過去 二十六 下男

 薄暗い部屋の中高価そうな調度品があり、大きめの本棚があった。

 窓を背にして、文机があり男が座っている。

 其の男を前に、直立不動の姿で林 修一はやし しゅういちが立っている。


 机の男は半田 一郎はんだ いちろうであった。


 修一から、文を受け取る。読み終えると、鍵の掛かった机の引出しに忍ばせた。


「御聞きしたい事があります。」


 失敬な質問をする予定なので、修一は構えた。


「発言を許す。」


「先程の文にも、紅隆こうりゅう様から、伊藤殿は無罪であり自分の意志で行動し、倫敦に留学したい旨も書いてあり、慶吾隊けいごたいの尾行を辞め、田所殿の警護だけで長崎寄船場ながさきよせふねばまで行かせても良いと存じます。」


 上官に意見するのは、初めてだった修一に汗が滴った。


「其の様な報告で御納得すると考えるか……。」


佐波さわ様の助言もあります。おうも納得されます。伊藤常継いとうつねつぐ殿にも、其のように報告します。」


 半田の顔は狂気的だった。

 己の主に絶対服従の意志が見えた。


「何故其処まで、寛大な処置が許されると考える。紅隆こうりゅうを匿ったのは事実。只我々の思惑と同じ時期に出奔があり明継殿が匿った。次期皇の佐波様の命令で倫敦留学を軍部は納得しない。」


 半田は真剣な目付きになる。同じ言葉を繰り返した。


「軍部は納得しない。我が主も納得はしない。佐波様と紅隆のどちらでも次の皇は構わないのだ。皇を失脚させようとする一派が阻止しようとしているだけに過ぎない。」


「異論申し上げます。」


 修一が背筋を正す。


「此の侭、伊藤明継殿に紅隆様を預け頂けませんでしょうか。佐波様の計画通り海外に渡し願えませんでしょうか。」


 修一が引き下がらない。

 半田が短く息を吐いた。


「あの方が目を掛けている林兵長の率直な意見だ。」


 半田は、珍しく立ち上がった。

 主に伝えようと、電話機の方へ向かった。

 半田は笑みを浮かべながら交換所の女性と話した後、主に繋ぐよう伝えた。


「旦那様。直ぐにでも連絡を……。」と云った。


 彼は電話機の前に立ち受話器を持ちながら、ハンドルを回して通信している。


 どうやら待ち人は電話機の近くにいないらしく、待ちの状態になった。

 相手が出るまで、多少の時間を有した。


「伊藤明継殿の件です。計画通り寄船場まで、行くようです。」


 半田の沈黙。


 修一は、起立した侭、微動だにしない。額から汗が流れ落ちるのも拭かない。


 少しの相槌の後に、電話機のラッパ口に手を当てる。


「はい、失礼いたします。」


 半田のハンドルを回す手が止まる。




 受話器を置き、机に向かい又腰を下ろした。


「貴方に良い御返事が頂けました。佐波様の計画通りにとの事。林兵長は紅隆の側に。」


「はい。」


 半田の言葉に素直に従う。


「失礼致します。」






 宮廷の部屋から出る。

 修一が前を向き直し、眉をねじ曲げ舌打ちする。


「あの狸が……。」


 前髪を掻き上げながら、又舌打ちした。修一の胸糞の悪さが治らない。

 踵を返し、脚を滑らせる。




 あんずの花の下。

 シガーレット缶から煙草を出した。燐寸マッチを取り出し、火を付ける。吐き出す煙は、外の寒さの為か白い。


「今何処まで行ってるだろうな……。」


 月を見上げた。

 杏の花は梅とよく似ている。だから明継が云う梅ノ木だと思った。


 長い時間、友を観察していた為か報告書は、明継の事ばかりになった。三年長い様で短い。


「やはり俺が着いて行けば良かった……。」


 又、前髪を掻き分ける。どうしょうもない独り言が止まらない。


 修一は月を仰ぎながら、煙草を吹かした。

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