凛と張る(2)

 依弦と顔を合わせ辛いなと思って迎えたいつもの練習。心なしうつむき加減で挨拶を交わしていく。一通り挨拶を終えたが、依弦はいなかった。安心して顔を上げたその時だった。

「矢田さん。お疲れ様です」

 と、背後から声をかけられた。ドキリと心臓がはねる。恐る恐る振り返ってみるとそこには依弦が立っていた。いつも通り姿勢が良く、表情が読めない眼。

「ふ、古市さんお疲れ様です」

 かろうじて弓子が返事を返すと、そのままふいと視線をそらして巻藁の方へ行ってしまった。それを見た弓子は拍子抜けすると同時に普通だ、とホッと息をついた。

 その日の練習はつつがなく終了した。練習の終わりに道場の先生から連絡事項があった。どうやら来月の日曜日に他の道場と合同練習を行うらしい。毎年恒例とのことだ。交互に主催を務めており、今年は弓子が所属する道場が場所を提供する番ということだ。弓子にとって弓道を再開してから初めての対外試合だ。同世代の弓道仲間が増えたら良いなと楽しみだった。

 練習後の後片付けも終わり弓子が帰宅しようと道場を出た時だった。

「矢田さん」

 高すぎず低すぎない、スッと通る声。大声で呼びかけているわけではなかったが、皆が帰り支度でバタバタしている中でもその声はかき消される事は無かった。この静かでいて力強い声で呼びかけられると心が掴まれた感じになる。弓子はどうしても無視することが出来なかった。足を止めて声のした方へ身体を向ける。そこには帰り支度を済ませた依弦がいた。

「古市さん、お疲れ様です。どうされましたか?」

 社会に出て身につけた営業スマイルを貼り付けて返事をする。まるで、この前の事は微塵も気にしていませんと言うように。

「え、いえ、あの、一緒に駅まで行きませんか?」

 依弦は声をかけたものの、弓子の予想外の反応に驚いたようだった。弓子の方もどうしたんだろうと思った。彼女の中ではあの帰り道の時の事はもう終わったことで、これ以上どうこうしようというつもりは全くなかった。でも、弓子は依弦ともっと話をしてみたいと思っていた。

「いいですよ」

 そう答えたものの、実際に並んで歩いてみると何を話したらいいのか分からず沈黙が二人の間に降りる。車道を通り過ぎる車の音と時折聞こえるクラクションの音。前の事で少々の気まずさはあるものの、依弦との二人で歩くのは何も話さなくても弓子にとって居心地の悪いものではなかった。

「来月の対外試合、楽しみですね」

 ポツリと依弦が言った。弓子は隣の依弦を見る。普段表情を余り変えることのない彼だが、声から楽しみだという気持ちが伝わってきた。

「そうですね、私も楽しみです」

 弓子の方も学生時代に対外試合を何度か経験したが、あの心地良い緊張感が漂う場所が好きだった。もう一度あの場所に立てることは楽しみだ。でも怖いという気持ちもある。自分に的前に立つ資格はあるのだろうか、それは弓道を再び始めた時から思っていたことだった。自分自身と向き合うことがまだ出来ていない。弓を引くのは楽しい、でも今日の稽古では今まで避け続けてきた学生時代に解決できなかった問題と直面することになって、純粋に弓を引くことに集中できない自分がいる事も確かだった。このままだとあの時の様に中途半端なまま再び逃げ出すような事になるかもしれないと弓子は思った。それではまた弓を手に取った意味がない。どうにかしなければ、でもどうしたら良いのか弓子には分からなかった。

 それから、弓子と依弦は時間が合えば一緒に帰るようになった。会話が多いわけではなく、ただ隣を歩く。時々思い出したように依弦が話題を振って、弓子がそれに答える。逆の時もあった。二人の間に横たわるのは完全な沈黙ではなく、時折横を通り過ぎる車の音や道行く人の声が混じっていた。そのおかげか気まずくなる事はなく。ほどよい距離感を保って二人は接することが出来ていた。話の中では弓道の事だけではなく、お互いの仕事やプライベートの事等も話をするようになっていた。依弦は弓子と同年代である事、依弦は普段は情報系の仕事でシステムエンジニアをしていること。依弦は猫が好きだが猫アレルギーで触れなくていつも寂しい思いをしていること。意外と正座が苦手でいつも足が痺れること。それを聞いた時は思わず笑ってしまった。依弦のいろんな事を知っていける、それは弓子にとってなんだかくすぐったい思いがした。弓道関係で友人が出来るのは何年ぶりだろうか、とても嬉しかった。

