第10話 大団円
最初に言葉を発したのは、意外にも和田だった。
「世の中には、常人には想像もつかないような破廉恥で淫靡なことがある。特にそこにいるお嬢ちゃんなどには信じられないと思うことかも知れないようなことが、平気で行われるんだよ。それは今も昔も一緒で、今はきっと何かの反動が隠さなければいけないものを野放しにしてしまう風潮になっているのかも知れない」
という前提から話し始めた。
さらに続ける。
「事の発端は、谷川隆一と、美鈴という二人の夫婦の他愛もない、いや、そういってしまうと語弊があるかな? 罪がなかったはずの性癖が、それこそ何の罪もない人を巻き込んでしまうことになった。これが最初の出来事だったんです」
というと、そこに口を挟んだのが、武彦だった。
「それが、今回の車中での殺害事件に関係していると?」
「そうです。まずは、その前に表にまだ出ていない殺人事件があったんですが、本当は僕はこの事件を曖昧にしたかった。そのために僕は……」
と言いかけたところで、和田は咽るような咳をした。
今度は、その話を引き取ったのが、おばあちゃんだった。
「私は、この通りの年寄りだけど、昔の時代であれば、目の前であんなことが起こっていたとしても、すぐには行動をしなかったかも知れないんだけどね。なぜなら、私の知り合いにも、似たような性癖の人がいたんだよ。戦後の混乱の時期、いろいろなお店ができたせいで、異常な性癖の人が増えたんでしょうね。まだ女学生だった私たちも、そんな異常性癖を目の当たりにしたり、自分たちの中には、そんな異常性癖を行うことで、男からお金を貰っている人もいた。私はそんなことまではしなかったけど、当時の性の歪みというのは、ハンパではなかったからね。でも、今の時代にも似たようなことはあるようで、でも、昔と違って節操がないというか、真面目にやっているつもりなのか、人を巻き込むことを何とも思っていない。それはきっと平和ボケのために、何をどうすれば、どうなるなんて考えもせずに行うからなんでしょうね。恥じらいをなんて心得ているのか、聴いてみたいものだわ」
と、いつもの聖人君子のようなおばあちゃんからは信じられないような雰囲気に、綾子は恐怖すら覚えていた。
「その時は、本当にその女性が襲われていると思ったんだよ。悲鳴も挙げているしね。まさかそれがお芝居だったなんて。思いもしない。人に見られるということに快感を覚える一種の異常性癖の夫婦で、それは単なる自作自演のプライだったんだよ。それを私は襲われていると勘違いをしてしまったことで、私は旦那を後ろから殴ってしまった。そして殺してしまったんだよ」
という衝撃的な話が飛び出した。
「でも、その時の奥さんは? 旦那がプレイ中に殺されたんだから、おばあちゃんを警察に突き出したりどうしてしなかったんだろう?」
というのが、武彦の質問だった。
これは至極当然な発想である。綾子も聴いてみたいと思ったことだった。
「その奥さんは決して旦那を愛しているわけではなかった。逆にこんな性癖を植え付けた旦那を恨んでいるくらいだったんだよね。でも、元々は異常だったんでしょうね。そうじゃなきゃあ、あんなプレイができるはずがない。本当に鬼気迫った形相にあの声は、元々異常性癖でないと出せないものだからね」
とおばあちゃんは言っていた。
世の中には、と最初に和田が言ったが、果たして世の中というのは、一体何なのだろうか?
