第9話 表に出ない犯罪

 本当は表には出てこないはずの犯罪。失踪してから三年も経ってしまえば、捜索願もほとんど忘れ去れている程度である。この島国日本で人口が一億人ちょっという日本で、年間に八万人である。それを一人一人丹念に捜査など、度台不可能なことである。だから、提出された時点で、そもそも捜査の対象になっていたかどうかも分からない。ましてや三年も経っていれば、誰も意識などしていないに違いない。

 殺されることになった奥さんも、いつまで旦那の失踪を警察が捜査してくれているとお思ったかも疑問である。きっと、かなり早い段階ですでに諦めていたかも知れない。

 ただ、今回表に出てきたとしても、それはあくまでも奥さんが殺害されたことで、予備的な情報として出てきた話、再捜査されるかも知れないが、これはあくまでも奥さんの捜査二付随した形で行われるというだけのことである。

 だが、この犯罪につぃて、もし何かを知っているとすれば、それは綾子なのかも知れない。

 綾子は約一か月くらい前から、ある空き地に死体が埋まっていることを示唆していた。そのことを今まで誰にも言わなかったが、この間、ちょっとした世間話のついでのつもりで武彦に話した。

「私ね。死体が埋められる夢を見たことがあるのよ」

 と綾子がいうので、少しビックリして武彦は、

「また、物騒なことをいうね。綾子ちゃんがそんな物騒な話をしてくるとは思わなかったよ」

 と言ったが、実際に武彦がビックリしたのは、今の自分が行った言葉の裏に別の思いがあったからだ。

 その思いというのは、

――綾子ちゃんが、何か突発的なことを言い出すと、必ずその通りになる――

 ということを自覚していたからだった。

 確かに今まで綾子と話をしていて、綾子の予感めいたことが的中したことが何度もあった。ひき逃げの時が一番の功労であったが、それ以外にも小さなことで彼女の言っていることが正解だったことが何度となくあっただろう。

 武彦は、彼女がそれを自分に意識させないようにしているという思いがあったから、彼女に気を遣って、わざと気にしないようにしていた。

 綾子の直感が働く吐息と言うのは、直感の方に集中するからなのか、人に対して気を遣うというところが欠如している。それは綾子が悪いわけではなく、しいて言えば、そんな性格を持って生まれたことが悪いというべきであろう。

 そういう意味で、

「子供のくせに、子供らしからぬところが多い」

 という印象をまわりの大人に与えてしまっていたが。それは本当に綾子の罪なのであろうか、そのあたりが誰にも分からないところだった。

 何しろ、「ウソつき少女」などと言われた過去を持っているのだ。本人はウソをついているつもりもないし、まわりを欺いているつもりもない。誰かのために何かをしているという意識のないまま、まわりの思惑に逆らうことなく生きていると、次第に流されてしまう自分が、当たり前のようになってくる。

 今では自分の意志で、

「その人のために」

 と考えることができるようになったが、果たして、その思いが間違いのないものなのかどうかは、自分でもよく分かっていなかった。

 綾子は、そういう意味では特殊能力を持っていながら。それを使うことを自分の中で封印していた。

「この人のために使う」

 という思いがなければ、結局、また

「ウソつき少女」

 のレッテルを貼られる。

 しかも、そう思われたくない相手に思われるのは、もう心が傷つくだけのことで、そんなことになれば、きっと自分で自分を許せないと思うに違いない。

 だから、なるべくこの力を表に出さないのが賢明であった。

 だが、いくら武彦のためになるかも知れないと言っても、この段階で夢に見た、

「死体が埋まっている夢」

 の話をしたというのだろう?

 いまさらこんな話をしても、警察も根拠がなければ、掘り起こしてくれるわけもない。ただ綾子に一つだけ分かっていたのは、

「この死体は、そのうちに掘りこされる運命にある」

 ということであり、さらにこれは信憑性とまではいかないが、

「この死体が発見されたことで、自分に近しい人が悲しむことになる」

 という意識があったからだ。

 しかし、その近しい相手が誰なのか、そしてどのように苦しむのかなどの詳しいことは分からない。

 だからこそ、綾子の中で信憑性に欠けるのであった。

 綾子は、自分が一体誰を今一番に大切に思うべきなのか迷っていた。

 今のところ目に見えているのは武彦であり、おばあちゃんである。だが、綾子の中に、もう一人自分が守りたいと思っている人がいるのを感じていた。その人を知らないわけではないが、その人のことを意識していないのは事実で、

「見えているのに、気が付かない。まるで路傍の石」

 のように思えた。

 それはまるでかつての自分に感じたことではないか。そう思うことが綾子をさらに何か分からない世界に引きずり込んでいるようで、不気味な気持ちになってしまっていたのだ。

「路傍の石」

 何とも微妙な言い回しだが、天体が好きで、天空に、

「誰にも見えない、邪悪な星」

 をイメージした本を読んで感動したのを、実にごく最近だったかのように思い出せるくらいだった。

 綾子にとって路傍の石とは果たして自分だけのことなのか、それともたくさんいるから路傍の石だと思っているのか、どっちなのだろう?