 対外試合があると言うことで、少しばかり緊張感のある練習が一ヶ月続いた。そして当日はホスト側の弓子達は準備で朝早くから大忙しだった。道場の掃除、安土の整備、更衣室・休憩室の手配などだ。

 午前十時を過ぎた頃に来客がぞろぞろとやってきた。お出迎え、ご案内にまた弓子達はバタバタしていた。年配の先輩は顔見知りが多いらしく、久し振り、等と話していた。なのでもっぱら動くのは下の弓子達になっていた。依弦も忙しくしているようであった。準備に夢中だった弓子は来客の中から向けられる視線に気がつかなかった。

 来客が一段落付き、弓子達も一息ついた所だった。弓子は後ろから一人の女性に声をかけられた。

「貴方・・・・・・、矢田さん?」

 弓子の心臓が跳ねた。今まで忘れていたけれど、声を聞いただけで記憶が鍵をかけた箱から引きずり出されてきた。忘れることが出来ない、弓子の頭の中に鮮明に映像が浮かび上がる。日が照って暑い体育館裏にある弓道場。踏み入れた途端に自分に向く冷たい、ここにはお前の居場所などないのだという視線。断罪されるためにあの人達の元に向かう自分。

 横にいた同じ道場の人は弓子がなかなか返事しないのを不思議に思っていたが、二人にした方が良いいと思ったのか、先に行ってるね、と行ってしまった。しばらく、二人の間にどす黒い沈黙が降りる。話することは何もないので、そのまま軽く挨拶して立ち去ろうとして口を開いた時だった。

「なんで、弓道着を着ているの? まさか弓道を続けているの?貴方が?」

 なにも言えなかった。何か話そうとしたが口をパクパクするだけで声が出てこない。そんな弓子を見て、相手はあざ笑って言った。

「あんな、みんなに迷惑をかけるような辞め方をした貴方が、よくも再び弓道を始められたわね。私なら恥ずかしくてもう二度と弓を手に取ることなど出来ないわ」

 もう、話すことが出来ずに口を噤んでしまった弓子に相手は苛立ったのか、口調を強めて言ってきた。

「なにか、言うことはないの? あなたって・・・・・・」

「どうかされましたか?」

 彼女の言葉を遮って、静かな声が間に割って入った。依弦の方をみた彼女は丁度良いものを見つけたような表情になった。

「貴方ってこの人と同じ道場の人? この人最低だから余り関わらない方が良いわよ」

「早く準備しないと試合が始まりますよ」

 淡々と言う依弦に彼女は気圧されたのか、弓子をひと睨みして行ってしまった。

 彼女が去っても俯いてその場を動かない弓子に、依弦はどうしたものかと思った。何か言葉をかけなくては、しかし何て? 頭を悩ませていたら、弓子が不意に顔を上げた。

「申し訳ありません。見苦しい所を見せてしまいました」

 弓子は苦笑いのような表情を浮かべて言った。依弦にこれ以上はなにも聞いてくれるな。そう言っているようだった。依弦は何も聞いていない、知らない風を装うしかなかった。

「さがしましたよ。さあ、もうすぐ試合が始まります。いきましょう」

 依弦に促されて、弓子はようやくその場から動くことが出来た。


 その日の対外試合は楽しみにしていたはずなのに、弓子にとって一気に色がなくなった。さっき言われた言葉が頭の中を巡る。目の前の的に集中できない、射形が乱れる。

 矢こぼれ(矢を番えた後、離れの前に矢が弦からはずれること)を起こす。会を十分に維持できずに早気(「会」の状態を十分に維持しないうちに矢が離れること。また、「会」

入る前に離れること)になってしまう。

 その試合での最後の一射、引き分けが終わり会で狙いを定めている時だった。

『あなたに弓道をする資格なんてないくせに』

 その瞬間、芝を矢が滑る音がした。掃き矢(引いた矢が的の前の地面を摺って安土に届くこと)だ。弓子は離れの姿勢のまま呆然としていた。

「矢田さん!」

 と小さく後ろから声をかけられてはっと我に返った弓子は急いで弓を倒し、的前から辞した。

 その日の弓子の射形は崩れ、成績は散々だった。上級者達からも注意散漫だったと注意をされてしまった。後片付けの間も、弓子は何も喋ることはなく黙々と手を動かしていた。時折、弓子のことを心配してか道場のみんなは、緊張した? 初めてだったもんね、とか話しかけてきてくれたけれど、弓子は俯いて簡単な返事をするだけだった。