綾子は、その話を聞いて、何かの理不尽を感じていたが、その理不尽さがどこからくるものなのかよく分かってはいなかった。それを理解するまでには、まだまだ大人になる必要があるのであって、だからこそ、最近よく感じている、
「大人になんてなりたいとは思わない」
という感覚になっているのではないかと感じていた。
――それにしても、おばあちゃんが、いくら悪くないという話であったとしても、人を殺したなんて――
と、綾子は自分がどのような目でおばあちゃんを見ているのか、怖くなった。
もし見ているとすれば、そこには同情の色が濃くなっていると思うのだけれど、そんな目は、
――却って失礼になるのではないか――
と思ったのだ。
「世の中には、本当に常人には分からない性癖を持っている人がいると言いますからね。ただ、それが性癖というだけでなくとも、猜疑心や疑心暗鬼というのも、相手に対しての愛情から生まれると言ってもいい。だからこそ厄介で、その人にとってみれば、忌まわしいことだとは思いながらも、実際には自分が悪いわけではないと思っている。だから、猜疑心も疑心暗鬼も誰もが明日にはなるかも知れない代物なんですよ。隠しているだけでね。だから実際に異常性癖と猜疑心の強い人とを比べると、普通は前者を悪だとし、後者をしょうがないものだとする。これも一種の差別なんじゃないかと思うんですよ」
と、言い出したのは武彦だった。
「旦那はそんなに冷静になってよく言えますね。おばあちゃんの気持ちを考えてあげてくださいよ。こういうのを不幸な事故っていうんじゃないですか? 誤って殺してしまったとして、殺された方にも紛らわしかったという後ろめたさがあるんだから、これは立派な事故ですよね」
と、和田が言った。
「いや、実際にはそうであったかも知れないけど、そこで警察に通報もせず、埋めてしまったというの、明らかに心象が悪いです。どんなことがあっても、その時に名乗り出るべきだったんですよ。だから、今回の奥さんがまた殺されるようなことが起こったんじゃないですか?」
と、武彦はそう言いながら、やり場のない怒りをどうすればいいのか、迷っていた。
「でも、どうしてこの場に和田さんがおられるんですか? さっきは和田さんと一緒に何かを話されていたんじゃないかと思ったんですけど」
と、綾子が聞いた。
この事件における和田という男は何を演じているのだろうか?
「その場面をこの俺が見ていたというわけさ。俺はその時ちょうど通りかかって、空き地に入ろうとする二人の男女をたまたま見かけただけなんだ。夕方近くにはなっていたけど、いくら人通りが少ないところだとはいえ、よくもそんなところでと思っていると、男女が入っていった叢から、何か悲鳴のようなものが聞こえたのさ。でも、よくよく聞いてみると、別に断末魔の声だっていうわけでもなく、よくいうでしょう、『絹を引き裂くような女の悲鳴』ってやつ、そんなんじゃなかったんですよ。俺も一応、男女のことは少しは分かっているつもりだったので、『ははぁん、これは、羞恥プレイの合間の興奮剤のようなものじゃないか』ってね。そう思うと、こちとら男の虫が騒ぐろいうか、覗きたくなるのもしょうがないというものですわ。しかも二人を見ていると、こっちに俺がいることが分かっていて、それでさらに大きな声を出しやがる。これは明らかに見てほしいというそれこそ羞恥プレイの極致ですね。それではってんで、見てやることにしたんです。こんな興奮することはなかなかないですからね」
だんだんと和田という男が興奮してくるのが分かった。
――なるほど、この男がくだらない事件ばかりを繰り返しているわけが分かった気がする――
と、武彦は思った。
小心者だというだけに、こんなことにしか興味を示さない男なのだと感じた。これでは大きなことができるはずもない。これでは、鉄砲玉がいいところだ。
武彦はその時初めて、この男が鉄砲玉であることを悟った。さすがに綾子がそれ以前からそう思ってきたなど思いもしない。
「それでどうしたんだね?」
と武彦が、苦々しい顔で訊ねた。
「はい、二人は明らかに俺に気付いて、さらに大きな声を挙げ始めました。それが悪かったんですね。淫蕩な声であれば、まだいいのですが、女の悲鳴がだんだんと断末魔に近い声になっていったんですよ。きっとまわりには誰もいないと思ったんでしょうね。まったく二人は完全に無防備になっていました。やppり、一つのことに集中しているとまわりが見えてこないんですかね。あんなに怪しいことをしているんだから、本当なら細心の注意を払うべきで、しかも、本当の羞恥プレイなら、見えるか見えないかというチラリズムのような心理が働くはずなんでしょう。それなのに次第に大声になっていたので、この俺の方が焦ってくるくらいでしたよ。そういう意味で、あの二人は素人だったんでしょうね」
と、いういかにも彼の持論でもあるかのような話を教授していた彼は、どうやら有頂天になっていたようだ。