 そんなことを考えていると、自分が何に遠慮し、何に怯えているのかまたしても分からなくなってくる。

「天体の世界、怖いけど興味がある」

 と思った子供の頃が懐かしかった。

 この表に出ていない犯罪がまもなく暴露されることになるというのも、綾子には分かっていた。

 ただ、綾子はこの犯罪が暴露される前に、何かやっておかなければならないことがあると思っている。それが何なのか分からなかったが、おばあちゃんに関係があることであろうとは思っていた。

――おばあちゃんは、自分の死を覚悟しているのかも知れない――

 と感じていた。

 それは寿命による死でもなければ、病気や事故でもない。自ら命を断つのか、それとも人から殺されるという末路なのか、その感覚はまだ若い綾子には分からないが、死を覚悟した人の表情は分かる気がした。

 綾子はおばあちゃんをいつも見ている時、どうしても、おばあちゃんを見ることができない角度があることを自覚していた。人には、自分の人に見せたくない角度というものがあり、本当にその人が他人に見せることがないというのは難しいことであった。どこから見ようともその人の性格を表していて、見られたくないと思っている部分があるのは誰にでもある部分であり、人によっては、

「皆が見られたくないと思っているような部分でも、実は見てほしいと思っているような人もいる」

 ということを、綾子は知っていた。

 いわゆる変質趣味であり、見られることを喜びとするものだ。

 綾子は、何とかおばあちゃんが死ぬことのないようにしようと考えた。それにはまずおばあちゃんが一人で何を抱え込んでいるかを確かめる必要があったのだが、おばあさんは絶対にその方向を綾子に見せようとしない。それを考えていると、綾子の中でおばあちゃんの過去に、まったく正反対の性格の人間がかかわっていたということが分かってきた。

 前述のような変質趣味、

「自分たちの変態的なプレイを、他の人にも見てもらいたい」

 などという屈折した変態趣味を、綾子のような純情な女の子が理解できるはずはなかった。

 しかし、それを理解できないまでも、綾子が抱えている思いを解きほぐすだけの発想にまで至らなければいけないのだ。

 だが、綾子が抱えている妄想は、想像の域を抜けない。誰かに話しても信用してくれるはずもないものだ。

 では、綾子には何か突破口はないというのか?

 頼れる人は思い浮かぶだけで、武彦しかいない。しかし、まともに話をしても信用してくれるはずもない。何か根拠がなければいけない。そこで綾子は、今問題になっている例の車の中から発見されたという女性のことを自分なりに解釈してみようと思った。もし、警察や捜査員でしか知り得ないはずの情報を綾子が知っていれば、信用してくれるかも知れないという考えであった。

 しかし、これにはリスクもあった。

「どうしてそんなことまで知っているんだ?」

 と言われれば、どう答えればいいのだろう。

 確かに、ひき逃げの時には信用してもらえたが、さすがに二度目はどうだろう? 逆に知っていることで、変に綾子のことを疑い、気持ち悪がられてしまうということも無きにしも非ずである。それを思うと、思い切るにはリスクの高さを感じないわけにはいかなかった。

――だけど、これはおばあちゃんの死に関わることなんだ――

 と思うと、胸を締め付けられる思いだった。

 だが、この感情が逆に綾子の能力を高める結果になるのだから、実に綾子の持っている能力というのは、つくづく皮肉なものである。ただ、この思いは綾子に限ったことではない。他の誰もが持っている力であることが前提なので、皮肉というのは、少し違うのかも知れない。

 とりあえずおばあちゃんのことは放っておいて、まずは、考える、いや能力を使うべきは、この間発見された車の中での女性の殺害事件について、頭を巡らすことにあった。

 あの事件は、旦那の失踪とは切り離して考えられているようだ。綾子もあの事件には何か気になるところがあり、しかも武彦や、以前お世話になった門倉刑事が関わっているということもあって、気になるところであった。