 帰りも彼女と鉢合わせになるかもしれないと弓子は怖かったけれど、弓子はお見送りはせずに片付けに没頭していたので彼女は既に帰った後であった。弓子はホッとした。

 その日は試合後に打ち上げと称して食事会が開かれる予定である。だが、弓子はそれに参加する気力がもう無かった。早々に着替えた弓子は帰ろうと道場の玄関をくぐったその時だった。

「矢田さん」

 と、依弦に話しかけられた。

「古市さんお疲れ様です。ではまた」

 弓子は挨拶の言葉だけ言って依弦の横を通り過ぎた。依弦は何か言いたそうにしていたが、彼と視線を合わそうとしなかった弓子がそれを知ることはなかった。

 その晩弓子は日が暮れても部屋の電気をつけず、窓から差し込む街灯と月の光の下でぼーっとベッドの側に座っていた。洗濯して干してある弓道着が視界の端に映る。ゆるゆると弓子は弓道着に視線を移す。今日、彼女に言われた言葉が頭の中をよぎる、それと同時に過去の記憶もリピートされる。

『私って、今は何のために弓道しているんだっけ? 大学の時に中途半端でやめて心残りがあったから?』

 弓子は弓道が好きだった。だから社会人になって再会した。けれども、過去のことに向き合っているかと言われればいつまでも逃げていたのだ。今回も逃げるのだろうか。知られたくないことを依弦や道場の人達に知られて顔を合わせづらくなってやめるのだろうか。道場に足を踏み入れた時に向けられる視線が怖かった。

『そんな人だなんて知らなかったです』

 そう言って依弦に軽蔑されることを想像して弓子は背筋を震わせる。

 夜が深くなり、静けさが周囲を飲み込んでいく中で弓子は膝に顔を埋めた。どうすれば良いのか分からないまま、夜が更けていった。


 対外試合のあった日曜日から二日経った。仕事で弓道のことを頭から追い出しても練習日が近づくにつれて不安は大きくなっていった。どうしようか、休もうか?でも休んでも問題は解決しないことを弓子は分かっていた。一回休んでしまうと次が更に行きにくくなることも知っている。そんなことを延々と考えながら迎えた水曜日の仕事終わり。まるで戦場にでも行く面持ちで弓子は会社を出た。いつまでもうだうだと考えていても仕方が無い、行くだけ行ってあたって砕けたらそれまでだと弓子は思った。弓道着が入った鞄がやけに重たく感じた。

 道場について着替える。いつもと同じようにと自分に何度も言い聞かせて、挨拶の言葉を口の中で繰り返す。

「こんばんは、お疲れ様です」

 まだ練習は始まっていなかったので、弓子の挨拶は生徒達の会話に溶けていった。顔見知りが弓子に気づきいつも通り挨拶をする。

「矢田さん、こんばんわ」

 後ろから声をかけられた。振り向かなくても分かる、依弦だ。恐る恐る振り向いてみたら、やはりそこにいたのは依弦でいつもと同じ感情が余り読み取れない表情ではなく、また軽蔑とは違って、心配そうな少しホッとしたような表情をしていた。

 変わりない。何も変わらなかった。

 その事実が弓子を心底安心させた。へなへなと膝が崩れそうになるのを堪えて弓子は笑いながら言った。

「古市さん、こんばんわ」

 弓子が笑ったのを見て、依弦の表情も和らいだ。

 その日の練習がつつがなく終わり、生徒達が帰る時間となった。ぞろぞろと玄関から出てくる人の中に弓子は依弦を探していた。大部分の生徒が帰って人がまばらになってきた時だった。まだかな?と思う弓子の視界に姿勢の良い長身が映り込んできた。依弦だ。