さすがに武彦は見かねて、
「君の見解はいいんだ。事実を話してくれ」
と、さらに苦々しい表情になり、和田を見つめた。
さすがにこれには和田も恐縮し、神妙になった。その場にいるのは、おばあsなであり、高校生の女の子だからだ。
「で、二人の痴態をこの俺が向こうからは見えないように息遣いだけで相手に存在を知らせるように見ているという光景に、急に割って入る人がいた。それが、このおばあちゃんだったんだよ。おばあちゃんは、きっと女性が絞殺されているとでも思ったんだろうね。『やめなさい』って血相を変えて入ってきたよ。お年寄りとは思えないほど素早くね。そして、ちょうど運悪く、男が女の首に紐のようなものを巻き付けていた。これも一種のプレイの一つなんだけど、それをおばあちゃんは本当に殺されると思ったんだろうね。二人を必死に離そうとした。でも、二人は完全に自分の世界に入り込んでいて、『なんだ、このばあさん』って感じて、突き飛ばしたのさ。さすがに俺も我に返って、今度は俺が飛び出した。すると二人はパニックになったんだろうば。二人して俺を襲ってきたんだ。おばあさんは何が起こったのか分からない感じだったけど、自分を助けようとしている俺が襲われているものだから、必死になって俺を助けようとしてくれたけど、いかんせん、あの年ではどうなるものでもない。そこで思い余って、近くにあった石で、男の人の頭を殴ったというわけなんだ」
「それで?」
「二人は夫婦だったらしいんだけど、こういう変態プレイが好きだという共通点以外には、お互いに一緒にいるメリットがないほど、関係は冷え切っていた。実際に離婚をお互いに言い出していたくらいで、女も男もそれぞれに浮気相手がいるというような体たらくで、そんな夫婦なんで、奥さんも旦那が死んだからと言って、別に悲しむ風ではない。それよりも喜んでいたくらいさ。俺はそれを見て、そしてさっきのプレイを思い出すと、背筋がゾッとしたものだよ。だが、俺のために、おばあさんに殺人をさせたのは間違いではない。でも、それで誰も損をすることがないと分かると、まずは死体の始末だった。昼間目立つから、奥さんが車を持ってきて、旦那をトランクに積んで、夜になって、この空き地に埋めたんだ。いつかはここで工事が行われるかも知れないが、その時には白骨化しているだろうし、時間が経てば経つほど、事件は風化していく、事実を知っている人もいないんだし、皆この男がいなくなっても構いはしない連中ばかりだということで、死体の始末に異議を唱える人はいなかった。埋めておいて、奥さんには旦那の行方不明の捜索願を出すようにいったさ。黙っている方が何かあった時不利だしな。なあに、年間八万人も失踪している日本で、一人男性が行方不明になったくらいで、必死に捜査なんか警察はしないさ。せめて、写真を警察関係で全国にばらまいて、見た人は連絡ください程度にしか動かないんだ。埋めてある以上、掘り起こされない限り、分かりはしないさ」
「もし、見つかったら?」
「今ではDNA鑑定があるから、身元くらいはハッキリするかも知れないな。どうもあの男、ちょっと俺に似た匂いがあったので、ちょっとしたことで前科でもあって警察に指紋などが残っているかも知れない。だが、それも白骨になってしまえば分からないけどな」
まさしくその通りだった。
二人の、いや、その場の三人の考えと利害が一致したのだろう。おばあさんもその場の異様な雰囲気にのまれてしまったのか、若い二人にしたがうしかなかった。
女の方としても、その頃にはまわりに対して旦那の悪口を言いまわっていたり、旦那は旦那で妻の不貞を触れ回っていたという、どっちもどっちということだ。
そんな泥沼の状態で、いくら事故に近いとはいえ、自分と旦那が変態プレイの挙句、勘違いされて、旦那を殺されたなどという本当の意味での羞恥にはさすがに耐えられなかった。
もし、事情聴取にしても、これから行われる裁判にしても、いくら自分が犯人ではないとはいえ、この事態を招いたのは自分である。まわりからどんな目で見られるか、それを思えば、ここはこの男にしたがうしかないと思ったことだろう。
そういう意味で利害の一致を見たのだ。
そもそも、そんな変態プレイ、公表できるはずもなかった。無罪であっても、もう世間に普通に戻ることはできない。これは、何としても避けたかった。
それよりも、夫が行方不明になり、いずれ死んだことになって、その保険金を貰った方がいい。
ただ、これがこの事件での第二の悲劇を生むころになった。それから三年して、奥さんの死体が発見されることになったのだ。このあたりのいきさつを聞きたいと思った。
綾子の方は、じっと和田の方を見ていた。
――この人、そんなに悪い人じゃないんだ。逆にいい人なのかも知れない――
と思った。
