凛と張る

東雲

凛と張る(1)

 射場を静寂が支配する。何か音をたててしまったら、キリキリと引いた弦がはじけそうだった。その一瞬の空気が好きだった。ただひたすら弓を引く自分と向き合う。そのはずだった。それができなくなったのはいつだったっけ。


 社会人になって少し時間的、金銭的に余裕が出てきたら。何か習い事してみたくないですか? そんな話題が持ち上がった時があった。矢田(やた)弓子(ゆみこ)は資料を作っていた手を止めてその話に耳を傾けていた。大人になってから習い事をする多くの人の理由としては人生を豊かにするため、新しい出会いを求めて、ストレス発散にと様々だ。あれをしたい、これをしてみたいと盛り上がる人を横目に弓子はため息をついた。

「お疲れ様です」

 弓子は仕事をさっさと切り上げて帰宅の準備をした。いそいそと帰る弓子を見て、同僚は珍しいと思い声をかける。

「矢田さん、今日はどうしたの? 急いで帰るなんて珍しい。何か用事でもあるの?」

 その問いかけに。急いでいた弓子は手短に答えた。

「そうですね。まぁ、ちょっとした用事です」

 もうちょっと何か聞きたそうにしていたが、弓子は気にせず『お疲れ様です』と背を向けた。職場のビルを後にして電車に乗る。丁度帰宅ラッシュの時間だ。一日分の疲れを背負った人々の波にもまれて更に疲労感が溜まる。都会からベッドタウンへ向かう電車の中、普段降りるのとは異なる駅に降り立つ。夜の帳が降りて、街灯が静かに道路を照らす。人気のあまりない通りを弓子は足早に歩いて行く。しばらくしたら、明かりが灯るとある建物の前に着いた。そこには『弓道場』の看板があった。

「こんばんは」

 と挨拶をして弓子は中に入っていく。そう、弓子は半年前から水曜日と金曜日の週二回の仕事が終わった後、十九時半からここの弓道教室に通っていた。更衣室で道着に着替える、白い上衣を着るとそれだけで気持ちが引き締まる感じがした。入口で上座に向かい一礼して入る。肌を撫でるほどよい緊張感が心地良い。道場の人達と挨拶を交わしながら準備をする。まず、自分が使用する弓に弦を張る。その間に首回りや腰回りのストレッチ、手首を回したりと準備運動をしていく。それが終わったら次は弦を張った弓で素引きの練習だ。弓を引く時の基本動作である射法八節を確認するように引いていく。

 一、足踏み。足を開き、正しい姿勢を作る。

 二、胴作り。弓を左膝に置き、右手は右の腰にとる。

 三、弓構え。右手を弦にかけ、左手を整えてから的を見る。

 四、打起し。弓構えの位置から、そのまま静かに両拳を同じ高さに持ち上げる。掬い挙げる気持ちで軽く挙げる。高さは額よりやや上。

 五、引分け。打起こした弓を、左右均等に引分ける。

 六、会。引分けが完成し、心身が一つになり、発射のタイミングが熟すのを待つ。

 七、離れ。胸郭を広く開いて、矢を放つ。

 八、残心。矢が離れた時の姿勢をしばらく保つ。射の総決算である。

 素引きが終わったら。次は的ではなく巻藁の前に立つ。実際に矢を番えての練習だ。通常の的は二十八メートル先にあるが、この巻藁は約二メートルの距離。この巻藁練習で矢を放つ感覚を覚える。巻藁練習を終えて初めて的前に上がることができる。

 弓子が一通りの練習を終えて一息ついていると、まさに今から的前に立とうとしている青年と眼があった。彼が軽く会釈をしたので、弓子も返す。そのまま彼、古市(ふるいち)依弦(いずる)は視線をすいと的の方へ向けてしまった。皺一つない道着、ピンの伸びた背筋。動作の一つ一つを丁寧に行っていく。会の時に的を見つめるきりとした眼が格好いいと弓子は思っていた。ずっと見ていたいと思ったが、的前に立つ順番がもうすぐ来ることに気づき急いで弓の準備を始めた。弓の用意ができて、心の中で弓を引く動作を繰り返す。また、引いている時には自分の姿勢などは見えないから、他の人がどういう風に引いているのか動作を確認する。さて、もう一度依弦に視線を移そうとしたその時だった。

 パチパチパチ。

 静かな射場に拍手が湧いた。

 皆中だ。それは一立ち(四射)中、四射とも的に中る事を言う。達成した場合は敬意を表して人々は拍手をする。

 皆中を達成したのは依弦だった。全ての矢を中てるのは難しく、下手に的や中りを意識した結果、射形が乱れることがある。周りの興奮を余所に、残心を終えた彼は表情を変えることなく淡々と弓倒しをする。そして一礼して的前から退いた。おもわず弓子は依弦の姿にほうとため息をついた。周りの女子を見ると、弓子と同じように依弦の姿に見とれていた。

