真昼の月に沈む【全5話】
冬野ゆな
第1話
五年前、自分の音色のことをこう表現されたことがある。
「アツシ。キミのピアノはまるで、何か手に入らないものを探しているようだ」
ドイツの音楽学校でそう告げた教師は、意味ありげに口角を上げた。
「どういう意味ですか?」
「例えば――そう、もう会えない過去の恋人とか、熱に浮かされた一夜の恋のようなね」
誰か、日本に残してきたんじゃないか。教師はそう言いたげだったが、篤志にはピンとくるどころかむしろ狼狽えたように苦笑するしかなかった。それほどまでに恋い焦がれた相手を残してきた記憶は無かったからだ。けれども教師の告げたその例えは、まだ若い篤志の心に暗い影を落とした。
そんな相手はいないが、ひとつだけ引っかかったものがあった。
それからの篤志の音色は、その引っかかりを取り払う事だけに専念された。ひとつだけ思い当たる節を必死になって否定しようとした。頭の片隅から追い出そうとした記憶は、自分ひとりだけでは処理しきれなかった。これが、ピアニストになるという夢が道半ばで折れるひとつの要因であったことは、間違いない。
それから五年の月日が経った。
久々に踏んだ日本の地は熱に浮かされたように蒸し暑かった。
「うわぁ、暑……」
藪を飛び回る蚊に刺されないうちに、佐野篤志は先を急いだ。緩やかな坂道は少しずつ体力を削り取り、日の光は肌を刺してくる。あたりの住宅街は昼間ということもあって静まり返っていた。この日差しのせいもあってか、セミの声すら聞こえない。照りつける太陽は、幻聴のようにじりじりという残響を刻みつけてくる。ドイツも八月は暑かったが、ここまでじゃなかった。とはいえドイツはクーラーが無い場所もあったから、その点においては日本の方がまだマシだ。篤志は汗を拭うと、シャツの首元を軽くパタパタと動かした。
「日本の夏って、こんなに暑かったっけか……」
篤志が懐かしくも苦々しい気持ちで日本に帰ってきたのは、少し前の事だ。
べつに、ピアニストの夢を完全に諦めたわけではない。だが自分の腕がどうこういう以上に、流行病によって公演が出来ずにどうにもできなかったという不運さも手伝った。活躍の場を動画サイトに移すという手もあったはずだが、篤志は舞台での公演に拘ってしまった。気がついたときには名前を売ることすらできず、収入も底をつきはじめていた。結局、日本に帰る決断をしたのはそのせいもある。実家に戻ってもいいと両親は言ったが、篤志はその前にやらなければいけない事がひとつあった。
父親の仕事の都合で、たった一年だけいた小さな町。篤志は小さなアパートを借りて、そこに移り住んだ。篤志にはここで確かめることがあったからだ。
町の様子は当時とは一変していた。記憶にあった古い小さな店はとっくに閉められて、見た事もない住宅に変わっていた。国道沿いの道は歩道が整備されて、きちんとガードレールが付けられている。藪が広がっていた駅裏の古い家は取り壊されて、広い駐車場のあるコンビニが建っている。そうかと思えば、古いコンビニは取り壊されて違う店が建っている。わかっていたことだが、当時とは町並みも変わってしまっていた。記憶から大きく様変わりした町の中で、見覚えのあるのはほんのわずかばかりだ。小学校や、その近くにあった小さなスーパー。神社は藪が消えて駐車場が出来ていたものの、場所が変わったわけではない。篤志が登っている坂道は、そんな見覚えのある景色のなかの一つでもあった。
――俺の記憶が間違ってなかったら、この先にあるはずだ。
住宅街を抜けて、高台へと向かう。
――館が、いまもまだ存在するなら……。
掬い上げるほどにおぼろげな記憶を頼りに、道を進む。
その住宅街からも少しずつ離れ、高台が見えてくると、篤志は少しだけ呆然とした。
「あった……」
思わずそう口にしていたほどに。
町並みとは一線を画した、白いレンガ造りの二階建ての大きな館。館を囲む庭は茂みで覆われていて、血のように真っ赤なバラが咲いている。なにもかもあの頃のままだった。ほとんどが変わり果ててしまった町の中で、ここだけが時に置き去りにされたようだった。子供の頃の記憶は正しかった。ばかみたいに口を開けたまま館を見ていると、聞き覚えのあるピアノの音が聞こえてきた。
ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番、月光第一楽章。
どくんと心臓が高鳴った。
なにもかもが記憶通りだった。かつて小学生だった自分は、確かにここでピアノソナタの月光を聞いた。
夏の暑い日差しの中、仄暗い窓の中を想像してしまう。
――これ以上は……。
何かが自分を引き留めようとする。けれども足は、音の方に向かってしまった。目線がその先にあるものを見てしまう。茂みの向こうで、たったひとつ開かれた窓。外側に向かって開けはなたられた向こう側は、妙に暗い闇が見えた気がした。そんなところも記憶のままだ。太陽の熱が照りつける中、暗い室内からピアノの音が大きくなる。その指先が想像できるようだった。見えない指先が背中をなぞったように、ぞくぞくと体が冷えていく。仄暗い曲調はやがて待ちかねたように少しだけ明るくなる。
暗いその先に、白いアルビノの髪の毛が見えた。一人の男がそこにいた。憂いを帯びた表情で、指先が鍵盤から音を奏でる。
「……ダーシー」
苦い痛みとともに、その名前が口から出た。何もかも当時のままだ。時が止まったみたいに。
篤志がダーシーと呼んだ男の指先が、鍵盤の上を優しく叩いていく。
クラクラとするのは、日差しにあてられたからか。それとも、この音楽が古い記憶を呼び覚ましたからなのか。篤志はフラッシュバックした古い記憶の中へと誘われるように、目を閉じた。
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