おばあちゃんの家で、一緒におじいさんの仏壇に手を合わせている姿を見ると、本当の親子ではないかと思うほどであった。どんな理由があるにせよ。人を殺めたのだから言い訳はできないのかも知れないが、仏壇に手を合わせている二人を見ると、そこには明らかな懺悔があり、ウソ偽りのない気持ちを感じることができた。
「最初は、このまま奥さんが大人しくしてくれていれば、別に何でもなかったんだけど、奥さんからすれば、保険金を早く受け取らなければいけないという事情に迫られることになったんです」
と和田は言った。
「それはどういうこと?」
と武彦が聞くと、
「行方不明になって失踪宣告を受けるまでに七年あるんですが、あの奥さん、男を作っちゃいましてね。それでだいぶ貢いだらしいんです。それで我々三人、奥さんとおばあさん、そして俺の関係がそこで崩れてしまった。まず、奥さんはおばあさんを揺すってきた。おばあさんはああいう性格だし、しかも奥さんに後ろめたさも感じているので、俺に黙って一人で何とかしようとする。ただ、あの奥さんは俺が思っていたよりもさらにしたたかで今度は俺迄揺すってきた。同時に二人を揺するにかかったんです。俺も脛に傷を持っているから、誰にも言えない。ましてやおばあちゃんには絶対にいえない。それでしたがうしかなかったんだが、俺はふとしたことでおばあさんも脅されていることを知って、本当に憤慨した。この女殺すしかないと思ったんだ。あの女も脅迫を俺だけにしておけば、俺から殺されることもなかったんだろうが、結局俺は自分が裏切られたというよりも、おばあさんを裏切ったことが許せなくて、あの女を殺した。その時は、捕まってもいいというくらいに思っていたからね。だから、すぐに見つかってもいいように、細工らしい細工もしていなかったのさ」
とそこまでいうと、涙で噎せ返っているのが分かった。
「と来rでどこで殺したんだ?」
「殺した場所は、例のあいつの旦那が埋まっている当たりさ。あそこで胸を刺したんだが、凶器を抜かずに、そのままにしておけば、血が噴き出すことはない。ただ、あそこで死体が発見されると、もし、白骨が出てきてその関連性を見つけられると、おばあちゃんがヤバいと思ってね」
「どうしてそこで殺したんだ?」
「あの場所には、あの女から呼び出されたのさ。自分たちがあいつの旦那を殺したことを思い知らせるつもりでもあったのか、結局は自分だって同罪のくせに、女ってのは本当に金に目がくらむと、何をするか分かったもんじゃない。そういう意味で、俺は後悔していないがな」
と和田はもう完全に観念していた。
おばあさんは黙って聞いていた、おばあさんも観念しているのかも知れない。
綾子と武彦あhそれを聞きながら、黙っていた。
「お二人、まるで本当の親子のようですね」
と、武彦はボソッと言った。
「そうだよ。私にとっては息子のようなもの。そして、武彦君、君も私にとっては孫のようなものだね。綾子ちゃんも孫娘だとずっと思っていたよ」
と言って、微笑んでいた。
「ありがとう、おばあちゃん」
綾子は、おばあちゃんの命がそんなに長くないことを分かっていた。
それは綾子よりもおばあちゃんの方がもっと切実に分かっていることであろう。他の二人はそこまで分かっているわけではないと思っているが、綾子にとってはおばあちゃんの今の言葉がすべてを表しているような気がした。
和田は武彦によって、一緒に警察へ出頭することになった。おばあちゃんももちろん、一緒である。
おばあちゃんの場合は、やむ負えないという状況もあって、三年前の事件では起訴はされたが、結局無罪となった。和田は実際に奥さんを殺しているし、旦那への死体遺棄などと重ね合わせて、懲役七年の実刑であった。さすがに初版でもないし、執行猶予というわけにはいかなかった。
和田が獄中にいる間、おばあちゃんは亡くなった。ちょうど刑の執行が始まって二年が経った頃だった。ちょうどその時、おばあちゃんの遺書が見つかったようだ。おばあちゃんは病死だったのだが、その遺書には、自分のかつての行いと、和田に対しての恩義が書かれていた。
和田は模範囚として五年で釈放され。その時初めておばあちゃんの遺書を目の当たりにすることになったのだが、おばあちゃんの遺書には、すべて悪いのは自分であると書かれていた。和田という男は誤解されやすいが、本当に優しい青年で、彼のことを武彦に、よろしく頼むとしたためであった。さらに武彦と綾子の行く末を見届けられないのが、一番の寂しさであるとも書いている。
「これから死へと旅立つこの身で、一番の心残りは、和田さんの人生と、武彦君と綾子ちゃんの行く末を見守ること、私にできなかったことを、これから託したい相手、それは綾子ちゃんなのよ」
と書かれていた……。
( 完 )
天才少女の巡り合わせ 森本 晃次 @kakku
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