 いよいよ弓子の順番が来た。深呼吸を一つして的前に足を進める。いつもここに立つ時は緊張する。ただ単に動作を流すのではなく、射法八節を一つずつ自分の中で確認しながら進めていく。引分けをする時に手に力を入れすぎず身体を開くようにして弦を引く。身体にかかる重たさが心地良い。会で息を整える。狙いを定めて弦を離した。

 パーン

 矢が的に中る音が響く。よし、と弓子は心の中で思った。だが、満足のいくものではなかった。二本目三本目と修正をかけながら引いていく。変に力が入ってしまったのだろうか、四本中二本的中の結果だった。的前から退くと弓道場の先生が弓子に先ほどの射形について指導をしていく。特に弓子は引き分けの時に手首に力が入ってしまう様だ、自分でも注意をしているつもりだがやはり見てても分かるらしい。どうしたら良いだろうかと弓子は試行錯誤を繰り返しながらその日の稽古をこなしていった。

 夜も深まる二十一時頃、この時間帯の稽古は仕事帰りの社会人が多いので皆疲れてきているのだろう。そろそろ片付けの時間になった。弓子は射場の掃除、的がある安土の整備を手伝い終わってから、更衣室に戻る。着替え終わってさぁ帰ろうと道場を出ようとしたら丁度出入り口で依弦と遭遇した。

「あ、古市さん。お疲れ様です」

「矢田さん、お疲れ様です」

 依弦は余り話をするタイプでは無いようで、挨拶をしてすぐに出口に足を向けた。慌てた弓子は、話をするチャンスと思って後を追う。どうやら彼は弓子と同じく電車で帰るようだった。特に依弦が嫌がる様子もなかったので弓子は彼の横に並んで駅までの道を歩いた。特に話題も無く二人の間には側の道路を時折車が走り抜ける音以外は沈黙が横たわっていた。折角の機会、何か話をしなければ。と思って必死に話題を頭の中でさがす。ふと、今日の皆中のことが頭をよぎった。

「今日の皆中、凄かったですね」

 そう弓子が言ったが、依弦は何の反応も示さなかった。

 二人とも何も喋らない。先ほどと同じように静けさがその場に降りる。

「そんなに凄いことでもないですよ」

 沈黙を破るように、依弦がぽそっと言った。

「そうですか? 古市さん先生みたいに凄い綺麗に弓を引くので、いつも見てます」

 弓子がそう言うと、また会話に間が開く。言ってから弓子はまずかったかなと思った。今の言い方ではいつも見ていますと言っているようなものだ。引かれると心配になった。

「あ、ありがとうございます。でも、僕もまだまだですよ」

 しかし、少し戸惑い気味の返答が返ってきて、彼の顔を見てみれば照れくさそうな恥ずかしそうな複雑な表情をしていた。弓子は少しおかしくなってふふっと笑った。普段無表情な依弦でもよく見てみれば色々な表情があるのだろうなと思った。

「矢田さんも慣れてきましたか?」

「はい、やめてから随分と経ってしまっていて心配でしたが、弓道場の雰囲気にだいぶ慣れてきました。またあの場に立てるのは嬉しいです」

 落ち着いた声のトーンが耳に優しい。もっと話していたいと弓子は思った。

「そうですか。そういえば、今度皆さんと一緒に弓道具店に行くんですね。弓を買うのですか?」

「いえ、違います。矢を買いに行こうと思って」

 そう答えた弓子に依弦は意外そうに言った。

「あれ? 矢はご自分のではなかったのですか?」

「そうなんです」

「経験者なので、矢はお持ちかと思っていましたが」

「実は、捨てちゃって」

「え?」

「以前やめたときに、弓道具一式捨ててしまいました。道着も矢もかけも全て」

 あはは、と笑いながら弓子が言うと、依弦は立ち止まった。弓子もつられて足を止めた。何事と思って依弦を見ると、彼は帰り道で初めて弓子と視線を合わせた。何が言いたいのか表情が読めない眼。見つめられると黒い瞳に吸い込まれそうな、心の奥をのぞき込まれそうな感覚がした。どきりと弓子は心を震わせる。視線が合ったのは二、三秒であったが弓子にとってはそれよりももっと長い感じがした。目線を合わせたまま依弦は言った。

「弓道が好きなのに、なぜ道具を捨てたんですか?」

 そう言うと依弦はまたふいと眼をそらして歩き始めた。弓子は何故かしばらくそこから動けずにいた。責められた、心の奥底に沈めてあった何かを掴まれた気分だった。弓子は何も言えなかった。反対方向から来る車のライトが弓子の顔を照らす。眩しさで我に返った弓子は、小走りで依弦を追った。再び横に並んで歩くが二人とも何も喋らない。先ほどと同じように静けさがその場に降りる。駅に近づいてきたのか喧騒が弓子と依弦を包む。駅の改札に着いた。ここで二人は別れる、乗る電車が逆向きだからだ。どうしようと弓子が思っていると、先に口を開いたのは依弦の方だった。

