過去 十 苛立ち
悩んでいたが、
見慣れた景色が辺りを流れる。渇いた大地に
庶民は
家の前に立つと、かくしの中から、紙の切れ端が顔を覗かせた。
明継は完全に忘れていた。
紅から買い出しを頼まれていたのである。しまったと顔に書いてある。
ドアを開けた瞬間に『先生、材料は。』と聞かれるに違いないと渋々足を進めた。
階段で何度も、もう一度、買い物をしに出直そうかと思い直したが、無駄な
革靴が一歩一歩、階段に当たって、足取りを重くした。
腹を
「ただいま……。」
明継は、少し小さめの声で部屋に入った。
違和感のある空気が頬に伝わった。其の違和感が何かを示すのかは直ぐに分かった。
驚きで息が出来なくなる。やっとの思いで、息を細く吐くと、見開いた目から水分が飛んで乾燥し始めた。
「紅、
叫びは
息を浅く吸い込む。
発作に近い状態になる。呼吸が普通に出来ない。
「紅。」
思い切り叫ぶと、明継は
何時も直ぐに出て来る存在がいない。
何処にもいない。
部屋の扉を、
部屋の中を
不安が一層深まった。必死に冷静になろうと努力はしたが、心は裏腹に動く。
室内を見回すと、窓やドアが
「何処にいる。紅。」
誘拐、強盗、拉致、色々な可能性を考える。
明継は、地べたに座り込み、腰が抜けて、泣き崩れるかのように、腹ばいになった。
痛みで我を忘れるのを望んでいるかのように……。何度も何度も。
痛みすらしない手が、色合いだけを鮮やかにした。肉が
骨が
物音と
其ちらの方を即座に振り返る。明継に、紅の大きな瞳が向けられた。
「どうしたのですか……。先生。」
驚きの眼が近づいて来る。
明継の
紅は慌てて救急箱を取りに行き、明継の横に座った。
「先生、
明継の拳には出血の色が痛々しさを伝える。指と指が直角に曲がった侭、動きが鈍い。
呆然と、明継は手当てする紅の横顔を
「紅。」
呆然とした侭、の明継は、一生懸命、包帯を巻く紅を、まだ見詰めている。
「どうしたのですか。先生。床なんか殴って……。帰ってきたら、倒れているし、……。死んでいるかと思いました。」
「紅……、本物。」
「えぇ。本物です。」
意味も分からず笑いが出る明継。
渇いた笑いが部屋を
「本物……。紅。しかし、どうして部屋に居なかったのです。外出をするなんて……、今までなかったのに……。」
上から
瞳が
「
玄関付近で散らばる食材、手持ち袋から野菜が、転がり出て来ていた。
「其うでしたか……。私は
「部屋の中でですか。其れは、
「どちらでも良いのです。こうやって
又、笑い出す明継。
「此れ、
天井を仰ぎ見て、紅が明継の目前に黒い鍵を突き出した。明継の顔の上に乗せる。
「
愛らしく微笑む紅。嫌みっぽく
「分かりました……。預かります。」
額から鍵を取ると、床に転がした。
紅が帰って来たのが、純粋に嬉しかった。
笑みが何時までも顔から離れない。其れでも、不安は付いて来た。笑えども幸福にはならない。
「申し訳ないのですが……。抱き締めても良いですか。」
「
傷ついた腕で、紅を引き寄せる。
紅の上半身がバランスを崩し、明継の胸へと、
明継の
「
其の体勢の侭、紅は話をした。
「
「慶吾隊が動いているのは心配です……。皇院の誰かが私を
話す度に暖かい息が、漏れる。
明継は愛おしく、優しい表情になった。
胸の奥底から、幸福感が
「慶吾隊なら、紅に危害は加えないはずです。」
「
「何時も、私と一緒にいたからですよ。」
「いいえ。其うではなくて……。」
声を引き締めて、紅は
紅の話をもう少し聞きたかったが、
「食事の
と言い残し、明継の腕の中から離れた。
紅の表情は
紅は何を
だが、無理に聞き出して、紅が傷付くなら、見ぬ振りをしようと腹を
「佐波様が会いたいと
「聞こえません。」
と台所で紅が云うと、炊事場に重い腰を上げて、明継は向かう。
其の前に、靴を玄関に置き、転がっている食材と、鍵を
紅の背中を確認できる位置で、壁に
「佐波様が会いたいって……。」
水場でシャッを
「どうする。」
「えぇ……。」
紅の腕だけが止まらない。受け答えはするが、明継の方に正面を向けなかった。
「どうする……。」
「えぇ……。其うですね……。」
明継は立っているのが
炊事場に立つ紅の背は、とても
「先生なら、どうしますか。もし会うなら何時に、会いに行きましょうか。」
「深夜に迎えがきます。佐波様が信頼できる者を出してくれるそうです。近々に……。」
「ですか……。」
紅の態度から乗り気ではないのが
其の上、連れ出した明継が其れを
「先生……。
「さぁ。
紅は
「先生と引き離されるなら、戻りたくはありません……。」
ぽそりと本音が出た紅。
動揺の色が背筋に現れているが、明継は紅の安全を考えた。事情も伝えず、従えと云うのは
「大丈夫……。」
節の話を
其れを承知で佐波様は紅に会いたがっているのだと……。其れならば、明継は従うしかない。
「先生は、どう
「えっ……。」
紅の背中が話すが、不意の質問に明継は答えに
「何が。」
「いえ……。何でもありません。出来上がってから呼びますよ。先生。」
紅は、顔だけを明継に向ける。
歩みを進めて何時もの居間に向かった。
紅の
明継は本に紐を忍ばせ、机に置く。
中央には
明継は常用者でなかったにしろ
「今日はやけに疲れたな……。」
上着を脱ぎ捨てて、足を放り投げた。
一番楽な姿勢で
昔良く、母に
今では身の回りの事を紅に任せっきりにしている姿を叱るだろうか。紅の前では母と同じ様な行動を取っているのが、面白くて仕方ない。母に対する愛情が紅に移行したのかもしれない。
「行儀悪すぎです……。」
驚いて、声の主を見た。
紅がお盆を持って、明継の前まで来ていた。
「ごめん。御免。」
明継は立ち上がり、紅の側に寄る。
低めの机に、紅は
初めて明継と外出した記念にしようと考えた
祝ってくれる気持ちを、喜ぶだけの気力は、先程、紅を抱き締めた時に、補充した。
「先生、どうぞ……。」
「あぁ。すみません。こんな時間になるまで、待たせて……。」
自分の
『いいえ。』と紅は首を振る。
紅は
「何が
「否。昔良く母と、
「其うなのですか。」
「えぇ。其うだ……。紅の両親はどんな人でしたか。今まで聞いた事ないですし……。」
紅は驚きに満ちた瞳で彼を見たが、明継は箸で味噌汁の具を食べていた。
芋を口の中に
「どうしました。紅。」
返答すらしない紅に変な事でも聞いたかと、後悔する。弁解をする上手い
仕方なく
「男親は……。」
紅が重い口を開いた。
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