 しかし、自分には関係のないこととして考えていたので、途中を気にしていなかった。ただ、最初に見た新聞記事の一番最後に書かれていたこととして、

「なお、死亡した女性の夫が、三年前から失踪中である」

 ということを見た時、何かが引っかかった。

 ひょっとすると、一番何に引っかかったのかというと、最後のこの一行だったのかも知れない。まるで霊でも乗り移ったのかと思ったほどである。

 綾子は、その失踪した旦那というのが、死体が埋められている場面を発見したことと頭の中でリンクするのを感じていた。

――この間は世間話的に話し方になったけど、今度はもっとハッキリ言った方がいいのかしら?

 と思っていた。

 だが、しょせんは女子高生の戯言として流されてしまえば、せっかくのネタも二度と浮かび上がってこないだろう。いくら綾子が予言したことであったとしても、少しでも心に残る何かがあれば、信憑性として武彦も意識してくれるかも知れないのだろうが、下手にスルーされてしまうと、その可能性が限りなくゼロに近づいてしまう。

 そんな時、綾子はふとした偶然で、和田とニアミスを起こした。

 和田の方はまったく気にしていなかったが、綾子には和田がどういう人間なのか、ピンときた。

――この人があの時のひき逃げ犯なんだわ――

 と気付いた。

 しかし、どう見ても悪い人には思えない。実際に彼は鉄砲玉として利用されただけなので、綾子の想像は当たっているのだが、綾子の中で妄想をすることはできても、人の気持ちを想像でくっつけるというところまではいかなかった。まだ高校生ということもあるが、小学生の頃にいわれた、

「ウソつき少女」

 という誹謗中傷が、彼女を大人の世界に踏み出す自分を躊躇させるのであった。

 だから、綾子には誹謗中傷を受けたり、弱者の視線がその分、備わっている。その気持ちが和田という男にシンクロすることで、

――この人、本当はそこまで悪い人ではないんだ――

 と感じた。

 綾子が和田と遭遇したのは、和田がおばあさんの家から出てくるのを見たからだ。その様子を見て思わず隠れてしまったが、

――隠れてよかった――

 と、思ったのもおばあちゃんが自分に知られたくないと思っていることがあり、それがこのことだということを悟ったからである。

 和田は、玄関先で丁寧におばあちゃんに頭を下げている。おばあちゃんはそれを見ながら、

「またいらっしゃい」

 と見下ろしているように見えたが、

――おや?

 と感じた。

 二人の目線が普通では考えられないような矛盾のある視線に見えたからだ。それは綾子に対し、決して見せようとしないおばあちゃんの視線ではないだろうか。和田は、おばあちゃんに対してあくまsでも、下から見上げるという謙虚さであるにも関わらず、おばあちゃんもこの和田という男に対して、同じように下から見ているのだ。

 平行線が交わることがないように、これでは二人の視線が結び付くはずはないだろう。

 だが、綾子はそうは思わなかった。

――二人の視線は、どこかで結び付いていて、私には想像もつかない関係で結ばれている二人なんだわ――

 と思ったのだ。

 綾子は次に感じたのが、

――この人だったら、おばあちゃんの死を止められるんじゃないか?

 という思いだった。

 だが、その思いもすぐに打ち消すことになるのだが、それは、

――この二人がお互いに何か肝心なことを相手に隠している――

 と感じたことだった。

 その思いを感じたことで、

――この男性に、おばあちゃんの死を止めることはできない――

 と感じた。

 逆におばあちゃんの死が、この男に関わっているという風に思ったのだが、どうしても、この男がおばあちゃんを殺す姿など想像もできない。むしろ、おばあちゃんの方から、死を選ぶのではないかと思うほど、その死に対して真摯に向き合っているようで、それがおばあちゃんの中から溢れ出てきた覚悟のようなものと言えるのではないかと、綾子は感じていた。

 しかし、そうはいっても、まずきっかけはこの二人のことである。綾子に対して秘密にしているだけではなく、綾子が意識できないおばあちゃんを見る角度を持っているこの和田という男がどのような形で自分たちの関係に入り込んでいるのか、綾子は運命のようなものを感じながらも、その真相に近づくまでのは、そんなに簡単ではないと思っている。

