第37話

「失礼いたします」

 女将おかみの声がしたのは、言い終えてしばらく経ったあとだった。

「どうぞ」

 返事をしたら、すっとふすまが開いた。

「お料理をお持ちいたしました」

「お願いします」

 女将が合図をしてすぐ、そろいの藤色の着物を着た女性が二人部屋に入ってきた。香ばしい醤油の香りと出汁のいい匂いが鼻を掠めた直後、不覚にも胃がきゅうと鳴る。

 仲居の一人が卓上コンロをセットすると、もう一人が蓋がない鉄鍋を上に置く。すき焼き用と思われる鍋からは、白い湯気が立ち上っていた。

「クツクツ煮だしたらお召し上がりください。それでは失礼いたします」

 女将はそう言って鍋を持ってきた女性とともに部屋を出た。再び二人きりになった部屋には、鍋を熱している炎の音しかしない。

遼子りょうこさんは、うどんはコシが強い方が好きですか? それとも柔らかいほうが好きですか?」

「え?」

 唐突に聞いたら、遼子は驚いたような顔をした。

「わ、わたしはどちらでも……」

「それなら良かった。讃岐うどんはコシが強すぎる。でも伊勢うどんだと柔すぎると難癖を付ける男がいましてね。うどんが食べたいときに誘いづらくて……」

「それって、もしかして藤田ふじたさん、ですよね?」

「そう、当たり」

 言葉を返したら、戸惑い顔だった遼子の表情がすっと真面目なものになった。

間宮まみやに会わせていただきありがとうございました。本音を言えば、ずっと彼女のことが気がかりでした。仕事を丸投げしてしまったので」

「いえいえ。僕はただ高崎たかさきくんに乗せられたようなものです」

 そう、高崎はこうなることを見越して自分に間宮を会わせたに違いない。そんな気がしてならなかった。

「でも、先ほど言った言葉は僕の本心です。二心ふたごころはありません」

 だが、高崎の意図はわからない。自分と重なっているとは思うけれど、

 高崎は、遼子を連れ戻すために画策した富沢とみざわが手を引かざるを得ない状況を作ったはずだ。が、それは決して正攻法ではないのは明らかで、まだ自分のところに来るかどうかわからない彼女のためだけにそこまでしたとは思えない。遼子の真摯なまなざしを受け止めつつ高崎のことを考えていたら、

「別所さんの考えはわかりました。でも、高崎さんは少し違っているような気がします」

 別所は遼子を注視した。

「実は、間宮と話をしたあと高崎さんとも話をしたのですが、そのときどう取っていいかわからない話があって……」

「どんな話です?」

 尋ねると遼子は言いにくそうに話し出した。

「これからどうするか、高崎さんは二つの選択肢を口にされました。ひとつは昔にこだわらずこれからのことを考えること、そしてもうひとつは高桑がなぜ間違った行動をしたのか、その理由を聞くというのがあったんです」

 間違った行動とは、遼子の悪評を吹聴したことだろう。間宮からは、彼がそのような真似をしたのは、遼子からクライアントを奪うためだと聞いているが、それ以外の理由があるのだろうか。

「その理由について高崎君は何か言っていましたか?」

 遼子は暗い顔で頭を横に振る。

「はっきりとは言いませんでしたが、彼がそうした理由があるような言い方でした」

「そうですか……」

 なぜ高崎は遼子に二つの選択肢を示したのか。これではまるで別れた男に会った方がいいと言っているようなものだ。

 高崎は何を掴んでいるのだろう。そしてどのような展開を望んでいるのか。いくら考えても分からず別所は途方にくれる。

「それで、遼子さんはどうしたいんです」

 遼子は迷っている。高崎が示唆した真実を知りたい気持ちがあるということだ。

「どうしたらいいのか、わからないんです……」

 遼子は言いにくそうに答えた。

「離婚する際、高桑氏と話をしましたか?」

「いえ……。彼が離婚に応じざるを得ない状況を作りましたから、話し合いはしていません」

 どのような状況を遼子が作ったのかは分からないが、かつて自分も別れざるを得ない状況になったことがある。ある日突然妻の代理人である弁護士がやって来て、離婚届を差し出されたのだから。

「じゃあ、僕とは反対の立場ですね」

「え?」

「僕は、妻から離婚を切り出された男なので」

 遼子は驚いたような顔をした。

「会社を立ち上げた頃でしたので、早く軌道に乗せて妻を安心させたかったのですが裏目に出たんです」

 その頃を振り返ると苦笑いしか出てこない。頑張れば頑張るほど大切にしたい相手との距離が離れてしまい、最後には望んだ未来が消えてしまったからだ。

「だからといって離婚したくないと言えませんでした。彼女が離婚を決めるまで追いつめてしまったのは僕なので」

 そう、だから離婚に応じた。夫婦という関係から彼女を解放してあげたかった。

「だからもしかしたら、高桑氏にもそういう理由があったかもしれませんね」

 言い終えたタイミングで、ぐつぐつと煮立つ音がした。

「ああ、できがあったようです。食べましょうか」

「は、はい」

「熱いので気をつけてくださいね」

 ちらりと遼子に目をやると、

「わかりました」

 彼女はぎこちない笑みを浮かべていた。

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12本のバラをあなたに 谷崎文音 @ayanetanizaki

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