「あ、古市さん。練習お疲れ様です」

「矢田さん!矢田さんも練習お疲れ様です。どうされたのですか?」

 声をかけた弓子に、依弦は女の子がいつも素敵と言っていた柔らかい笑みを浮かべながら言った。そんな依弦に弓子は彼に恋愛感情はないのにドキッとしてしまった。

「いえ、一緒に駅まで帰りませんか?」

 弓子がそう言うと依弦は少し驚いたような、きょとんとしたような表情になった。みなが表情が読めなくてミステリアスとか言ってときめいているけれど、弓子はよく接してみれば依弦は無表情ではないと思うようになった。話しかけづらいこともない。弓子は人の噂はあてにならないものだと思った。

 弓子と依弦はいつもの道を並んで歩く。二人の横を通り過ぎる塾帰りの学生達のおしゃべり、車が通り過ぎる音ともにライトで道路側を歩く依弦の端正な横顔が照らし出される。二人は何も喋らない、初めはこの沈黙が弓子にとってどうしたら良いのか分からなかったが、今となってはお互い気が向いた時にぽつりぽつりと話を切り出す事に気まずさを感じることはなく依弦とゆっくり歩く時間を楽しんでいた。今日は依弦が弓子が話を切り出すのを待っていた。弓子は一つ深呼吸をして口を開いた。

「私、大学生の時に二年間弓道をしていました。この前の対外試合の時に私と話していた人はその時の同級生です」

 弓子はその当時の事を依弦に話していった。依弦は口を挟むことなく静かに聞いていた。

「私は弓道が嫌いではありませんでした。もう一度あの場所へ、的前へ許されるのであれば戻りたかったです。でも私は的前に立っておきながら、あの時の出来事にいつまで経っても向き合えていない。逃げ回っています。それでは解決しないのに」

 弓子が話し終えた時。二人は道場の最寄りの駅に着いた。依弦が足を止める。弓子も立ち止まった。どうしたんだろうと思って依弦の方を見ると、彼は弓子を真っ直ぐ見つめていた。黒い瞳、じっと見つめていたら吸い込まれそうだった。依弦は淡々と言った。

「向かい合っていると思います。だから、今それだけ辛いのではないですか?どうにかしたいと思わない人はさっさと忘れて無いことにしますよ。でも貴方は忘れなかった」

 そう言われて、何かが弓子の中でストンと落ちた気がした。

「貴方はその人に謝りたいんですか?償いをしたいのですか?」

 依弦の言葉に弓子は首を振る。違う、そんなことをしたいのではない。今更、謝罪も贖罪も意味は無いことを弓子も分かっていた。

「私は・・・・・・ただ、同じ過ちを二度とおかしたくない。ただそれだけです」

「弓道は中り外れが全てではない、型を通して自分を見つめる競技でもあります。これからも弓を通して自分の行いを見つめ続ければ良いのではないですか?」

「・・・・・・」

「じゃあ、僕はこれで」

 依弦は自分が言うべき事は言ったと思ったのか、なにも言葉を持たない弓子に背を向けて駅の改札に行ってしまった。彼の姿は人混みにのまれてすぐに見えなくなった。

 しばらく雑踏に突っ立ったままだった弓子は、誰かの肩がぶつかったことで自分が道の真ん中にいることに気づいた。このままいても仕方がない。弓子は足を一歩踏み出して帰路についた。

 

 週末の金曜日。仕事を終えた弓子は足早に退社する。

 向かうのは郊外にある弓道場。

 白い道着に腕を通し、袴を着る。道場に足を踏み入れるとほどよい緊張感が肌を撫でる。基礎練習をして弓の準備をする。その際中に的前へ入る直前の依弦と眼があった。会釈をすると同じく彼も挨拶を返してくれた。

 弓子の順番が来た。一つ息を吸ってスッと的前に足を進める。

 矢をつがえ、引き分ける。限界まで引き絞られた弦がキリキリと鳴る音が聞こえた様な気がした。会で的を真っ直ぐ見つめる。

 静かに弦を離す。矢が的に向かって空気を切って飛んでいく。

 

 たーん。


 道場に音が静かに響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凛と張る 東雲 @masashinonome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る