過去 二十五 ふたりの状況

「馬を休ませましょう。水も飲ませたい。」


 杉林でなくなった辺りで、せつの馬が止まる。


「分かった。こう、降りるよ。」


 明継あきつぐが馬から降りて、紅を抱き抱えて下した。


 辺たりはまだ暗い。

 月夜だったので、馬を走らせられたが久しぶりの乗馬に汗をかいた。


「まだ、水は飲みたくないのね……。」


 節が掌に水を垂らすが、馬が横を向いていある。もう一頭にも同じ事をしょうとして近付く。


「先生。どうぞ。」


 紅が水筒から御茶を手渡した。


「有り難う。でも、何時の間に……。」


 温い茶を飲み込む。


「先生のおかあさんが、準備してくれました。弁当もです。御夕飯の時に、ガスキッチンの事を熱心に聞かれていましたから、其のつもりだったんだと思います。先生も目の前で聞かれていましたよ。」


 明継が首を傾げる。


「覚えてないな……。」


「全く興味の無い事は、念仏なのですね。先生は、何に興味あるのですか……。」


 明継が考え込むと紅が溜息を吐いた後、茶を飲む。


「紅の事かな……。」


 明継が呟くと、紅が咳き込んだ。

 茶が変な所に入ったらしい。


「慌てて、飲んだら危ないよ。」


 明継が、背中を擦ると、紅が真っ赤になって蒸せっている。


「あなた達、馬に蹴られたらいいのよ。」


 其の光景を見た節が呆れていた。


「林くん、良く此の二人の任務に付いたわ……。私なら二日と無理だわ。」


 水入りの蓋をしながら、明継と紅を見た。


「どう云う意味です。」


 明継が紅を抱き寄せながら云う。


「自覚無いの……。もう嫌だ……。林くんが愚痴ってたのは、此の事ね……。本当に可哀想。」


「林……。修一しゅういちが何か云いましたか。」


「自覚ないのが一番の罪ね。自分で考えて……、説た明する私の気持ちにもなってよ。林くん、任務で貴方の監視もしてたのよ。夜勤の時間帯は二人でいる時間帯でしょう。一人で、其れをしてたのよ。伊藤の名前に泥が付くって云って……。」


 節が溜息を吐いて睨んでいる。


「もしや、窓から見えた光は、監視の為ですか……。」


 紅が身を乗り出して聞く。

 節は不思議そうに紅を見た。

 紅の隣に腰を卸し、キャラメルを手に出した。


「当たり。林くんが、二人に気付かれたから、撤収させたのが其の部屋。なので、露台バルコニーから、逃げても追っ手が居ない理由よ。」


 節は紅の手にキャラメルを乗せる。自分でも、もう一つ取り出し、頬張る。


「何か質問はある。答えられる所までは話すわよ。」


「修一が私達を監視して、何をしていたのだ……。」


「元々、林くんは、軍人よ。今は、伊藤さんの二兄の下で働いてるわ。宮廷で伊藤さんの兄と話してるのを知って、軍部から引き抜いたの。御時宮おんときのみや様の仲介と、危険時に直ぐに動ける者としてね。慶吾隊員けいごたいいんなら、異変にいち速く気付くからね。」


「また、常継兄つねつぐにいさんと関係が……。此れから、伊藤の家はどうなる……。」


 母の顔が過った。

 あの侭置き去りにしてしまった……、後悔しても仕方ないだろと、頭を震る明継。


「解らないわ。おうは、貴方達を罰する事はしないけど……、文にも書かれてたでしょう。皇に反対勢力があると……。危うい立場にある御時宮様を海外に逃がしたいのよ。今迄、二人の生活が守られてたのは、海外に留学するための下準備として、過ごされてた訳。此れは、後付けで無理やり作った言い訳よね。」


 節がまた、キャラメル箱から取り出し、頬張る。

 紅がゆっくり口に入れた。


「先生。此れ美味しいです。」


「洋菓子は余り買ってなかったね。キャラメルは高価だからね。味わって食べなさい。」


 紅は良く頷いた。


 明継に対する節の視線が痛い。


「今、逃げてるの解っている……。旅行ではないのよ。」


「十分、承知している。倫敦まで、逃げるんだから……。」


「佐波様の文は、きちんと読んであるのかしら……。逃げる分の旅費しか渡して無いわよ。倫敦行ってからが、大変でしょう。仕事はどうするのよ。」


 明継が、首を傾げた。


「紅宛の物は触らないのが約束だ。だから、部屋にみだりに入ったり、個人の物には触れない。借りたい時は一言云ってから借りる。」


「林くんが云った報告があっているのね。御時宮様の自由はあるのね……。」


「軟禁してるみたいな物言いは止めてくれないか……。」


 紅が、気も漫ろになっている。


「節さん。私は紅で呼んでください。御時宮は、佐波様も同じですから……。佐波隆御時宮さわりゃうおんときのみや様……。上の名前で呼ばれると、落ち着きません。」


 明継が驚いて瞬きをする。


「あの。佐波様の名前って……。名前で兄弟と分かるでは、ありませんか。」


「佐波様の名前は幼名です。紅隆こうりゅうも、十五歳になったら捨てる名前です。幼名でも、誰の子供か分かるようになっています。父皇ちちおうの名前が、御時宮様です。」


 明継が目に手を当てた。


「佐波様も同じ……、知らなかった……。」


「上の名前は発表されませんから……。一部の側近にしか知られてません。」


 落ち込んでいる明継の肩に、紅が頬を乗せた。


「皇の子と知りながら、家に匿ったのと違うの……。勢力争いにしない為に、派閥を作らない為に……。伊藤さん何の為に家に……、紅様を連れて帰ったのよ。」


 両手で頭を押さえている明継の隣で、紅が微笑む。


「先生は興味の無い事は、聞き流しますから……。」


「私だって、しっかり聞いてる時もあるよ。身も蓋もない。紅の話しは覚えてるよ。」


「もう、良いわよ。伊藤さんの性格は解ったから……。林くんが貴方に肩入れしていたのも解ったわ。」


 節が呆れている。


「話を戻すが、既に倫敦には手紙は送ってある。翻訳の仕事と、日本文学の研究の手伝いがある。後日本食文化の話しも出てる。紅にだ。」


「私に仕事があるのですか……。」


「料理していたからね。紅が作る御節は凄いよ。旨いだけではなく見た目も綺麗だ。初めは、私と一緒に生活から慣れるのが先だけどね……。」


「もういいわ。胸焼けしそう。ごちそうさま。行くわよ。」


 日が明ける直前の一番寒い時間。

 三人はまた馬に股がった。

 なるべく早く進まなければならない。


 紅が体を密着させて息を潜めた。節を追って馬を走らせて行く。

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