空に近い場所 ~in the Blue Sky~

私は、さして高くないフェンスを乗り越える。

下から吹き上げてくる風が髪を乱す。

目が眩みそうな光景が見える。

遥か眼下に見える地上。

ここから落ちたら多分死ねるだろう。

私は、ため息を吐く。

まだ、決心が着きかねる。


何が、私を留まらせると言うのだろう。


恐怖だけだ。

生きていたいわけじゃない。

死にたいのに、死ぬのが怖いだけ。

それだけ。

この臆病さも、死にたい理由の一つかもしれない。

それが、死ぬのを留まらせているなんて、なんだか可笑しい。

私は、頬笑んで見る。少し、無理やりに。

それでも恐怖は、薄らいでいった気がした。

死ぬには悪くない気分かもしれない。


死んだらどうなるのだろう・・・。


いや、もう考えるのは止めよう。

早く終わらせよう。

私は、片足を一歩前に出す。

そこは、もう空中。何も無い。このまま・・・。

「落ちるよ」

突然の声に驚き、振り向こうとする。

バランスを崩して、そのまま落ちそうになった。

私は、なんとかフェンスの網を掴み、それに倒れ掛かる。

フェンスが音を立てる。

私は、ため息を一つゆっくりと吐く。

心臓の動悸が激しい。


死のうというのに、それを恐れてしまった。


いや、これはただ驚いただけだ。

決心は、できていたのだから。

私は、怒りが込み上げてくるのを感じながら、声の主を求めた。

相手は、フェンス越しにすぐ目の前にいた。

驚いたような顔で、こちらを見ている。若い男だ。

「危なかったね。一瞬、落ちたかと思った」

彼は、言った。

「放っておいてください」

私は、顔を背けながら答えた。

「何を?」

「私のことをです」

この男は、何をしているのだろう。

私を止めにきたのか。

それなら面倒なことになった。静かに死にたかったのに。

私は失望する。日を改めようか。

「いいけど、とにかくこっちに戻ったら? そこから落ちたら死ぬよ、多分」

失望は、この男への怒りを一層高めた。

「死ぬつもりなんです。いいから放っておいてください!」

興奮して、叫んでしまった。

言葉が口を吐いてから、後悔した。

男は、私が死のうとしていることには勿論、気付いているだろう。

それでも、その私の意思が相手に明確に伝わってしまうのは、ばつが悪かった。


「どうして?」

男が聞いた。

私は答えない。

「どうして、死ぬつもりなの?」

男は、もう一度聞いた。

無言の時間が過ぎていく。

「あなたには関係ありません。放っておいてください」

私は、相手を睨みながら言う。

男は、私を真っ直ぐに見返してくる。

私は、視線を落として、今までよりも少し小声で続けた。

「放っておいてください」

何故か、急に熱が冷めたようだった。

さっきから同じ言葉を繰り返している自分が馬鹿みたいだった。

「どうして、死ぬつもりなの?」

男は、また聞いた。

私は、男の顔を盗み見るように少しだけ見ると、フェンス越しに背を向けた。

空と遠い地上が見える。

同じものを見ているのに、さっきまでとは違う光景のように感じた。

今日は、もう自分が死ぬことができないことを悟った。

死ぬ気が無くなってしまったようだ。

この男の所為だ。タイミングが悪い・・・。

さっきまでのこの男に対する怒りは、もう消えてしまっていたが、

そう考えると、また少しだけ腹が立った。

「どうし」

「なぜ人は、生きているんですか?」

男の言葉を遮って、逆に質問する。

「なんのために生きているんですか?

 いつかは死んでしまうんなら、今死んでしまってもいいじゃないですか?」

私は、自分が自棄になっているのに気付く。

「そうだね」

男の声は優しかった。

「もう、放っといてよ・・・」

でも、それ以上の言葉は続けて出てこない。

沈黙が続く。

私は、耐えられなくなって後ろを振り返った。

「それはさ、どうやって答えを求めるのかに寄って、答えは変わるんじゃないかな」

私が振り返るのと、ほぼ同時に男が言った。

「どうやって?」

私は、自然に聞き返していた。

「う~ん」

なぜか男は悩んでいる。

「答えは、変わるものなんですか?」

「そうだね。答えと言えるものなら幾らでもあると思う。

 ただ、足場の悪い屋上の端で考えて出す答えと、

 どっかでゆっくりコーヒーでも飲みながら出す答えも、

 多分、違ってくるんじゃない?」

そこまで喋ると、男は私を真っ直ぐに見て言葉を続けた。

「だからさ、どこかの喫茶店にでも行って、ゆっくり話さない?」

「これから死のうという相手をナンパですか?」

私は、呆れながら答えた。

「ナンパかぁ。そうかもね」

そう言って、男は頬笑んだ。

「あ!」

私が答えに窮していると、何かを思い出したように男が突然叫んだ。

「そういえば、ちょっと用事があったんだ。

 ・・・そうだな、それじゃ、すぐ行くから先に行って待っててくれない?」

そう言うと男は、近くの喫茶店の名前を告げて、急いで行ってしまった。

私は、呆然としながら一人、取り残される。

「え? え? なんなの・・・」

階段を駆け降りる男の足音が、まだ聞こえてくる。

私は、屋上の端から下を覗く。

約束の喫茶店が見える。

私は、空へと視線を上げる。


なんのために生きているのだろう?


そう、呟いてみる。

勿論、答えは返ってこない。

ただ、空は青いだけ。

でもその青は、宇宙が透けて見えるようで美しい。

私は、深く呼吸する。

そして、ゆっくりと屋上を後にする。

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【掌編小説集】眠れない夜にちょっと読む話 織隼人 @orihayato

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