「先ほどは申し訳ありませんでした、失礼な事を言いました」

 頭を下げて言う依弦に弓子は慌てた。

「いえ!大丈夫です。気にしないで下さい」

 なぜか依弦の眼を見れない、俯きながら弓子は言った。

「では、また今度の練習で」

 そう言って、弓子は依弦に背を向ける。彼は何か言いたそうだったが弓子はもうこの話は終わりにしたかった。ホームに降りるとすぐに電車が来た。通勤ラッシュの時間は過ぎているはずなのに、人が多い。『なぜ道具を捨てたのですか?』依弦に言われた事が心の中で繰り返される。ドアに自分の顔が映っているのが眼に入った。映った顔の輪郭を指でなぞる。その顔が歪んでいるのは分かっていたけれど眼をそらして見えない振りをした、するしかなかった。

 帰宅した弓子は荷物を放り投げてベッドに横になる。楽しく依弦と話をしていただけなのに、なんであんなことになったのだろうか。そういえば、今の道場で弓道を再開してから昔のことを詳しく聞かれる事はなかった。弓子自身避けていた。それらしい話題になったら笑って誤魔化していたのだ。でも、今日の依弦は誤魔化されてはくれなかったようだ。静かに沈んでいる海底の砂が何かの拍子に舞い上げられるように、心の奥底にある記憶がよみがえる。

 弓子は過去に二年間だけ弓道をしていた。大学時代に部活の説明会で袴姿が格好いいと憧れて弓道部に入部したのだ。練習は厳しかったが、徐々に的に中ることも出てきたので弓道は楽しかった。矢が的に中らない時は自分の射形に何か問題がある、自分を見つめ直しながら弓を引いていく過程が好きだった。

 だが、弓子はどうしても部活の中で好きになれないものがあった。体育会系によくある上下関係はまだよかった。だが、強制参加型の飲み会がどうしても好きになれなかった。弓子は飲むのであれば飲みたい人でどうぞ、潰れるなら一人で勝手に、というタイプだった。また、上の人に強制されて飲むお酒なんて嫌だと思っていた。一気なんてもってのほかだ。カラオケのオールもそうだった。言ってしまえば体育会系のノリが駄目なんだろう。あと、弓子はバイトをしていた、大学は私立であったため、遊ぶお金や携帯代、通学費、教科書代は奨学金とバイト代でどうにかしていた。週一回土曜日のバイトが練習の日と重なってしまったのだ。しかたがない、弓子は練習を休んでバイトをしていた。

 そして、おそらく一番大きい原因は同期との人間関係だった。元々弓子は人付き合いが得意な方ではなかった。友達が多いわけでもなく、高校を卒業し大学という新しい環境の中、周りがコミュニティーを作っているのにそのどれにも入り損ねてしまった。もちろん部活内でも細かく分かれたグループにも入れなかった。人間関係において中途半端になってしまったのだ。そんな中でも仲良くなれた同期もいた。だが、弓子は失敗をしてしまった。授業をサボって遊びに行ってしまったのだ。弓子にとっては軽い気持ちで、何でも無いことだったが、相手にとってはそうでなかったのだろう。原因としてはその事だけでなかった。それに加えて弓子にはバイトの事や上下関係が苦手なこともあった。その結果、相手だけでなくその女の子と関係のあった人達が弓子と距離をおいてしまった。弓子はどうして良いのか分からなかった。弓道は好きなのに、人間関係が上手くいかない。練習から足が遠のいてしまった。長期で練習に行かない期間があった。先輩は心配していたのだろうか、一度呼び出された、どうしたのか? と。何にも答えられなかった。何も答えない弓子に先輩は困ったようだった。一時期練習に復帰した事があったが、それは昇段の審査に通るためだった。無事に審査に通った後はまた弓道場から足が遠のいた。ズルズルと全てが中途半端なままだった。ある日同期に呼び出され、その場の話し合いの結果で弓子は退部した。

 昔にあった一連の事を思い出した弓子は枕に顔を埋めたまま唸るように言った。

「最悪だ」

 弓道を再開してから半年、できるだけ思い出さないように避けていた。なのに、依弦の言葉のせいではっきりと思い出してしまった。鮮明によみがえった記憶はいくら追いやっても頭の片隅にこびりついて離れない。退部する時は部室や道場に足を運ぶことも嫌になっていた。道場に行った時に浴びるなんで来ているんだ、という刺さるような視線が怖かったのだ。あの場所に弓子の居場所などなかった。だから、道具を取りに行くことも出来ず。逃げるように弓道から遠ざかった。あの時は心底ホッとしたのを覚えている。だから、再開する時に弓道着、かけ、矢は持ってなかったのだ。

「はぁ」

 いつまでも、唸っていても仕方が無い。でも、今度の練習で依弦にどんな顔で会えばいいのか分からなかった。大丈夫と自分に言い聞かせてもなんだか怖かった。やめた理由をもし聞かれたら? それで失望されたら?今考えても仕方の無いような事ばかり頭に浮かぶ。弓子はそれらを心の中の箱に無理矢理押し込めて考えないようにする事を選んだ。とりあえず、次の練習にも行く、そう決めて弓子は着替えて布団の中に潜り込んだ。

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