過去 二十 母親

 扉から声がする。

 コッコッと叩きながら、懐かしい声。


「明継。」


 明継は部屋を横切って、声のする玄関へ足を運ぶ。

 シャナリシャナリと裾が擦れる音が聞こえる。

 幻聴かと思われたが、空耳ではなく、ただ懐かしい色合いの母の面影が頭を過る。まるで、鮮明な銀塩写真のように……。


「今晩は……。」


 儚げな声色が漂う。

 明継は直感で誰かが来たのか分かったので、ドアがゆっくりと開いた。其の人物の人相を確かめずに、抱き付く。

 其処には、華奢な肩をした明継の母親が立っていた。


「久しぶりです……。」


 感慨に喉が振るえる。

 母の何倍もある明継が寄り掛かるのは、とても苦しいはずなのに、嫌な顔一つせず。


「まぁ……。大きくなったのに、子供の様ね。」


 母は声高に笑った。

 気品に満ち溢れた母の態度は、何時に無く力弱い。

 招き入れて、紅に紹介すると照れ臭そうに微笑んだ二人。



 椅子が足りないので、書斎から引き擦って来た堅い座椅子に腰を下ろす明継。

「先生の御母上様ですね。」

 

 頷きながら紅は女性を余り、見詰めるのは失礼と視線を地べたに下ろしている。

 其れでも母の見事な着物の所為か、年若く見える所為か、紅の顔には恥ずかしさが見えた。


「明継。大きくなったのね……。本当に……。」


 明継が伊藤の家を出たのは、少年と男の境目ぐらいの顔立ちだった。頼りなさげな侭の後ろ姿で倫敦に向かった。


 母は近況では手紙や高価な写真を送ってもらっていたが、実際に会うのは早何年前であったろうか涙ぐんでいる母親の表情から、心配と何とも言い難い幸福が感じられる。


「仕事の方はどうなの……。」


 母の言葉に躊躇う事無く、大嘘を吐く明継。「大丈夫だよ。」軽く微笑む。


 端的に纏めた言葉が喉から出て来た。其れでも後悔はなく、母に心配を掛けた自分の不甲斐なさが、辛かった。


 自分の息子が罪人になる。明継は死ねるが罪人を産み育てたと云う現実を、母は知り周りの人間から迫害を受けるだろう。現在の地位や名誉家紋に泥を塗られ、剥奪される痛み。例え、恨みがある父親ですら、哀れで仕方ない……と明継は考えた。


「順調だよ。」


 目の前まで来ている逮捕を隠すように、笑いながら嘘を吐く明継。

 此れから残される痛みを与え、其れ以上に馬鹿な息子を持った親の苦しみを、犯罪者の親である未来を、彼は自分の親に与えるのであると明継は心の中で何回も何回も、謝罪を繰り返した。


 心ですら弁解が出来ない。


 母親は手に抱えていた重箱を風呂敷包みから解くと、机の中央に置く。

 幼い頃大好物だった煮物が下段いっぱいに詰め込まれていた。中段には、厚焼き卵佃煮。上段には、御節料理の品目が並んでいた。どれも此れも明継が好きだった物だ。


「御免なさいね。昔の好物しか思い出せなくて……。」


 謝った母にイタタマレなくなった明継は、土下座して弁明したい気持になったが、其れは出来なかった。

 男子の誇りではなく、ササクレた少年時代と逃げた青年時代しか側に居なかった無念さと、親孝行も出来ないのが申し訳なかった故にしなかった。


「どうぞ」


 明継の母が差し出す箸を受け取る指が震えた。


 紅は明継の異変に気が付いていたようだった。

 母の前である為か、借りて来た猫のようになっていた。


 母は紅に付いて何も聞かなかった。

 普通、日本に帰国した男がこんな成人にも満たない少年と同居している方が可笑しく、紅の家族の有無を質問されるのが落ちである。


 皇院おういんとして一般に公表されていない紅は怪しい人物でしかないはずだった。だが、母は全てを知っているかのように微笑んでいた。


「今日は電車で。」


 箸を止める事無く明継が母に尋ねる。


「えぇ……。」


「終電に間に合うように御送りします。」


 不思議そうな顔付きで紅が、明継を見た。

 母親の返答を待つ余裕もなく紅は、明継の耳元で呟いた。


「先生、今日は御泊めするのでは。」


「父が五月蝿いですから、今日中に帰られた方が……。」


 形だけでも理由を付けた。

 本心は息子の逮捕と云う不名誉を目前で見る事もないだろう。風の噂で聞いた方が少しは、心持ち楽な気がするのでは……と考えた明継。最後の心使いのつもりだった。


「いいえ、御泊めした方が良いです。先生も久しぶりでしょうに……、律之りつのも其う云います。」


 紅が母を見詰めて問う。


「御泊まりになって下さい。」


「そうね。」


 母は、小さく微笑んだ。

 しかし、泊まるとなると和室しかない。紅は自室を片付けに其の場を離れた。


「急に来るなんて、驚いたよ。」


 一脚空いた椅子を見ながら、明継が話す。


常継つねつぐがね。国鉄の切符を取ってくれたのよ。九州から本土まで最寄りの駅まで船で出てね。天都てんと何て初めてだから、こんなに遅くに、明継の家に着いた訳。私は、九州から出るとは思わなかったから……、楽しかったわ。」


「次男の兄さんが……。」


「必ず明継の家に行ってくれって云われたの。天都に行くのですもの、必ず遇いに行くわよ。住所も常継が教えてくれたのよ。」


 慶吾隊員けいごたいいんである兄が、母を寄越した。


 明継は感謝して良いのか、微妙な表情をした。


「先生。準備出来ました。先生の……母上様は浴衣を持ちですか……。」


「母上様何て堅苦しい呼び方しなくて良いのよ。紅ちゃんは士族ではないでしょ。母さんで十分よ。」


 母親は微笑んだ。

 明継は紅から両親の事は聞いた試しがないと思った。


「おかあさん……。」


 紅が赤くなって呟いた。


「紅ちゃん、浴衣ならきちんと持ってきてますよ。」


 紅と母親の会話も少なからずあった。

 明継は耳を傾けたが、紅が初々しく可愛らしい態度に、上の空で内容を正確には記憶していない。


 明継は気丈な母だと実感した。

 兄から聞いていたとは言え、得体の知れない人物と同居していると知ったら、祖母や叔母なら卒倒する。

 其れなのに、母は平然と紅と話を交わしている。

 母と話している時間は、明継にとって十分ではなかった。もっと、こうして話したいと思わせた


「もう少し長く話して居ても良いのに……。」


 明継が名残惜しそうにしている。


「まだ幼い紅ちゃんには、早く寝させないと。」


 平然としていた母。

 確かに事情を関知していない母には、何時でも会える存在でしか二人はないのかもしれないと思った明継。


 母はあくまでも笑っている。紅の部屋に向かうと二人に振り返った。


「おやすみ」


 母は紅の部屋の襖を閉めた。

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