 おばあちゃんよりも、和田という男を見ている方が、何か分かってくるかも知れないと綾子は感じた。

 綾子は、そのままおばあちゃんの家に入ることもなく、和田を追跡した。

 和田は、おばあちゃんの家を後にすると、そのまま街の方に出ていった。閑静な住宅街と違って、そろそろ日が暮れてくる街中は、まだ明るさが残る中なのに、ネオンサインがハッキリとしているところもあった。

 夕飯にはまだ早いが、五時近くになっているということで、居酒屋関係の呼び込みも出ていて、無作為に声を掛け、通行人にチラシを配っている。

 だが、ほとんどの人はビラを貰いもしない。貰った人の中には少し行ってから道に捨てるという暴挙に及ぶ者もいるが、配っている方も別に配っていることを意識しているわけでもないので、捨てられることに屈辱も感じていないようだ。

 そんな光景を見ていると、

――これが大人の世界なんだな――

 と、思わずため息をついてしまう自分に気が付いた。

 和田はチラシを貰うことを拒否する方だった。見た目はアロハシャツにテンガロンハットという、少し軽めの服装で、一見チンピラ風の彼に対して、余計なことをいう人はいない。誰もが、

――変に関わりあいになりたくない相手?

 という意識を持つであろう、典型的な人物だった。

 人を掻き分けるように足早になっていく和田を、何とか女性の足でも追いかけられたのは、じっと彼の背中を見つめて、視線を逸らさなかったからだろう。

 あの人通りの中でも見失わなかっただけでもすごいと思うのに、次第に途中から、彼がどこに行くのかという場所に見当がついた気がした。

――もし、見失ったとしても、どこに行くか、分かる気がする――

 と思ったのだ。

 しかし、その場所は綾子が以前に行ったことがある場所ではなく、あくまでも初めて足を踏み入れる場所であったが、本当に初めてだったのだろうか? つまり、夢の中で見た場所だったのではないだろうか。

 そう思っていると、目の前の男が何をするのか気になった。だが、その男はその場所を見下ろして凝視するばかりで何かをしようとしているわけではない、しばらく見つめるだけ見つめると、何か気持ちを残しながら、その場から去っていくのが見えた。そして何度も振り返るのだが、何度目かに振り返った時には、手を合わせるような素振りを見せた。

――その場で手を合わさなかったのには、何か意味があるのかしら?

 と綾子は感じたが。感じただけで考えが浮かんでくるわけではなかった。

 綾子が何かを思いつく時というのは、超能力と絡み合った時であり、能力が発揮できない場面では、普通の女の子よりも、頭の回らない知恵遅れの様相を呈しているのだった。そこが可愛らしいところではあるのだが、そんな彼女をかつての「ウソつき少女」と言っていたやつがいるなど、この場面を見ただけの人が想像もできないだろう。あどけなくてちょっと冒険心のある女の子という程度にしか、誰も思わないに違いない。

 和田が去った痕、綾子はそそくさと彼が立っていた場所にまでやってきた。

「やっぱり夢に出てきた場所だわ」

 と思ったが、自分には何もすることができなかった。

 彼がやっていたように、上から凝視してみたが、もう何も見えなかった。綾子にはすべてが目の前に明らかになったことで、その超能力はお役御免になったのだ。

「でも、きっとそのうちに、ここが暴かれる時が来るのよね」

 と思ったが、その思いは思ったよりも結構早くやってきた。

 綾子が数日後、学校に行くと、

「ほら、学校から反対側に行った空き地が今度マンションに建て替わるという場所で、白骨死体が発見されたんですって」

 と言っていた。

 その話はその時の綾子には初耳で、

「白骨死体って、どれくらい前のもの?」

 と、綾子の質問が少しずれていたと思った友達は怪訝な表情になったが、

「そうね、発表としては、三年か四年くらい前のものではないかっていうのよ。人骨の作りからして、男性であることに間違いないということだけど、殺されて埋められたのよね?」

 というのを、誰も否定もせずに肯定もせずに聞いていた。

 分かり切ったことを聞いたことで、答えるまでもないのだろうが、皆自分が率先して答える役になるのを拒んだようだった。

 綾子は、白骨がついに見つかってしまったと感じた。そしてすぐに思い浮かんだのが、おばあちゃんの顔だった。

――おばあちゃん、大丈夫かしら?

