノを続けたかったのだが、結局戻ることになるからとこっちで先生をつけてはもらえなかった。独学でやってはいたものの、それでも少しぐだついた。そうして一旦ピアノから離れてしまうと、あっという間に半年ほど経ってしまっていた。子供にとっての半年は長すぎる。

 そんな頃だった。館を見つけたのは。

 夏になる少し前、少し足を伸ばしたこの高台で聞こえてきたのは、ピアノの音だった。

 ――あ、この曲……?

 いまでこそわかるその曲こそ、ピアノソナタの月光第一楽章だった。

 ピアノから離れていた心が、そっと引き戻されたような気がした。ゲームやサッカーに夢中になりはじめた篤志の心を、ぐっと引きつけるような音だった。涼しげで、そこだけ夜が訪れたような音。

 ――誰が、弾いてるんだろう。

 好奇心には勝てなかった。

 庭の茂みをかきわけ、中を覗く。窓の向こうには暗闇が広がっていた。目をこらすと、そこには髪の長い誰かが、ピアノを弾いていた。家にあったような電子ピアノではなく、黒塗りのグランドピアノだった。部屋が暗いせいだろうか。鍵盤と、白く長い髪が、妙に映えた。篤志はじっとその音を聞いていた。耳ではなく脳へと流されたような気がした。

 やがてぴたりと演奏が止まると、ゆっくりとあげられた顔が篤志を見た。目があった。赤い瞳だった。正直に言えば、この時にぱっと逃げてしまえば良かったのだ。けれども、篤志は好奇心と興味に駆られ、思わず口にした。

「お姉さん、ピアノ弾けるの」

「……ああ、弾けるよ」

 思ったよりも低い、少年のような声が出てきて驚いた。

「あと、僕はお姉さんじゃなくてお兄さんね」

「えっ」

 それほどまでに彼は美人だった。びっくりするくらいに。透き通るような白い肌に、整った顔立ち。鼻先はすらりとして、白い髪は一点の曇りもないまま長く伸ばされ、耳を隠している。年齢は二十歳前後か、二十代の前半くらいに思えたが、実際の年齢はよくわからない。とらえどころがなかった。本当に『お兄さん』なのかどうかさえ疑った。嘘をついているんじゃないかと思うくらいに。

「俺も弾けるよ」

 それもあったからだろうか。

 子供心に、対抗心のようなものが出てきたのだと思う。相手は子供じゃないのに、張り合うように言ってしまった。

「おや。それじゃお手並み拝見といこうか。そこは暑いだろう、中へおいで」

 いまから思うと、見知らぬ大人の家に入り込むなど危険極まりない。けれどもあまりに自然に招くものだから、篤志は誘われるままに中に入り込んでしまった。

 玄関から入ると、家の中は暗くひんやりとしていて涼しかった。夏のセミの声がぴたりとやんだように思えるくらいだった。中に入ると、入ってすぐのところが玄関ホールになっていた。ワインレッドの絨毯が敷かれたエントランスは、窓から光が入っているはずなのに薄暗く、まるで外界から遮断されているようだった。すぐ目の前には階段があり、左手側に向かって滑らかに続いていた。その下の空間には白い布張りのソファが二つとテーブルがあり、座れるようになっている。暖炉まであって、暖炉まであるその空間に、篤志は面食らった。モールディングされた壁は暗いチョコレート色の木材が使われていて、そのせいで余計に室内が暗く見えた。おまけに、壁につけられた蝋燭型の灯りはオレンジ色の光が放たれていて、ますます現実離れしていた。

 右手側には廊下が続いていて、そこの部屋のひとつから白い髪の男が出てきた。

「本当に入って来たんだねぇ」

 彼はおかしげに笑った。自分で招いたくせに、と篤志は少しだけ面食らう。

「知らない大人にはついていっちゃいけないと習わなかったかな……、ともあれちゃんと招かれてから入ってきただけ良い子だ」

 物腰柔らかに、それでいて少しいたずらっぽく笑う。

「まあでも一応、知らない大人じゃなくしておこうか。僕の名前はダーシー。ダーシーと呼んでくれて構わないよ。本名は灰津・D・ダンケル」

「ダンケルなのになんでダーシーなの、変な名前だし。髪の毛も真っ白だしさ。外人さんなの?」

「半分はね。真っ白なのは、アルビノなんだよ。色素ってわかるかな。それが薄いんだ。そういう特徴だと思ってくれればいいよ」

 そう言って笑う彼の目は、人外のような赤い色をしていた。

「それで、きみの名前は? 僕だって見知らぬ子供を易々と信用するほどじゃないんだよ」

「篤志。佐野篤志だよ」

 どこか対等のような空気を出されると、つい名乗ってしまった。

「……ふうん。アツシ君か。それで、ピアノが弾けると言ったよね。弾いてもらおうじゃないか」

 それでもダーシーはどことなく、生意気な子供を手のひらで転がすような態度を貫いた。篤志も挑戦的な態度で、ピアノの部屋へと自分から進んでやった。部屋の中は外から見た時のように暗くは思えなかった。

 やっぱり半年もピアノから離れた腕は、相当落ちてしまっていた。途中でつっかえながら一曲弾ききると、ダーシーはにんまりとした笑みを浮かべていた。

「なるほど、なるほど……」

「最近弾いてなかったんだよ」

「そんなのは言い訳にもならないよ。……でも、家にピアノはあるんだろう?」

「電子のやつな。それに、こっちでは先生がついてないから。俺、次の夏が終わったら地元に帰るんだよ」

「ふふふ」

 それこそ言い訳めいた篤志の言葉に、ダーシーは含み笑いをした。

「でも基本は出来てる。好きな曲はあるかい?」

 ついていた先生だって好きな曲は極力弾かせてくれていた。けれどもダーシーはもっと奔放で、自由だった。

「いいかい」

 ダーシーは篤志の肩を小さく叩いてから、隣で両手を鍵盤に乗せた。

 指先は強く、それでいてあまりに自然に鍵盤を押した。音がする。ごく当たり前のことだ。それなのに、まるでダーシーの手つきは魔法のようだった。流れるように、篤志のそれよりも緩やかにあふれ出した。ひとつひとつの澄んだ音がリズムに乗ってひとたび湧き上がってくると、留まることを知らずに流れでた。音色はとろけるように、心の中に染みこんできた。指先は軽やかで、それでいてあざやかに動き回り、鍵盤の上をいつまでも踊っていた。

 見た事がなかった。篤志はその音色に魅了されたように、いつしかピアノから目を離してダーシーを見ていた。はじめての感情だった。

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