 と不安に感じ、飛んでいきたかったのだが、学校があったので、そうもいかず、それでも一時限分だけの授業を受けて、どうしても気になって仕方がなかったので、急いで学校を抜け出しおばあちゃんのところに向かった。

 綾子が学校をさぼるというのは初めてのことで、きっと学校では、

「吉谷さんはどうしたの?」

 ということになっていることであろう。

 しかし、今はそんなことは言っていられない。急いでおばあちゃんの家に向かうと、おばあちゃんは、仏壇に向かって、一生懸命にお参りをしていた。その姿はいつも見られているおばあちゃんと変わりはなく。

――よかった――

 と、胸を撫でおろしたのだった。

 おばあちゃんのすぐ横に、誰かがいるのを見た。その人は神妙に正座をし、おばあちゃんのお経を黙って聞いている。

――あれは――

 そう、この間、白骨が埋まっていると思われた場所に佇んでいる姿を目撃したばかりの和田の姿だった。

 綾子は、

――もう隠れる必要もない――

 と思い、

「おばあちゃん」

 と声を掛けて、中に入ってきた。

「おや、綾子ちゃんじゃないかい? どうしたんだい?」

 と、相変わらずの優しい表情を向けている。

「おばあちゃん、この人は?」

 と初めてみる相手でもあるかのように、言ったが、和田の方は綾子と目を合わせようとせず、じっとおばあちゃんを見つめていた。

 その表情は、綾子と目を合わせたくないというよりも、

「ずっとおばあちゃんを見ていたい」

 という暖かさが感じられ、綾子はこの人に対しての自分の感情が間違っていたことを知ったようだ。

「この人はね。和田さんっていうんだよ。おばあちゃんにとっては恩人なんだ」

 と言って、和田を紹介してくれた。

「おばあちゃん……」

 恩人と紹介された和田は、なんと涙を流して泣き出したではないか。

――まさか、この人が泣きだすなんて――

 と綾子は目の前で何が起こっているのか、理解不能な状態になっていた。

「真田さんを呼んでくれたかい?」

 と和田に訊ねると、

「ええ、呼んでおきました。でも、おばあちゃんが悪いんじゃないんだから……」

 と、またしても和田が曖昧で微妙な言い方をした。

「いいのよ。あなたには本当に迷惑を掛けたわね」

「そんなことないわよ。綾子ちゃん?」

 おばあちゃんは、今度は綾子を呼んだ。

「綾子ちゃんは、ひょっとするとこの和田さんを悪い人ではないかと思っているかも知れないけど、本当は違うのよ。あのひき逃げだって、この人が犯した罪ではない。綾子ちゃんは不思議な力を持っているのは分かっている。でもね、人間にはそれぞれ事情というものがあってね。真実の裏には、そういう事情というものが含まれているの。今は真正面から真実を見つめていればいいんだけど、でも後ろに事情が潜んでいるということを理解してからその力を使わないと、綾子ちゃん自信が後悔することになるのよ」

 とおばあちゃんは言って、満面の笑みを与えてくれた。

 綾子はその言葉を聞いて和田を見たが、なるほど、ひき逃げをした人のイメージが頭の中で重なってきた。すると、徐々におばあちゃんの言っている意味が分かってきた気がした。

――この人、悪くないんだ――

 と感じた。

 和田という男は、ひき逃げをした時、犯人と運転席を会わっている。その時誰かがいたのだ。

――私が感じていた思いは正しかったけど、裏が見えていなかったんだ――

 と感じた。

「本当にごめんなさない、和田さん。私そんなことなんて知らなくて……」

 というと、

「いいんだよ。これから少しずつぃでも分かっていけばいいんだから、でも俺は綾子ちゃんには、このままでいてほしい気もするんだ」

 と和田がいうと、

「本当にあなたって人は……。だから損ばかりしているのよ」

 そう言っているうちに、玄関先から、

「こんにちは」

 という声が聞こえた。どうやら、武彦がやってきたようだ。

「いらっっしゃい。おあがりなさい」

 と奥からおばあちゃんがそう言って、

「失礼します」

 と、武彦は上がってきた。

 武彦の姿を見たおばあちゃんは、

「これで役者は揃ったわね」

 と言って、ニッコリと笑った。

 部屋の中には、おばあちゃん、和田、武彦、そして綾子の四人が揃っていた。綾子はドキドキしながら、

――これから何が始まるのだろう?

 と思った。

 もちろん、この展開は、裏が見えていない綾子に想像できるものではなかったのは、言うまでもないだろう。その場に揃った四人はそれぞれ、誰に視線を向けていいのか分からずに戸惑いの空気が漂っていたが、綾子はそんな息苦しい中において、

――とにかく、おばあちゃんを見るようにしよう――

 と感じるのだった……。

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